第6話 ―崖の夜―

潮の匂いが濃い夜だった。

 授業が終わり、部室も閉まり、人影がなくなった校舎裏。

 街灯の光が届かない場所で、由梨はひとり崖際のフェンスにもたれていた。

 目の前には黒い海、遠くで船の灯りが瞬いている。


 背後から、ヒールの音が近づいてくる。

 「——西野さん」

 声でわかった。川本先生だ。

 由梨は振り返らず、かすかに笑った。

 「また、注意ですか?」


 「あなたね、何を考えてるの。

  この間も別の子と——」

 「そんなこと、先生に関係あります?」

 由梨の声は冷たくも、どこか震えていた。


 「あるのよ。学校中の噂になってる。

  男子をとっかえひっかえして、挙げ句の果てに……」

 「先生は、何も知らないくせに」

 由梨が振り返った。

 その目は赤く、泣いた跡があった。

 「わたしがどんな気持ちで、人を好きになってるか……先生にわかる?」


 川本は一瞬、言葉を失った。

 だが次の瞬間、感情が堰を切ったように溢れ出す。

 「わかるわけないでしょ!

  努力しても認められなくて、バカみたいに笑ってないと誰にも相手にされない……

  あなたみたいな子を見ると、腹が立つの!」


 それは、教師としての言葉ではなく、一人の女としての叫びだった。


 由梨は黙っていた。

 風が吹き、赤いジャージの袖がゆらりと揺れた。

 「……やっぱり、先生もそうなんだね。

  みんな、わたしが笑ってるとムカつくんでしょ。」

 「違う、私は——」

 「嫉妬してるんだよ。自分が選ばれなかったから。」

 その瞬間、川本の顔が歪んだ。


 「黙りなさい!」

 強い声とともに、腕が伸びた。

 掴まれたのは、由梨の肩。

 引き寄せようとしたつもりだった。

 ただ——足元の土が、思ったよりも脆かった。


 小さな悲鳴とともに、視界が傾く。

 川本の手の中から、赤いジャージの袖が滑り落ちる。

 その瞬間、由梨の瞳がこちらを見た。

 恐怖でも、恨みでもなかった。

 ほんの一瞬、微笑んだように見えた。

 ——ありがとう。

 そんな口の動きだった気がした。


 そのまま、由梨の体は闇の下へ消えた。

 波の音が遠くで跳ねる。

 川本は、ただ立ち尽くしていた。

 自分の手が震えていることにも気づかないまま。


 風にあおられ、崖の上に赤いジャージの上着が残っていた。

 袖口には、川本の指の跡がくっきりと残っている。

 夜の海がそれを飲み込むように、音もなく広がっていった。


 それが、あの夜——

 「赤いジャージの人」が生まれた瞬間だった

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

赤いジャージの人 @AIplayer

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ