壊れた蛇口からマナが溢れて困ってる

わく

第1話

蛇口が壊れた。

昨日からマナの出が悪いなあ、とキイトは思っていた。地獄から直通の蛇口で、メンテナンスが大変だからと、100年間くらいほったらかしてたから壊れたのだろう。

巨大な滝のような音と共に、マナは洗面台から溢れていた。


「うわあ、あふれちゃってるよ」


立ちつくすキイトの後ろから、低い声が聞こえる。

ヨモギタバコの臭い。カイコだ。


「これ、どうすればいいんだろ」


キイトは振り返って、どうにかしてくれ、といったような視線をカイコに送った。

同居人のなかでも、カイコはマナの扱いに詳しい。自分の部屋までマナを配線してくれたときのことを、キイトは思い出していた。


「これ吸い終わったら見るわ」


カイコはあくびをするように煙を吐き出す。ネグリジェとスリッパ以外は何も身につけていない。マナに侵された肌は白く、寝間着の境がわからないほどだ。短く刈られた髪は赤く染められているが、生え際に白いものが見える。

鼻のあたりにある頑固なソバカスと、どんよりとした青い目は煙でちらちらと隠され、なにを考えているのか、顔を見上げてもキイトにはわからなかった。わかったことは今までもないのだが。


「ねえ、カイコ」


キイトが呼びかけると、カイコは曖昧な返事をした。


「あれって地獄とつながってるんだよね?」


うん、とカイコはうなずく。

キイトは蛇口と、渦をつくってマナを吸い込み続ける洗面台と、それでもあふれ出てくる白濁色のマナに向きなおった。巨大な滝の流れるような音は、当然まだ続いている。


「地獄って、どんなとこ?」


今度はカイコも返事をしなかった。タバコを壁に押し当てて消し、床に落とした。

「ねえってば」と、キイトは返事を催促する。


「暗いとこだよ。暗くて、こわいとこ。あとマナが湧いてる」


カイコは言った。


「みんなそうやって言うんだよね。誰も行ったことないのに」


キイトは不服だった。もっとお話が聞きたい、というわけだ。マナが溢れる場所。決して行くことのできない場所。


「あたしも学がないから……。ま、それはいいとして、さっさと蛇口を直しますか」


にやり、とカイコは笑う。

誤魔化すときのクセだ、とキイトは思った。真似をして笑う。

ヨモギタバコは臭いが、慣れると落ち着く香りになる。カイコが入居してから、もう40年は経つ。キイトもすっかり慣れきって、同じ部屋でぷかぷかされても平気になった。

しかし、同じ部屋でマナが溢れていると、その落ち着く香りも、すぐに吸収されてしまう。


「じゃあちょっと見てみるから、あたしの部屋に行って工具箱を取ってきてくれる?」


カイコはキイトの隣にかがんで言った。

普通の2倍は大きいカイコがかがんでも、普通より少し小さいキイトと視線は同じくらいだ。

キイトには蛇口と、洗面台と、溢れるマナ以外のなにかは見えず、カイコがなにを見るのか気になっていたのだが、とにかく工具をとってくることにした。


脱色された木製のドアをくぐり、洗面所を出る。

「開けたら閉めないとだめなんだよ」と、カイコに声をかけ、ドアを閉める。


赤い、フカフカのカーペットが敷かれた廊下。

左の奥には玄関があり、右の奥には採光窓がある。朝日が差し込んでいる。

洗濯日和だ、とキイトは思った。直してもらってる間に水を汲んできて、カイコともう一人の同居人が溜め込んでいる洗濯物を片付けよう。



玄関から2番目に近いのが、カイコの部屋だ。表札はつけていないし、鍵もかけていない。


中は狭く、薄暗く、ほこりっぽい。元は物置だったのだ。

しかし、物置だったころより明らかに散らかっている。

服、下着は脱ぎっぱなし。本、新聞は読みっぱなし。床に伏せて置かれている貸本は、前に来たときから位置が変わっていない。返却期限は過ぎていないだろうか、とキイトは思った。


酒瓶に囲まれるようにして鎮座する簡易寝台には、ペラペラのシーツとマットレスがテキトーに乗っかっている。

丁寧にベッドメイクをしてから、キイトは寝台の下に置かれた工具箱を持って部屋を出た。


工具箱は朱色に染められた金属製で、キイトが持つには重かった。歩くたびに中の工具が揺れて、こすれ、ガチャガチャと音を立てる。キイトはその音が好きだった。



洗面所の床にはマナが満ちつつあった。まだ部屋の外までは侵食していないものの、このままでは時間の問題だろう。


カイコは壁に隠された戸を開いては、配管を手探りで弄り、うんうん唸っていて、キイトが部屋に入ってきた音を聞きつけて、機嫌よく感謝した。


「うーん……」


キイトが持ってきた工具箱を開き、ピカピカ光る、カイコの手にはすこぶる小さく見える工具を操る。半時間ほどバルブをねじったり、逆方向にねじったり、軽く叩いたり、洗面台に手をつっこんだりしていたが、何事も起こらなかった。


「ダメだ、わからん」


カイコは額の汗を腕で拭いながら言った。


「原因、わかんないの?」


滝のような音は大きくなるいっぽうだった。部屋からマナが溢れないように、家中の容器で食い止めていたキイトは、洗濯用の金ダライを床に置いた。


「わからん。配管は全部正常。ずいぶん長いことメンテナンスはしてなかったけど、必要ないくらい。元栓閉めても止まらないし、どっこも壊れてないし、お手上げ」


「えー、どうするの、これ」


「それもわっかんない」


カイコは立ち上がり、溢れ出るマナを手ですくい、口に含み、飲み込んだ。


「うん、普通にマナ。どうにもならなそう」


工具をしまい、箱を閉じる。


「市の魔法機械局に連絡してみよっか」


キイトは言う。カイコも「ま、しかたないね」と軽くうなずく。


と、滝のような音が一際大きくなり、部屋が大きく振動した。


キイトが呆然としていると、洗面台から、白いなにかが、徐々に浮かび上がってきていた。


揺れが収まる。

カイコはキイトに駆け寄り、洗面台とキイトの間に立つ。


気だるそうな、かん高い声が洗面台から響く。訴えかけるような声。


音は止み、蛇口から流れ出るマナはその量を減らしつつあった。


洗面台に浮かび上がったのは、白い赤ん坊だった。


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