第6話 監査官、到来す

霧雨の朝だった。


 村の広場には、前夜から掲げられた巨大な帳票が風に揺れている。


 それはマコトが導入した「労働通貨」の集計表――村人たちがどれだけ働き、どれだけ貢献したかを“数字”として記したものだった。


 数字は嘘をつかない。だが、人の心は数字を信じることを恐れる。




 その日、村にギルド監査官レティシア・ヴァンデルが到着した。


 黒い外套に金の刺繍、冷たい青の瞳。


 彼女の肩書きは「商業倫理監察局・上級監査官」。


 だが実際は――マコトの制度を潰すために派遣された、ギルドの切り札だった。




 「村の“経済”が、帳簿一枚で動いていると聞きました」


 レティシアは、マコトの前で淡々とそう告げた。


 「それは便利かもしれませんが、危険でもあります。“数字”は人を救うと同時に、人を支配します」




 マコトは一歩も引かずに答える。


 「だからこそ、すべてを見える化しているんです。支配ではなく、共有のために」




 レティシアは微笑した。だがその笑みは冷たい。


 「――では、その“共有”がどれほどの信頼で支えられているか、確かめさせてもらいましょう」




 その瞬間から、村の空気が変わった。


 帳簿、倉庫、取引記録、労働通貨の残高――


 あらゆる数字が「監査」の名のもとに暴かれ始めた。




 だが、マコトはわかっていた。


 彼女が求めているのは真実ではなく、“ほころび”だ。


 数字の正しさより、制度の危うさを証明すること。


 それがギルドの狙いなのだと。


監査は三日に及んだ。


 レティシアの手は驚くほど速かった。帳簿をめくる音が、広場に響く。


 村人たちは彼女の冷静な指摘に息を潜め、マコトだけが沈黙を貫いていた。




 「ここを見なさい」


 レティシアが一枚の帳票を突き出した。


 「パン職人のエルドが、同じ労働時間で他の者より多い通貨を得ている。説明を」




 マコトの胸が微かに軋んだ。


 ――エルドは、村の子どもたちに無償でパンを配っていた。


 その善意を“社会的貢献”として評価し、労働通貨に上乗せしていたのだ。




 「これは……単なる労働量の差ではなく、信頼の分配です」


 マコトは慎重に言葉を選ぶ。


 「人の思いやりも、この村の経済の一部にしたかった」




 レティシアは一瞬、表情を止めた。


 だがすぐに冷たい声が返る。


 「では、その“思いやり”を数値化する基準は? 誰がどの程度、どんな根拠で評価したのです?」




 マコトは答えられなかった。


 制度の根幹に「主観」が入り込む――その危うさを、彼自身が理解していたからだ。




 沈黙の中、村人たちの目が揺れた。


 「マコトさんの制度、完璧じゃないんだな……」


 「エルドは悪くない。でも……公平なのか?」




 レティシアは静かに帳簿を閉じる。


 「“数字の支配”とは、こういうことです。数字は冷たく、公平であるべき。けれど、あなたの数字には温度がある。それは優しさであると同時に、恣意です」




 夜。


 マコトはランプの下で、帳票を一枚ずつ見直していた。


 エルドの項目だけでない。誰かが誰かを助けた記録、見返りのない奉仕、感謝の印――


 それらは制度の外側に置くべきなのか?


 「信頼を、数で測ることは間違いだったのか……」




 そのとき、扉がノックされた。


 エルドだった。


 「マコトさん、あんたの制度で、オレは子どもたちにパンを渡せた。それだけで十分だ」


 その言葉に、マコトは小さく息を吐く。




 ――数字に宿る温度を、どう守るか。


 その問いが、マコトの中で新しい“次の制度”の輪郭を描き始めていた。




 外では、監査官の馬車が夜霧の中を離れていく。


 レティシアの瞳には、かすかな興味が灯っていた。


 「彼の“理想”、まだ終わらせるには惜しいかもしれませんね……」



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