ある母親の運命
「セドリック様ったら、私に変な薬を飲ませてね、そのせいで猫みたいな姿になっちゃって……まだ毛が残ってるみたいなんです」
マリアがエミリアの亜麻色の髪を櫛で梳かすと、白くふわふわした猫毛が絡まった。
「それは大変でございましたね」
「もし次同じことをされたら、爪で引っ掻いてやるんだから!」
エミリアがニャアと威嚇する真似をするのを見て、マリアは思わずくすりと笑った。
エミリアはマリアに対して心を開いているのか、身支度を整えている最中、よくその日にあった出来事を話してくれる。
エミリアに限らず歴代の恋人役も、マリアに対して本心を見せることはよくあった。
しかし、彼女たちは元々そういう性格なのか、それともセドリックの魔力でおかしくなったのか……次第に歪んだ感情をぶつけるようになる。
(だけどエミリアお嬢様は違う)
これまで通りなら、性格が歪み始めてもおかしくないところ、エミリアは未だにここへ来た頃の純粋さを保ち続けていた。
(そんなエミリアお嬢様と話していると、とっくに捨てたはずの外の世界への未練を思い出すわ)
マリアはエミリアを通して、遠い過去のことを思い出していた。
◇◇◇
マリアには夫と幼い娘がいた。
なかなか子供に恵まれず、マリアが三十六歳のときようやく授かった我が子を、夫婦は心待ちにしていた。
しかし、生まれてきた娘はとても病弱で、医師からは「十歳まで生きられないかもしれない」と宣告される。
夫婦は様々な医師や薬師を頼ったが、期待する返答は全く得られない。
そんなとき、ノクテラからやってきたという商人から、マリアはこんな話を聞いた。
――エルノールの森に、どんな病気でも治せる薬師がいるらしい。
(どんな病気でも……なんて怪しすぎる)
そう思いながらも、もうそれ以外に頼るあてが見つからず、マリアはエルノールの森へ向かうことを決断する。
「一人で大丈夫なのか?」
「この子を育てるにはお金が必要よ。私は一人で大丈夫だから、この子と仕事をお願い」
マリアは一人でエルノールの森へと向かった。
ノクテラで薬師について聞いても、誰もそんな噂は知らないというばかり。
(やっぱりあの話は嘘だったのかしら)
そんな諦めを抱きながら森の中へ入りしばらく歩くと、美しい花に囲まれた屋敷に辿り着いた。
薬師について尋ねようと戸を叩くと、中から出てきたのはゾッとするほど美しい青年。
「やあ、何かお困りで?」
「あの……この森にどんな病も治せる薬師がいると聞いたのですが……」
「ああ、それはきっと私のことだ」
セドリックと名乗るその青年は、マリアから娘の病気について聞くと、手早く薬を調合していった。
薬はあっという間に完成したが、なかなかマリアに渡そうとしない。
その時、マリアはセドリックの瞳の奥に、人間特有の暖かさや優しさが一切ないことに気づいた。
まるで、美しいガラス玉のように冷たい光だった。
「あの、どうしたら薬をいただけるでしょうか」
「君にここで働いてほしいんだ。今ちょうど使用人を探しててね。君みたいな落ち着いた人が欲しかったんだ。」
「ですが……」
「ああ、もちろんお嬢さんが元気になってからでいいよ?」
「家族も一緒ではいけませんか?」
「うん、君一人で」
「……わかりました」
マリアは薬を受け取ると、家族の待つ村へと帰っていった。
セドリックの薬を飲んだ娘の体調はどんどん回復し、医師からも「これなら問題ないでしょう」とお墨付きも得られた。
安心したマリアは夫にセドリックとの契約を打ち明ける。
「そんな……せっかく娘が元気になって、これからという時に……」
「ごめんなさい……」
「すぐに帰ってくるんだよな……?」
「……わからないわ」
夫は必死にマリアを止めようとした。
しかしマリアの本能は、セドリックとの契約を破ってはいけないと警告していた。
(あれだけの回復力……彼は人間ではないのかもしれない)
何より、契約を破った代償が娘に返ってきたらと思うと、マリアはセドリックの元へ向かわざるを得なかった。
(ごめんなさい……)
マリアは二人に手紙を残し密かに家を出ると、再びエルノールの森へと向かった。
◇◇◇
(あれからどれくらいの年月が経ったかしら)
この屋敷は時間が歪んでいて、外の世界でどれほどの時間が経過しているかはよくわからない。
「……セドリック様って猫が好きなんですか?」
「そういった話は聞いたことがありませんね」
「セドリック様の好きなものって何かなあ……」
(娘が大人になったら、こうやってお喋りをしたり、恋の相談を受けたりすることもあったのかもしれないわ)
我が子と作れなかった未来をエミリアに重ねながら、今日もマリアはセドリックから与えられた仕事をきっちりこなす。
全ては娘の幸せのためだから。
悪魔と交わした【約束】は、永遠に解けない愛の鎖となりました。 知琴 @chikoto_nov
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