『俺達のグレートなキャンプ159 人に化けた狐と(気づいてるけど気づかないフリして)キャンプしよう』

海山純平

第159話 人に化けた狐と(気づいてるけど気づかないフリして)キャンプしよう

俺達のグレートなキャンプ159 人に化けた狐と(気づいてるけど気づかないフリして)キャンプしよう


「いやいやいや! 今回のは流石におかしいって!」

富山が両手を大きく振りながら、石川の企画書(手書きの落書きみたいなメモ)を指差して叫んだ。その企画書には、狐のイラストと人間のイラストが矢印で結ばれ、『化ける』という文字が躍っている。周囲には『気づかないフリ』『狐鍋は禁止』などと意味不明な注意書きが散りばめられていた。

「おかしくないって! むしろグレートだって!」

石川は胸を張り、キャンプ場の受付で貰った薪を豪快に地面に置いた。ここは富山県と石川県の県境近くにある山間のキャンプ場。紅葉が色づき始めた十月下旬、平日の昼下がりとあって利用客はまばらだ。遠くで家族連れが一組、バーベキューの準備をしているのが見える。

「でもさぁ、石川。人に化けた狐って、どこから連れてくるの?」

千葉が首を傾げながら訊ねた。彼の表情は疑念ではなく、純粋な好奇心に満ちている。新品のアウトドアチェアを組み立てながら、目をキラキラさせていた。

「それなんだよ!」

石川は人差し指を天に突き上げた。その動作があまりにも勢いよく、近くのテントのペグを打っていた中年男性が驚いて振り返った。

「昨日な、このキャンプ場の管理人さんに電話したら、『最近、妙な女性がうろついてる』って言うんだよ。でも誰も予約してないし、受付も通ってない。しかも尻尾みたいなのがチラチラ見えるって」

「それ、不審者案件じゃん! 通報案件じゃん!」

富山が顔を青くして叫んだ。彼女のショートカットが秋風に揺れる。手に持っていたテントポールをガタガタと震わせている。

「違う違う! これは絶対、人に化けた狐だって! で、俺は思ったんだ。狐って寂しがり屋なんじゃないかって。だから人に化けてキャンプ場をうろついてるんだって!」

「その発想はどこから来たの!?」

「狐と狸とタヌキとキツネの民話を三十話くらい読んで得た知見だ!」

石川はドヤ顔で答えた。その自信満々な表情に、富山は頭を抱えた。

「タヌキとキツネは同じじゃん! しかも狐と狸も被ってるじゃん!」

「細かいことは気にするな! 大事なのは、その狐を俺達のキャンプに誘って、気づいてるけど気づかないフリをしながら、一緒に楽しい時間を過ごすってことだ!」

石川の言葉に、千葉が大きく頷いた。

「いいね! 狐さんも仲間に入れてあげよう! でも、なんで気づかないフリをするの?」

「それはな」

石川は急に声を落とし、二人に顔を近づけた。富山と千葉も思わず身を乗り出す。

「狐にとって、自分の正体がバレるのは恥ずかしいことなんだよ。だから気づかないフリをしてあげることで、狐は安心して人間との交流を楽しめる。これぞ究極のホスピタリティ! グレートなキャンプとは、人間だけじゃなく、妖怪とも共存するキャンプなんだ!」

「妖怪って言っちゃった! もう隠す気ないじゃん!」

富山のツッコミも虚しく、石川は既にテントの設営を始めていた。慣れた手つきでフレームを組み立て、あっという間に大型のファミリーテントが姿を現す。

「それで、どうやって狐を誘うの?」

千葉が興味津々で訊ねた。彼は既に石川のペースに完全に乗っている。

「油揚げだ!」

石川はクーラーボックスから、大量の油揚げを取り出した。スーパーのトレイに入った油揚げが、十パックはある。

「買いすぎでしょ! 普通のキャンプでも使い切れないよ!」

「これを焚き火で炙って、その香りで狐を誘き寄せるんだ! 狐は油揚げが大好物だからな!」

「それ、お稲荷さんの話でしょ!? 野生の狐が油揚げ好きかは分からないでしょ!?」

富山の至極真っ当なツッコミに、石川は不敵に笑った。

「富山、お前は本当にロマンがないな。これは賭けなんだよ。もし狐が油揚げに釣られて来なかったら、俺達が油揚げパーティーをするだけだ!」

「どっちに転んでも地獄じゃん!」

そんな会話をしている間に、千葉は既に焚き火の準備を始めていた。石を円形に並べ、焚き付け用の細い枝を集めている。その熱心な姿を見て、富山は深いため息をついた。

「千葉も完全に乗せられてるし...」

「富山さん、これ面白そうじゃない? もし本当に狐が来たら、すごい思い出になるよ!」

千葉の屈託のない笑顔に、富山は何も言い返せなくなった。結局、いつもこうだ。石川の突拍子もない企画に、千葉が無邪気に賛同し、自分一人が冷静なツッコミ役になる。でも、不思議と嫌いじゃない。むしろ、この三人でいる時間が、富山にとっても楽しいのだ。

「はぁ...分かったよ。じゃあ、狐が来たとして、どうやって『気づかないフリ』をするの?」

富山の質問に、石川は再び企画書を広げた。

「いいか、これは高度な演技力が求められる。まず、相手が明らかに人間じゃないと分かっても、絶対に驚いちゃダメだ。尻尾が見えても、耳が尖ってても、『そのファッション可愛いですね』程度のリアクションに留める」

「ハードル高い!」

「次に、相手の話に矛盾があっても追及しない。例えば『私は東京から来ました』って言ってるのに、箸の使い方が江戸時代みたいでも、『伝統的な作法なんですね』で済ませる」

「江戸時代の箸の使い方って何!?」

「そして最も重要なのが」

石川は真剣な表情で二人を見つめた。

「絶対に『正体を明かせ』的なプレッシャーをかけない。狐が人間として振る舞いたいなら、最後まで人間として扱う。これが俺達のグレートなホスピタリティだ」

その言葉には、意外にも真摯さが込められていた。富山は少し驚いて石川を見つめた。彼の企画はいつも奇抜で突拍子もないが、根底には「誰かを楽しませたい」「誰かと繋がりたい」という純粋な思いがある。それを分かっているから、富山は毎回付き合ってしまうのだ。

「...分かった。やってみよう」

富山の言葉に、石川と千葉の顔がぱっと明るくなった。

「よっし! じゃあ早速、油揚げを炙るぞ!」

石川が火起こしを始めた。慣れた手つきでファイヤースターターを使い、すぐに焚き付けに火が移った。パチパチと弾ける音が心地よい。千葉が薪を追加し、程よい大きさの炎が育っていく。

富山は油揚げを金串に刺し始めた。一つ、二つ、三つ...気づけば二十本近い油揚げ串が完成していた。

「多すぎない?」

「大は小を兼ねるって言うだろ」

石川はにやりと笑い、油揚げ串を火にかざし始めた。じゅうじゅうと音を立てて、油揚げが黄金色に色づいていく。香ばしい匂いがキャンプ場に漂い始めた。

すると、遠くの家族連れがこちらを見て首を傾げているのが見えた。

「あの人達、絶対『何やってんだろう』って思ってるよ」

千葉が小声で言った。

「気にするな! 俺達はグレートなキャンプをしてるだけだ!」

石川は堂々と油揚げを炙り続けた。その姿はどこか誇らしげで、富山は思わず笑ってしまった。

三十分ほど油揚げを炙り続けただろうか。日は少しずつ傾き、キャンプ場に長い影が伸び始めた。しかし、狐らしき存在は一向に現れない。

「石川、もしかして来ないんじゃない?」

富山が不安そうに言った時だった。

「あの...すみません」

三人は一斉に声のした方を振り向いた。

そこには、二十代後半くらいの女性が立っていた。長い黒髪に、どこか古風な印象の着物風のワンピース。顔立ちは整っているが、どこか野性的な雰囲気がある。そして何より、彼女の後ろには―

「わぁ! その尻尾みたいなアクセサリー、可愛いですね!」

千葉が即座に反応した。完璧な演技だった。富山も慌てて頷く。

「ほ、本当だ! どこで買ったんですか?」

女性の後ろには、明らかに尻尾が揺れていた。ふさふさとした、赤褐色の尻尾が。しかもよく見ると、耳も少し尖っている。いや、かなり尖っている。というか、それは人間の耳じゃない。

「あ、これは...その...手作りで...」

女性は困ったように笑った。その仕草には、どこか愛らしさがある。

「油揚げの匂いがして、つい...こちらに来てしまいました」

「あ、よかった! 実は油揚げパーティーをしようと思ってたんです! 一緒にどうですか?」

石川が爽やかに誘った。その表情からは、「お前絶対狐だろ」という思いは微塵も感じられない。完璧な演技だった。

「え、でも、私、知らない人ですし...」

「キャンプ場での出会いは一期一会! 良かったら一緒に楽しみましょう! 僕、千葉って言います!」

千葉が元気よく自己紹介した。その後、石川と富山も続く。

「俺は石川。こっちは富山」

「富山です...あの、お名前は?」

女性は少し考えてから、答えた。

「...小春、です。小春と呼んでください」

明らかに今考えた名前だった。しかも季節感が微妙にずれている。十月下旬に小春はちょっと早い。でも、三人は何も指摘しなかった。

「小春さん、どうぞこちらへ!」

石川がチェアを一つ追加で出し、焚き火の周りに並べた。小春は恐る恐る座る。その動作がどこかぎこちなく、まるで椅子というものに慣れていないようだった。

「はい、炙りたての油揚げです!」

千葉が串を渡すと、小春の目が輝いた。明らかに、異常なほど輝いた。瞳孔が一瞬縦長になった気がしたが、富山は見なかったことにした。

「い、いただきます...」

小春が油揚げに齧りつく。その食べっぷりは凄まじく、一本を十秒で平らげた。

「美味しい...こんなに美味しい油揚げ、初めて...」

その言葉には嘘がないように聞こえた。小春はうっとりとした表情で、二本目、三本目と油揚げを頬張っていく。

「小春さん、油揚げ好きなんですね!」

千葉が嬉しそうに言った。

「はい...大好きです。子供の頃から...」

「どちらから来られたんですか?」

富山が訊ねると、小春は少し考えてから答えた。

「あ、あの山の方から...」

彼女が指差したのは、キャンプ場の裏手にある深い森だった。明らかに人が住んでいる場所ではない。

「登山されてたんですか?」

「そ、そうです! 登山です! 山登りです! 山が好きで!」

明らかに取り繕っている。しかも同じ意味の言葉を三回繰り返している。でも、三人は優しく頷いた。

「いいですね、登山! 僕も興味あるんですよ」

千葉のフォローが完璧だった。小春はほっとしたように微笑む。

「でも、小春さん、登山の格好じゃないですね」

富山が言うと、小春は慌てて自分の着物風ワンピースを見下ろした。

「あ、これは...下山してから着替えて...」

「そうなんですね。でもその服、素敵ですよ。古風で」

「ありがとうございます...実は、これ、百年くらい前の...」

「アンティークなんですね!」

石川が素早くフォローした。小春は「そ、そうです! アンティークです!」と慌てて頷いた。

会話は続いた。油揚げは次々と消費され、小春は十五本ほど平らげた。その食欲は人間離れしていたが、誰も何も言わなかった。

「小春さん、キャンプはお好きですか?」

「キャンプ...これが、キャンプ...」

小春は周りを見回した。テント、焚き火、調理器具。彼女の目には、全てが珍しいもののように映っているようだった。

「初めてですか?」

「はい...ずっと見てみたかったんです。人間たちが、いえ、人々が、こうやって火を囲んで楽しそうにしているのを...」

「人間たちって言いました?」

富山が思わず突っ込みそうになったが、石川が素早く話題を変えた。

「じゃあ、今日は一緒にキャンプを楽しみましょう! 富山、カレーの準備、頼む!」

「え、カレー作るの!?」

「キャンプと言えばカレーだろ! 小春さんも食べますよね?」

「はい! ぜひ!」

小春は嬉しそうに尻尾を振った。いや、「尻尾みたいなアクセサリー」を揺らした。三人はそう認識することにした。

富山がカレーの準備を始めた。タマネギを切り、ジャガイモを剥き、ニンジンを刻む。その様子を、小春は興味深そうに眺めていた。

「これが、料理...」

「小春さん、料理しないんですか?」

「私は普段、生で...いえ、その、インスタント食品ばかりで...」

また怪しい発言だったが、誰も追及しなかった。

千葉は飯盒でご飯を炊き始めた。焚き火の脇に飯盒を置き、火加減を調整していく。その横で、石川は謎の準備を始めていた。

「石川、何してるの?」

「夜のアクティビティの準備だ!」

彼が取り出したのは、大量のペンライトと、手作りのお面だった。狐のお面が五つほどある。

「これで狐面ダンスをやるんだ!」

「何それ!?」

「俺が考えたオリジナルダンスだ! 狐をテーマにした、グレートなダンス!」

小春の表情が微妙に強ばった。狐をテーマにしたダンスを、本物の狐の前でやろうとしているのだ。これはまずいのではないか。

「あの、それは...」

小春が何か言いかけた時、石川が彼女に狐のお面を差し出した。

「小春さんも一緒にどうですか? 楽しいですよ!」

「わ、私も...?」

「もちろん! せっかくの出会いですから!」

小春は困惑しながらも、お面を受け取った。それは精巧な作りの狐面で、おそらく石川が前日に徹夜で作ったものだろう。富山はそう推測した。

「石川、これ、いつ作ったの?」

「昨日の夜に。グレートなキャンプには、グレートな小道具が必要だからな!」

やはりだった。富山は呆れながらも、その努力に少し感心した。

カレーが完成した。大鍋いっぱいのカレーに、炊きたてのご飯。湯気が立ち上り、食欲をそそる香りが漂う。

「いただきます!」

四人で声を揃えた。小春は初めは戸惑っていたが、他の三人に倣って手を合わせた。

「美味しい...」

カレーを一口食べた小春が、目を潤ませた。

「人間の作る食べ物って、こんなに...こんなに温かくて、美味しいんですね...」

また「人間の」と言ってしまったが、誰も気にしなかった。むしろ、石川は満足そうに笑った。

「美味しいでしょ? これが俺達のキャンプだ。美味しいものを食べて、焚き火を囲んで、くだらない話をして笑う。それが最高なんだ」

「くだらない話...?」

「そう! 例えば、千葉の昔話とかな」

「え、俺?」

千葉が驚いた顔をすると、石川はにやりと笑った。

「お前、高校の時、好きな子に告白しようとして、間違えて担任の先生に『好きです!』って言ったよな」

「やめてよ! それ!」

千葉が顔を真っ赤にして叫んだ。小春がくすくすと笑う。その笑い声は、鈴を転がすように美しかった。

「先生、どんな反応したんですか?」

小春が楽しそうに訊ねた。

「『お前のこと、生徒として好きだぞ』って真面目に返されて、その場で死にたくなりました...」

四人で大笑いした。笑い声が夜空に響く。いつの間にか日は完全に沈み、星が瞬き始めていた。

「富山さんは? 何か恥ずかしい話、ないんですか?」

小春が訊ねると、富山は少し考えてから答えた。

「私? 私はね、大学の時、石川を初めて見た時、女の子だと思ってたの」

「え!?」

石川が驚いた顔をした。

「だって、石川って名前だし、遠くから見たら髪長かったし! それで友達に『あの可愛い子、誰?』って聞いたら、『あれ男だぞ』って言われて、恥ずかしかった...」

今度は石川が顔を赤くした。千葉と小春が笑い転げる。

「ま、待て! 俺、そんなに女顔じゃないだろ!?」

「いや、当時は結構中性的だったよ」

千葉が同意すると、石川はますます恥ずかしそうにした。

会話は続き、夜は更けていった。焚き火の薪を足し、炎が揺らめく。その光の中で、四人の顔が温かく照らされている。

「小春さんは、何か話してくれませんか?」

富山が訊ねると、小春は少し考えてから口を開いた。

「私...実は、ずっと一人だったんです」

その声には、寂しさが滲んでいた。

「家族や仲間とは、ある理由で離れ離れになって...それから、ずっと一人で山の中に住んでいました。たまに人里に降りて、こうやって人々が楽しそうにしているのを遠くから見ていて...」

「寂しかったんですね」

千葉が優しく言った。

「はい...でも、今日、皆さんに出会えて...こうやって一緒に食事をして、笑って...とても嬉しいです」

小春の目に、涙が光った。それは演技ではない、本物の涙だった。

石川は静かに立ち上がり、狐のお面を取り出した。

「じゃあ、約束通り、狐面ダンスをやろうか」

「え、今から?」

「そう、今から。小春さん、一緒にどうですか?」

小春は涙を拭い、お面を手に取った。

「はい...やります」

五人分のお面(一つは予備だったらしい)をかぶり、ペンライトを持った。石川がスマートフォンで音楽を流す。それは彼が選んだ、和風のアップテンポな曲だった。

「いくぞ! 動きは俺に続け!」

石川が踊り始めた。その動きは、狐が跳ねるような軽快なステップに、手を大きく振る動作を組み合わせたものだった。千葉と富山も続く。そして小春も。

小春の動きは、三人とは比べ物にならないほど優雅だった。まるで本物の狐が人間の姿で踊っているような、流れるような動き。ステップは軽やかで、手の動きは美しく、尻尾...いや、「尻尾みたいなアクセサリー」が優雅に揺れる。

「小春さん、上手!」

「ダンス経験あるんですか?」

「い、いえ...体が勝手に...」

四人で踊った。馬鹿馬鹿しい狐面ダンスを、夜のキャンプ場で。遠くで他のキャンパーが不思議そうにこちらを見ていたが、気にしなかった。

曲が終わり、四人は息を切らしてお面を外した。

「楽しかった!」

千葉が叫んだ。

「私も!」

富山も笑っている。

「楽しかったです...本当に...」

小春は涙を流しながら笑っていた。今度は嬉し涙だった。

「ありがとうございます...皆さん...」

「何言ってんの、こっちこそありがとう!」

石川が小春の肩を軽く叩いた。

「小春さんがいてくれて、今日のキャンプは最高になったよ」

その言葉に、小春は声を上げて泣き出した。

「どうしたの?」

「嬉しくて...私、ずっと...ずっと寂しかったから...」

富山が小春の背中をさすった。千葉もハンカチを差し出す。

「小春さん、また来てくださいね。私達、毎月キャンプしてるから」

「本当ですか?」

「本当だよ。次は何月かな...来月か?」

石川が言うと、小春は大きく頷いた。

「行きます! 絶対に行きます!」

それから小一時間ほど、四人は焚き火を囲んで話し続けた。くだらない話、真面目な話、昔の思い出、これからの夢。時間が経つのを忘れて、ただ語り合った。

「そろそろ、お開きにしようか」

石川が言った時には、もう深夜になっていた。

「小春さん、今日はどこに泊まるんですか?」

富山が訊ねると、小春は少し考えてから答えた。

「私は...山に帰ります」

「え、こんな夜中に? 危ないよ」

「大丈夫です。私、夜は慣れてるので...むしろ昼より夜の方が...」

また怪しい発言だったが、誰も止めなかった。きっと、彼女には彼女の事情があるのだろう。

「分かりました。でも、気をつけてくださいね」

「はい...本当にありがとうございました」

小春は深々と頭を下げた。それから、三人の顔を順番に見つめた。

「あの...実は、私...」

何かを言いかけて、小春は口をつぐんだ。きっと、正体を明かそうとしたのだろう。でも、石川は首を横に振った。

「言わなくていいよ。俺達は、小春さんが何者でも、小春さんとして受け入れるから」

その言葉に、小春は再び涙を流した。

「ありがとうございます...」

小春は立ち上がり、キャンプ場の出口に向かって歩き始めた。数歩進んでから、振り返って手を振った。

「また会いましょう!」

「うん、また!」

三人が手を振り返す。小春は笑顔で背を向け、暗闇の中へと消えていった。その後ろ姿を、三人は黙って見送った。

完全に姿が見えなくなってから、千葉が口を開いた。

「...石川、やっぱりあれ、本物の狐だったよね?」

「だろうな」

「尻尾、めっちゃ見えてたよね?」

「見えてたな」

石川は焚き火に薪を追加しながら、静かに答えた。

「耳も、完全に狐のだったし...あと、最後の方、月明かりで影が四つ足に見えた瞬間があったよ」

富山も頷いた。

「それに、『人間たち』って何回も言ってたし...料理も『生で』って言いかけてたし...」

「でも」

石川は三人が座っていたチェアを見つめた。

「楽しかったよな」

「うん」

千葉が即座に答えた。

「めっちゃ楽しかった。小春さん、すごく良い人だった。いや、良い狐? 良い存在?」

「小春さんでいいよ」

富山が微笑んだ。

「小春さんは小春さん。それ以上でも、それ以下でもない」

三人は同時に笑った。

「しかし石川、よく気づかないフリを貫き通せたな」

「あれは演技じゃなくて、本当に気づいてなかったフリをしてただけだからな」

「何言ってるか分からないよ」

千葉が笑いながらツッコんだ。

「つまり、俺達は本当に小春さんを人間として受け入れてた。狐だって分かってたけど、それが何? って感じで。だから演技じゃなく、自然に振る舞えたんだ」

石川の言葉に、二人は深く頷いた。

「それが、石川の言ってた『グレートなホスピタリティ』ってやつ?」

「そう。相手が何者であろうと、一緒に楽しい時間を過ごせれば、それが最高のキャンプなんだ」

「深いな...いや、待って。でも石川、来月のキャンプも誘ったけど、本当に来るかな?」

富山の質問に、石川は自信満々に答えた。

「来るさ。絶対に。小春さん、あんなに嬉しそうだったろ? 寂しかったって言ってたし。きっと、また来てくれる」

「来てくれるといいな」

千葉がしみじみと言った。

「僕、もっと小春さんと話したいこと、いっぱいある。山での暮らしのこととか、狐としての...いや、山での生活で経験したこととか」

「おお、千葉も気づかないフリの技術が上達してるじゃないか」

「当たり前だよ。石川から学んでるんだから」

三人はまた笑った。焚き火の炎が揺れ、星空がより一層輝いて見えた。

「ところで」

富山が急に思い出したように言った。

「油揚げ、まだめっちゃ残ってるんだけど」

見ると、クーラーボックスにはまだ五パック分の油揚げが入っていた。小春が十五本食べたとはいえ、元が多すぎたのだ。

「明日の朝ご飯は油揚げ定食だな」

「やだよ!」

「油揚げピザとか、油揚げサンドとか、油揚げステーキとか...」

「全部油揚げじゃん!」

「大丈夫、グレートな朝食になるから」

石川の言葉に、富山と千葉は顔を見合わせて苦笑した。

「まぁ、小春さんが喜んでくれたから、買った甲斐はあったよね」

千葉が前向きに言った。

「そうだな。小春さんの笑顔、見られて良かった」

富山も同意した。

それから三人は、焚き火を囲んでゆっくりと語り合った。今日の出来事を振り返り、来月のキャンプの計画を立て、くだらない冗談を言い合う。

「来月は何をテーマにするの?」

千葉が訊ねると、石川は少し考えてから答えた。

「小春さんが来てくれるなら、小春さんが楽しめることをしたいな」

「珍しいじゃん、石川が相手に合わせるなんて」

富山が驚いて言った。

「いや、俺はいつも相手のことを考えてる」

「いつもは自分の『グレート』を押し付けてるだけでしょ」

「それも愛だ」

「どういう理論だよ」

三人の笑い声が、静かな夜のキャンプ場に響いた。


翌朝、三人は予告通り油揚げ尽くしの朝食を食べた(富山が頑張ってアレンジしたおかげで、意外と美味しかった)。テントを撤収し、キャンプ場を後にする準備を始めた。

「あれ?」

千葉が地面に落ちている何かを拾い上げた。

「これ、小春さんの...」

それは小さな赤い布切れだった。着物の端が破れたものだろうか。でも、よく見ると、それは布ではなく...

「狐の毛だ」

石川が断言した。確かに、それは柔らかく、赤褐色で、獣の毛そのものだった。

「忘れ物かな?」

「いや、これは多分」

富山が優しく言った。

「『また来ます』っていう、印なんじゃない?」

その言葉に、三人は顔を見合わせて笑った。

「じゃあ、大事に取っておこう」

石川が毛を丁寧にハンカチに包み、ポケットにしまった。

車に荷物を積み込み、キャンプ場を出発する。帰り道、石川が運転席から言った。

「来月は、油揚げをもっと買って行くか」

「買いすぎでしょ!」

「でも小春さん、喜ぶぞ」

「...まぁ、それはそうだけど」

富山は渋々認めた。

「じゃあ来月のテーマは『狐の友達と(まだ気づかないフリで)もっとキャンプしよう』だな!」

「タイトル長いって!」

千葉がツッコんだが、嬉しそうに笑っていた。

車は山道を下っていく。バックミラーに、キャンプ場の森が映っている。その森の奥、木々の間に、一瞬、赤褐色の影が見えた気がした。

石川は静かに笑って、クラクションを軽く鳴らした。別れの挨拶のつもりだった。

すると、森の奥から、遠く小さく、狐の鳴き声が聞こえた気がした。

「今の、小春さん?」

「さぁな。でも、きっとまた会える」

石川は確信を持って言った。

「来月、絶対に来てくれる」

「根拠は?」

「俺のグレートな直感だ」

「いつも通りの適当な答え!」

三人は笑いながら、山を後にした。


それから一ヶ月後。

石川たちが約束通り、同じキャンプ場に戻って来た時。

受付で管理人が不思議そうに言った。

「あの、一ヶ月前にも来た方々ですよね? 実は、変な女性の目撃情報がまた増えてまして...」

「ああ、その人なら」

石川は笑顔で答えた。

「俺達の友達です。今日、一緒にキャンプします」

「え...友達...?」

管理人が困惑している間に、三人はサイトに向かった。

そして、設営を始めて三十分後。

「あの...来ました...」

聞き覚えのある声がした。振り向くと、小春が立っていた。前回と同じ着物風のワンピース。そして今回は、尻尾を隠そうともしていなかった。堂々と揺れている。

「小春さん! 待ってました!」

千葉が嬉しそうに駆け寄った。

「今日は油揚げ、三十パック買ってきました!」

「三十!? 多すぎでしょ!?」

富山が叫んだが、小春の目は輝いていた。

「さ、座って座って! 今から炙るから!」

石川が焚き火の準備を始めた。

小春は嬉しそうに、いや、嬉しすぎて尻尾をブンブン振りながらチェアに座った。もう隠す気はないらしい。

「あの...皆さん...私、実は...」

小春が何か言いかけた時、石川が人差し指を口に当てた。

「言わなくていいって言ったろ? 小春さんは小春さんだ。それ以上でも、それ以下でもない」

その言葉に、小春は涙ぐんだ。

「ありがとうございます...」

「さて! 今日のテーマは『友達と楽しくキャンプしよう』だ!」

「それ、普通じゃない?」

「グレートなキャンプに、特別なテーマは必要ない。大切なのは、誰と過ごすかだ」

石川の言葉に、三人は笑顔で頷いた。

焚き火が燃え始め、油揚げの香ばしい匂いが漂い始めた。

「いただきます!」

四人の声が重なった。

そして『俺達のグレートなキャンプ』は、今日も続いていく。

人間が三人と、狐が一匹。

いや、友達が四人。

それだけで、十分グレートなのだ。


キャンプ場の隅で、管理人が双眼鏡で遠くから見ていた。

「あの女性...やっぱり尻尾が...いや、まさかね...でも、あんなに楽しそうにしてるし...まぁ、いっか」

管理人は双眼鏡を下ろし、受付に戻っていった。

平和なキャンプ場の、少しだけ不思議な、でもとてもグレートな一日だった。

<おわり>

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