case5. 都市遊民リュカ・アポリネール 25歳 元魔術師(19)

「大丈夫ですよ。サインしたけど、してませんから。」

リタは飄々とそう答えながらキマイラをじっと見上げた。


「は…?どういうこと?」

「リュカ、あなた契約書を読むときに隅から隅までしっかり確認しましたか?」


「一通り目を通したつもりだけど、とにかくシャルロットを助けたいってことでいっぱいいっぱいだったから…。そう言われると自信ないなぁ。見落としてる部分はあるかも。」


「そこなんです。」

リタはリュカの顔の前でびしっと人差し指を立てた。


「ここで出された雇用契約書には、本名を書けとは明記してありませんでした。そうはいってもみなさん”きちんとした書類には本名を書かなければいけない”と思い込んでいるんです。ここに幽閉されいる10人の子どもたちも素直にサインしたでしょうね。あの契約書は、自分の名前だと自覚して書いたものに対して誓約が発動する仕組みになっていました。」


「自分の名前だと自覚…?」


「つまり、偽名で書いていれば、文字通り書面で契約したことにしかならないんです。これでもギルド職員ですからね、書類の扱いに関してはちょっとうるさいんですよ、私。」


そう語るリタの横顔は、完全に冒険者だったが、リュカには突っ込む余裕などあるはずもなかった。


「そういうことなので、妹さんの方は任せてください。」

「シャルロットは、助かるのか?」

力強く頷いたリタを前に、リュカは深く頭を垂れた。


「ここまでよく頑張りましたね。」

リタはそう言って。彼の背中を撫でた。


「いいですか、明日の夜私たちが悩んでいるのは、肉にするか魚にするかということだけです。」


自分へのご褒美としての鉄板焼きだ。もちろ両方食べるが、どちらから先に焼いてもらうかは非常に悩ましいところだった。


何を言われているのか全くわからないリュカを放りおいて、リタはキマイラの目の前に立った。糸引く牙をむき出しにして威嚇してくるキマイラから目をそらすことなく、リタは静かに語りかけた。


「可哀そうに。お前もこんな化け物になるまで作り変えられてしまって。」

その口ぶりには、深い同情がこめられていた。


リタが強い催眠魔法をかけると、キマイラはその場でしずかにうずくまって目を閉じた。

「これで朝までは時間を稼げるでしょう。」


次に、リタは亜空間収納ポーチの中から一枚の紙片を取り出した。そこにシャルロットが閉じ込められている場所と事情を書き記し、丁寧に折りたたんで魔力をこめた。

紙片は蝶の形になって、ひらひらと窓から夜の空へ飛んでいった。


「この時間ならまだ起きているでしょう。シャルロットさんを無事に助け出せたらこちらに来てくれるようお願いしてあります。その後でリュカの誓約魔法も解呪してもらいましょう。」


「ちょっと待って、お願いしてあるって、誰に?」

リュカの紫色の瞳が大きく見開かれた。今夜は驚くことばかりで、カルメルに暴行された痛みはすっかり消えていた。


レ・シス六人組に所属しているヒーラー・マリアさんです。とても可憐な見た目に反してなかなか物騒な方といいますか…。たまたま持っていた力で冒険者たちを癒してきたけど、本当は癒すよりもぶっ壊す方が性にあってると散々言っていたので、すぐ駆けつけてくれると思いますよ。」


「それって、元ファルコン・ドール金のハヤブサの?リタちゃんなんでそんなすごい人と知り合いなの?っていうか、キミは本当に何者なの?」


質問攻めのリュカを横目に、リタは水筒を取り出すとゆっくりとお茶を飲み干した。

湿った口元を拭うと、リタはニヤリと笑った。


「何者って、ただのギルド職員ですよ。お忘れかもしれませんが、潜在冒険者の復職支援を担当しています。今夜は長い夜になりそうですね。さぁ、次はアマディさんのところまで案内していただきましょうか?」


なぜだろう。リュカ・アポリネールは心の底から疑問に思った。

自分と妹を助けてくれる存在のはずなのに、彼女が放つこの恐ろしいオーラは一体何なのだろうと。


リタは怒っていた。冒険者ギルドを袖にしてまで来たかった場所がこんなところなのかと。

自分にゆっくり心を開いてくれたあの日々は、何の意味もないものだったのかと、アマディに聞いてみたかった。

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