第8話 ゆらぎの検証者

昼下がり、ギルド議事堂の扉が重く閉ざされた。


 磨き込まれた木の床には秋の光が斜めに差し込み、長机の上で白紙の議案が眩しく光っている。


 「ゆらぎ係数」——マコトが提案した新しい制度概念を巡る、最初の公開審議の日だった。




 議場の最奥に座るのは、行政官ルゼ。


 かつてはマコトと共に村の再建に尽力した同志だった。だが今、その表情には揺るぎない確信が宿っている。


 「誤差を制度に組み込む? それは責任の放棄だ。」


 彼の声は、冷ややかで澄んでいた。


 「我々は人の曖昧さを克服するために制度を設けたはずだ。


 ゆらぎを許せば、再び不正と怠惰が戻ってくる。」




 マコトは静かに立ち上がった。


 「制度が人を縛るのではなく、人が制度を呼吸できるようにしたいだけです。」


 「呼吸?」ルゼが嘲るように口角を上げる。


 「人は規律の中でしか生きられない。揺れを認めれば、秩序は溶ける。」




 沈黙。


 議場の窓の外では、風見鶏がかすかに鳴っている。


 マコトはその音に耳を澄ませた。


 「……でも、風を完全に止めた村に、火は灯りません。」


 その一言に、議場の空気がわずかに揺れた。




 リイナが、そっとマコトの背中を見つめていた。


 彼女はまだ若いが、誰よりも“数”と“心”の間にある痛みを知っていた。


 審議の合間、彼女は自分の手帳に小さなメモを書き込む。


 〈誤差は、祈りの形に似ている〉——そう記した。




 午後、議論は続いた。


 経済班の代表は、ゆらぎ係数がもたらす「計算不能なコスト」を懸念した。


 統計官は、評価基準の不明瞭さを問題視した。


 それでもマコトは、一つひとつの声に耳を傾け、否定も怒りも飲み込んだ。


 数式の上に立つ制度ではなく、対話の上に立つ制度を、彼は夢見ていた。




 やがて日が傾き、審議は一時中断となった。


 マコトは議場を抜け出し、裏庭の池のほとりに腰を下ろす。


 水面には、風が細かな波を描いている。


 そこへリイナが現れた。


 「……怖くないんですか?」


 「何が?」


 「みんなが、自分の理想を誤解すること。」


 マコトは少し考えてから、穏やかに答えた。


 「誤解されるうちは、まだ理想が生きている。


  完全に理解された瞬間に、それは枠に閉じこめられるからね。」




 リイナはその言葉を反芻するように口の中で転がした。


 彼女の瞳には、夕映えが映り込んでいる。


 マコトはその光を見つめながら、かつてルゼと共に描いた未来図を思い出していた。


 完璧を追うこと。それは、誰よりも不完全さを恐れる心から始まっていたのかもしれない。




 その夜、ギルドの広場では村人たちが集まり、試験運用の説明が再開された。


 マコトは壇上に立ち、紙の灯りの下で声を発した。


 「“ゆらぎ”は不安の象徴ではありません。


  それは、あなたたちが互いを許す余白のことです。」




 ざわめきの中、ひとりの老職人がうなずいた。


 「なるほどな。鉄も冷ましすぎれば折れる。


  打つ手の加減がいる、ってことか。」


 その言葉に、マコトは静かに笑った。


 言葉の端に、ほんの少しの希望が滲んでいた。




 だがその翌日、ルゼの陣営が「制度改竄の疑い」としてマコトの設計図を調査対象に挙げた。


 ギルドの内部に緊張が走る。


 ゆらぎを許す制度は、同時に“揺さぶられる”危うさを内包していた。


 ——理念が風に晒される時、真価が問われる。




 夜、マコトは机に向かい、再び図面を広げた。


 「ゆらぎ係数」の欄に、小さく新しい注釈を加える。


 《この値は、計算されるべきものではない。感じ取られるべきものである。》




 その筆跡を見つめながら、彼は初めて安堵の息を漏らした。


 制度はもはや“答え”ではない。


 それは、人と人とが互いに問うための“問い”そのものになりつつあった。




 外では、また炉の煙が上がっていた。


 灰の中で鉄が赤く光る。


 マコトは窓を開け、夜風の匂いを吸い込んだ。


 明日もまた議論は続くだろう。反発も、誤解も、折り合いもあるだろう。


 けれどそのすべてが、制度を「生きたもの」にする。




 ——ゆらぎの中にこそ、人は在る。


 彼は静かにその言葉を胸に刻み、灯を消した。

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