雨と繭

浅葱 カフカ

第一章:雨出先生と生贄の雨

1-1

「生贄役は得意ですか?」


 真っ赤なスイカを頬張りながら、雨出先生はそう言った。物干し竿にかけられた風鈴が、庭で冷たく吐息づく。わたしはぽかんとして、二、三回ほど瞬きした。


「それって、いったいどういう」

「そのままです、なんのひねりもありません。生贄の役は得意かと訊きました」


 見慣れた紺の着流し姿が、縁側に腰かけたままでふりかえる。やはり先生は平然としていた。ただ、いつもよりすこしだけ眠そうではある。


「もしかして、生贄がなにかわからないのですか。それなら辞書を引いてください。そもそも生贄を題材にしている小説や評論なら世の中に山ほどあるでしょう。ああ、あなたは本を読まないのですね。なるほど、けしからん」

「ちがいますよ。どうしていきなりそんなことをおっしゃるのか、理解できなくて。小説のお話ですか?」


 ひとまずカバンを下ろして、卓袱台の足にもたれさせる。壁際の扇風機に手を伸ばすと、ひたいからは待ち切れないとばかりに汗が流れ落ちた。スイッチを入れる。

 うなじに風を当てながら咽喉を鳴らしていると、先生はわずかばかり身を乗り出し、ぐぬぬ、とちいさくうなった。


「それは……。ス、スイカ……スイカなら冷蔵庫に半球あります。ただし生贄役を引き受けてください。そうしたら、報酬として半分の半分の半分の半分の半分くらいくれてやってもいいですよ」

「ケチ」とわたしは一喝する。「そういうセコい男は、どこに行ってもきらわれますよ」

「あなたは金と欲にしか目がないから、そんなことが言えるのです」

「こんなに広い日本家屋にひとりで住んでいる高校生がなにをおっしゃる」


 先生はちょっとした間を不自然においた後、「それもそうですね」とつぶやいた。



 先生に出逢ったのは、つい三ヶ月前――近所の大学に入学してまだ間もないころのことだ。


 その日のわたしはじつに運が悪かった。うららかな春に惑わされて寝坊、したがって講義に遅刻。あわてて家を飛び出したがために財布を忘れ、昼食にありつくことも叶わず。すっぴんでバイト先に顔を出せばそれだけで店長に叱られ、先輩からは皿洗いの音がうるさいだの作業が雑だのと細かく文句を積まれた。

 極めつけは、帰り際に突然降り出した雨だ。昨日のニュースでは降水確率0パーセントだったじゃないか、気象予報士のうそつきめ、なんてむくれていてもしかたがない。当然わたしは傘など持っていなかったから、重いカバンを頭にあてがい、自宅までの十数分を走ってやろうとしていた。しかし、いざ足を踏み出したところで背後から車がやってきて、遠慮もなにもなしに泥水などかけていったものだから、しぼり出されたはずの意気込みはしゅるりと消えてしまった。エンジン音が遠ざかる。カバンが落ちてくずおれる。そこに丸い影がかぶさった。まじめで心優しい先生は、びしょ濡れの女性が暗い歩道のはしに立ち尽くし、茫然としているさまを放っておけなかったのだろう。


「身体を壊しますよ」


 そう言って、傘を差し出してくれた。

 ふりむいて目にうつった先生の姿は、なんだか幻のようだった。白い肌に、穏和ながらも鋭い光のある瞳。色を感じさせない唇。妙に落ち着いているが、わずかに幼い顔立ちから高校生ととれた。ただ、いやに艶かしい。着物のせいだろうか。わたしは見とれた。それでも、異性に抱く感情はそこになかった。


 ひとまず着替えとタオルをと言われて、引き寄せられるように先生のあとをついていくと、グレーの住宅街にひとつ、立派な日本家屋がそびえていた。わたしの住むマンションからそう遠くない。ここが僕の家なのだと先生が言ったので、わたしはなかば反射的に表札を見た。白い石に、黒い字で『雨出』と彫ってある。おそらくながら年上の意地というものもあり、わたしはあごに手を当てて先生の苗字に挑んだ。アマデ、アメデ、アマシュツ、アメシュツ。音読みにしても訓読みにしても、どこか不自然な感じが拭えない。変に間違えては失礼だ、いちばん普通に聞こえるものをと考えて、わたしは「えっと、ウデさん、ですか?」とひかえめに訊ねた。


「ウデかあ」先生が満足げにうなずく。「そう読まれたのははじめてです。もっとも、最初から正しく読めたひとはひとりもいないのですがね」

「ごめんなさい。じゃあ、なんて?」


 腕組みをしながら、先生はにやりとした。


「アメダスです」



 それからの詳細は、わたしの軟弱さを露呈するばかりであるから、もはや語るまでもない。お家にお邪魔して着替え――もちろん男性用だ――とタオルをお借りし、緑茶と和菓子をいただきながら談笑したとだけ言っておこう。

 先生は非常に謎の多い人物だった。高校生なのにひとり暮らしであること、じつはそこそこに有名な小説家であること、紺の着物以外にはそでを通したがらないこと、なにやら危険な仕事もしているらしいことなどなど。これだけで十二分に怪しいが、わたしはそれらすべてを受け入れ、信じ切っていた。はっきりとした確証はない。先生の思慮深く聡明なお人柄を見ると、とてもうそだとは思えなかっただけである。


 後日、借りものをお返しするために先生のお宅を訪問した。ちょうどよい機会だと思い、厚かましくも先生の書いた小説が読みたいと切り出してみたところ、先生は「いやあ」と照れくさそうに目を細めながら、ちいさな卓袱台に原稿用紙を広げて見せてくれた。

 それは、とある宇宙船での出来事を描いたSF小説だった。乗組員ひとりひとりに順々とスポットを当てていき、彼らが交わりぶつかり合い――という、広大な宇宙のなかであえて閉鎖的な空間のみをうつしたものだ。先生自身、初めてのSF作品だという。


 わたしは圧倒され、息のつまる思いでそれを読み終えた。胸の高鳴りを静めようと、おおきく深呼吸する。幼いころから読書が好きで、話題の本だけに限らず古典や外国文学も一通り読破してきたのだが、ここまで強く惹かれたものはなかった。


「すごい」わたしは顔を上げた。「すごいです」


 気の利いた詳しい感想も述べられずに、ただ頬を熱くして先生を見つめつづけていると、先生はすっとうつむいて背中を丸め、「どうにもくすぐったいですね」と笑った。

 そうしてわたしはすっかり雨出作品のファンになり、近所であるのをよいことに、暇さえあればなにかしらの理由をつけて先生に会いにいくのが習慣になったのである。

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