第2話 何気ない日常
話は数日前に遡る。
街中の繁華街にある居酒屋の入り口で。
マリは、店の看板の上にいる一匹のカマキリを見つめていた。
カマキリの首が動き、その緑色のギョロリとした両眼を、自身を見つめる人間に向ける。
そして、その名の由来でもある鎌状の両腕を、まるで威嚇するかのように持ち上げた。
そのカマキリの動きに、マリは少し驚く。
その拍子で、マリのポニーテールにしている黒髪が揺れた。
「おーい、マリ。何しているんだ?」
若い男性が、マリに声をかける。
「あ、トオル。なんでもないよ。」
トオルと呼ばれた男性に、マリは返事を返す。
「おう。早く行こうぜ。」
トオルの後ろから、もう一人の男性の声がする。
「あ、カツヤ、ちょっと待ってよー。」
そんな会話をしながら、トオルとカツヤ、マリの三人は、居酒屋に入っていった。
…看板の上に佇むカマキリは、それを網翅目の瞳で見つめていた。
「今日もお疲れさんでしたー!」
三人は勢い良く、ビールジョッキで乾杯をする。
トオルとカツヤとマリは、会社の同僚であり同期であった。
三年前に入社したその日から、三人は意気投合し、
楽しいことがあれば乾杯し、
祝い事があれば乾杯し、
嫌なことがあれば乾杯し、
共に働き、一緒に遊び、愚痴り合い、未来を語り合う、仲間であった。
今日も仕事の疲れを癒しに、三人で飲み屋に来たのだった。
ビールの空き瓶がテーブルの上に数本並んだ頃。
ふと、カツヤが店内のテレビに視線を走らせた。
テレビには、最近話題の芸能ニュースが流れている。
三年前に結婚した芸能人同士が、浮気が元で口論となり、死傷事件に発展してしまった、というものだった。
「またこんなニュースか。やだやだ。」
と、カツヤが肩を竦める。
「まったくだな。かつては愛した旦那を殺しちゃうなんて、どうかしてるよ。」
トオルが言葉を続ける。
「ま、愛と憎しみは表裏一体だかなら。ふとしたきっかけで、簡単に変わっちゃうんだよ。」
「お、カツヤ。知った風な口をきくなぁ。さては、彼女でもできたか?」
「え! カツヤ、そうなの?」
恋愛話に、マリが食いついてきた。
そのマリの食いつきぶりに驚きながらも、カツヤは、
「いやいや、そんな訳ないじゃん。彼女がいるなら、こんな飲み会に来てないぜ。」
「なんだと、このやろー。」
「そう言えば、最近、うちの会社の中でも、恋愛関連のトラブルがあったって噂、本当なの?」
マリが話を変える。
「ああ、知ってるぜ。たしか、隣の部署だよな。別れ話が激化して、職場を巻き込む大騒動。で、当事者は退職…。」
一瞬、三人は沈黙する。
その沈黙を破るかのように、
「俺達は、自分も周りも傷つけないような、さっぱりした恋愛がしたいよな。」
そうトオルが言い、その話題は締めくくられた。
「ところでね。」
「どうした、マリ?」
マリが突然、真面目な顔つきになる。
「…最近、誰かにつけられている気がするの。」
「おいおい、マジかよ。」
「うん。道を歩いている時、後ろを振り向くと、一瞬人影が見えることがあるの。しかも、何度も…。」
「それ、ストーカーじゃん。許せねえな。」
「マリは可愛いからな。」
「え、そんな事ないよ。」
マリの頬が紅い。それは酒のせいだけではないだろう。
「よし! 今夜は、俺たちが駅まで送るよ。だから、安心してくれ!」
「うん、ありがとう。助かる…。」
店を後にした三人は、マリを駅まで送って行った。
二人に手を振りながら、マリは駅の構内に消えて行く。
「さて、と。」
「ああ。俺達野郎二人は、いつもの二次会と行きますか。」
トオルとカツヤの男二人は、先程とは別の店に向かう。
男二人は、バーのカウンターに腰掛けながら、仕事話がニ割、エロトークが八割の話題で、盛り上がっていた。
会話が途切れた時、ふと、カツヤの顔が真剣になる。
「なあ、トオル。言おうかどうか迷ってたんだけどさ…」とカツヤ。
「なんだ?」とトオル。
「俺、マリの事、好きなんだ。」
「…ああ。知ってるよ。見れば解る。」
「でも、俺は今のトオルとマリとの三人の関係を壊したくない。」
「…それも理解できるよ。俺もマリの事が好きだからな。」
「そうだよな。見れば解る。だから、話したんだ。」
「…俺も、お前達との関係を壊したくない。」
「それは俺もだ。」
「じゃあ俺達はライバルだな。」
トオルは、二カッと笑みを浮かべる。
「…そうだな。正々堂々、戦おうぜ!」
カツヤも、憑き物が落ちたような笑顔を浮かべる。
「ああ。恨みっこ、なしだぜ。」
そして二人は、固い握手を交わすのだった。
その時。
バーのマスターと、店内の男性客の会話が、二人に耳に入ってきた。
「最近さ、気になることがあるんだよねぇ。」
「はい、どうされたんですか?」
「この前、変なものも見ちゃったんだよ。」
「はあ。」
「若い女性がさ、でっかい犬の首根っこ捕まえて歩いてたんだ。何事かと思ってさぁ、ちょっとこっそり後を追ってみたんだよ。」
「お客さん。それ、ストーカーじゃないですか?」
「いやいや、違うって。本当に怪しかったんだよ。で、この近くの潰れた工場の辺りで、見失っちゃってさ。」
「はいはい。」
「その工場さ、以前から啜り泣きが聞こえるとか、変な噂があるんだよな。」
「へーそうなんですか。」
一見すれば、酔っ払いの戯言をバーのマスターが適当に聞いている構図である。
だが。
カツヤは、その会話を、なんとなく忘れられなかった。
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