狼男
水月日暮
狼男
ベルブーフ村はドイツ西部に位置する小さな村で、住民の多くは穀物の栽培や酪農を生業とする貧しい農民であった。ライン川の支流が側を走っており、そこには大きな水車が備えられて製粉に利用されていた。また、その川を越えた先には深い森があって、村人達はそこに狼や悪魔が潜んでいると考えていたので、そこに立ち入ることは無かった。宗教改革の波が欧州を襲ったこの時代であっても、この村は戦火を逃れ、農民同士の関係も良好な平和な村だった。
ハンスはこの村に住む若い農夫である。村の誰よりも背が高く、剛健で、困っている者がいればすぐに助けてやった。それに加えて穏やかな性格がそのまま顔に出てきたような美しい顔立ちだったから、村の若い娘達からの人気も高かったが、それに嫉視を向ける男達も少なからずいた。彼は隣家の娘であるリンダと特に親密で、よく川で水浴びをして遊んでいた。リンダは小柄だが気が強い性格で、外で走り回ったり、放牧されている牛と戯れたりするのが好きだった。
平和なこの村に異変が生じ始めたのは十七世紀に入ってからのことで、冷夏によって農作物の収穫が減り、牛乳の出が悪くなった。更に疫病が流行し、人々は高熱と内出血、あるいは鼠径部や脇の腫瘍に苦しんだ。そしてある日の朝、放牧されている牛が十数頭死んでいるのが見つかった。牛は引っ掻かれたり、噛みちぎられたりしていた。村人達は狼男か魔女がこの村に呪いを掛けているに違いないと噂した。
翌日、村に魔女発見人を自称する老人が現れた。適当な検査を行って魔女を探し出したと言い、その対価に住民達から金をせしめようという魂胆である。牛が大量死した前日、牛が放牧されていた農地でハンスとリンダが遊んでいた、と村人の一人が証言した。それから村人達はハンスとリンダの怪しい所を次々に言い出した。不作なのにハンスの畑だけは例年と変わらない収穫量だった、夜にリンダが箒に乗って空を飛んでいるのを見た、と真偽に関係なく色々な証言が飛び出した。すっかり村人達はハンスとリンダを悪魔の手先と決めつけ、魔女発見人に二人の身柄を差し出した。
魔女発見人は人差し指程の長さのある大きな針を取り出して、それをリンダの腕に深々と突き刺した。リンダは痛みに耐えられず大きな悲鳴を上げる。魔女は悪魔と契約した際、身体のどこかに契約の印を付けられる。契約の印を付けられた場所は針で刺しても痛くないので、その場所を探しているのだ、と魔女発見人は言った。魔女発見人は次々とリンダの脚、背中、胸に針を刺していき、リンダはその度に悲鳴を上げた。もうリンダの無実は分かっただろう、もうやめてくれ、とハンスは叫ぼうとしたが、その声は民衆の歓声と罵声に掻き消された。リンダの尻に針が刺されたとき、彼女は悲鳴を上げなかったのだ。ハンスは魔女発見人がわざと針を浅く刺したのを見ていた。リンダの有罪が判明した以上、ハンスについては検査するまでもないだろう、と村人達は判断して、二人を村の穀物庫に閉じ込めた。
二人は両手を縛られて薄暗い倉庫の中に監禁された。明後日には異端審問へ送られることになっている。この領地を担当する判事は、ほとんどの被告を火刑送りにすることで知られていた。二人も異端審問に送られれば火刑は免れないだろう。その前にどれだけ苛烈な拷問が待ち受けているのか、想像しただけでハンスは身震いした。「逃げよう」ハンスが言うとリンダは強く頷いた。
どうにか逃げる方策は無いだろうかとハンスは辺りを見回すが、この腕の拘束を解かない限りどうすることも出来ないだろう。リンダの細い腕に開けられた穴の痕からは未だに血がたらたらと流れ出ていた。無実の彼女にこんな責め苦を与えるとは、ハンスは魔女発見人と村人達を許し難い気持ちになってきた。丁度その時、外が騒がしくなってきたと思うと、村人達が扉を蹴破って倉庫に入ってきた。
「悪魔の手先どもめ、お前が俺の家族に呪いを掛けたせいで、妻が黒死病になって死んだんだろう」
「森の中で魔女の集会へ参加したに違いない、おい、他に魔女がいるなら言え」
彼らは弁明の暇も与えず次々と二人を罵った。この前まで協力して生活し、祭りの日は一緒に酒を飲み交わして踊っていたのに、確たる証拠も無しに狼男だと決めつける、何たる彼らの軽薄さ……。ハンスはこの世の全てに裏切られた様な気分だった。
「本当に悪魔がいるなら、それはお前らの方に違いない」
ハンスが吐き捨てると激昂した村人達は二人に襲いかかった。殴る蹴る、唾を吐きかけられ、あらゆる罵詈雑言を聞いた。ハンスは黙って暴行に耐えていたが、リンダが悲鳴を上げ続けているのを聞くと、この腕の拘束が恨めしくて仕方が無い。必死に拘束を解こうと腕に力を込めたけれども敵わず、段々彼女の悲鳴が弱くなっていき、遂には聞こえなくなった。
「死んだのか……?」
「それは不味い、裁判前に被告を殺したとなれば、俺らも罪に問われる」
「小屋とハンス諸共焼いてしまおう、悪事の発覚を恐れて魔女が自ら魔法を使って発火したことにすれば良い」
そう村人達は言うと、横たわるリンダの上に飼料用の穀物を被せ、火を付けると一目散に逃げ出した。ハンスは叫びながらそれを見ているしかなかった。リンダを包んで燃え上がる炎はハンスの怒りの炎でもあった。彼はその炎の後ろに悪魔の姿を見た。馬の脚を持ち、山羊の角を生やした、ハンスに瓜二つな若い男の姿をしていた。
ハンスの名を呼ぶ声が聞こえ、そちらの方を向くと若い羊飼いが立っていた。
「ハンス、本当に申し訳無い……。俺はハンスとリンダの無実を信じていた、なのに……。せめてハンスは助けたい」
そう言って羊飼いはナイフを取り出してハンスの拘束を解いた。
「さあ、この小屋が焼け落ちる前に早く逃げよう」
「ありがとう、助かったよ……。ところでそのナイフを僕にくれないか、村人に追いかけられるかも知れない、護身用に持っておきたい」
羊飼いはハンスにナイフを手渡すと、それじゃあ無事を祈ると言って去った。ハンスは追いかけると、ナイフを羊飼いの背中に思い切り突き立てた。羊飼いは驚いて振り返る。そこには普段のハンスとは別人の様な、残酷な男の顔があった。ハンスはそのまま羊飼いを引きずりながら火が一層強く上がりだした倉庫から出た。そこでハンスは羊飼いに刺さったナイフを勢いよく抜いた。血飛沫が噴き出して服を赤く染めるのにも構わず、ハンスはまた繰り返し羊飼いの背中を刺す。その度に羊飼いは大きな悲鳴を上げ、その悲鳴を聞きつけた村人達が何事かと集まって来た。地獄の業火かと思われるほど激しく燃える倉庫の前で、血の滴るナイフを持ったハンスが目をギラギラさせて村人達を睨んだ。
「やっぱり狼男じゃないか……」
そう呟いた村人にハンスは躍りかかると、喉を掻き切った。そこから、ハンスはまるで踊るように村人達を襲っていった。その騒ぎを聞いて家から出てきた村人達も、ハンスは許さなかった。元来、彼は村一番の力持ちである。更に怒りが血を沸き立たせ、筋肉を奮い立たせている彼を止められる者は誰もいなかった。気が付くと彼の周りは死体だらけになっており、血が池を作っていた。ハンスは転がっている死体の内の一つを持ち上げると、腕の切り傷に噛み付いて、肉を噛みちぎった。悪くない味がする、と思った。
ハンスが見上げると、空はいつの間にか暗くなっていた。今夜は丁度満月だった。ハンスは服を全て脱いで、血にまみれた身体を川で洗い流すと、夜の森に消えていった。
狼男 水月日暮 @mizutsuki_higure
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