第22話 いやいや、絶対避けてるよね
朝から、会社の空気がなんとなく柔らかい。
金曜日の朝倉さんとの飲み会の余韻が残っているような、そうでもないような。
そんな空気の中、ふわぁとあくびを一つ。
エレベーターを降りて営業フロアに向かう廊下で、後ろから朝倉さんに声をかけられた。
「凪さん。おはようございます」
「あ、おはようございます」
「金曜日はありがとうございました、すごく楽しかったです」
「いえ、こちらこそ」
「なんか……凪さんと話してると、時間忘れちゃうんですよね」
そう言いながら、朝倉さんがふわっと隣に並んでくる。肩が触れた。
「あ、私も……です」
顔が自然と熱くなる。横顔が近い。朝倉さんの香水がふわっと漂ってきて、心臓がドクン、と大きく鳴った。
「そうだ、次はどこがいいですか?」
朝倉さんがスマホを取り出して、ぐいっと私の肩に体を寄せてくる。
「えっと……」
「あ、そういえば、駅前にできたあのお店、ご存知ですか?イタリアンの」
私が屈んで画面を覗き込もうとすると、朝倉さんが体をさらに寄せてきた。二人の頭がくっつきそうなくらい近い。
というか、くっついてる。朝倉さんの呼吸が聞こえる。
「ああ、看板だけ見たことあります」
「あそこのホットワイン、めちゃくちゃ美味しいんですよ。この季節にぴったりで」
朝倉さんの声が弾んでる。目がキラキラしてる。
そして、さりげなく私の二の腕を掴みながら、スマホの画面をスクロールしていく。もはや密着状態。
私たちは完全に"次の約束"の話をしている。
「また二人で……行きませんか?凪さんとなら、何時間でも居られそうで」
囁くように言う朝倉さんの最後の一言が、妙に甘い。
「……あ、ああ、はい。もちろん」
気づけば即答してた。考える前に口が勝手に返事した。
その瞬間――数メートル後ろで、ピタッとヒールの足音が止まった。
ゆっくり振り向くと――花森。
ファイルを抱えたまま、棒立ち。
目が合った。
(え……)
花森の瞳が、ほんの一瞬見開き、揺れた。
そして、目はうっすらと潤んでいる。
(……え?)
呆然としている間に、花森の表情が暗く沈んだ。
眉が下がり、唇がきゅっと結ばれる。
何か言いたげに口が少しだけ開きかけて……でも、言葉は出てこなかった。
「えっと、花森さ――」
声をかけようとした瞬間、花森は無言で踵を返した。
会釈すらなし。
背中が、どこか痛々しく見えた。
心臓のドキドキが、さっきと全く違う意味で加速する。
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
(……え、なに?今の顔……?)
理由がわからない。けど、確実に…今まで見たことないような表情だった。
廊下に残された私と朝倉さん。微妙に気まずい沈黙が落ちる。
「じゃあ、また」
朝倉さんは何事もなかったように笑って、エレベーターに乗ってデザイン部のフロアに戻っていった。
私は一人、花森が消えた廊下をぼんやり見つめる。
胸の奥に、妙な予感がくすぶった。
***
あれからの花森は、普段と様子が違った。
営業のフロアに入ると、コピー機の前で花森を見つけた。
深呼吸して、少し笑顔を作って、歩み寄る。
「おはよう」
「……おはようございます」
目も合わせない。冷たくて小さい声。声の温度がマイナス五度。
返事の間に、明らかに一拍の躊躇があった。
「あ、そうだ三連休さ、結局――」
「すみません。急ぎのタスクがあるので」
パシッ。
何か話しかけないと、と思い雑談を持ちかけるも、花森はコピー機から用紙を取るとスタスタ去っていった。
……え
完全に遮断された。話の途中で。まさかの強制終了。
いや、私の気にしすぎかな?
本当にタスクがパツパツで忙しくて余裕がないのかもしれない。
それなら後で手伝うことあるか聞いてみよう。
そう自分に言い聞かせてモヤモヤした気持ちを引きずりながらデスクに戻ると、少し離れた席で花森の声が聞こえた。
「田村さ〜ん、おはようございます♡三連休なにされてたんですかあ?」
声のトーンが、三段階くらい上がってる。
あざとかわいいスイッチオン。
しかもさっきの私に見せた冷たい表情とは別人の、甘ったるい笑顔である。
目はきらきら。肩を田村さんに寄せている。
……は?
さっき急ぎのタスクあるって言ったよね。
いま田村さんに「どこ行ったんですかぁ〜?」って聞いてるよね。
完璧に長々と楽しそうに雑談してるよね。
胸の奥がチクッとした。
(……何それ)
見なかったフリをして仕事に戻ろうとしたけど、視界の端で、花森が笑いながら「うふふ、もう田村さんやだあ〜」とか言ってるのが見えた。
肩をぽんぽん叩いたり、腕を掴んでぶらぶらしたり。完全に楽しそう。
……いやいや、おかしくない?
キーボードを打つ音が、やけに荒くなった。
***
お昼前、すぐ隣で花森の声が聞こえた。
「佐々木さん、すみません〜。このExcelなんですけど、ここの関数がうまく動かなくてエラーになっちゃってぇ……」
花森が、甘えた声で佐々木くんにExcel関数の相談をしている。困り顔を作って。
「あー、ごめん…。俺もそこ分からなくて」
佐々木くんが首を傾げてる。
「確かこれ、浅海さんが関数組んでたから、浅海さんに聞いてみてよ」
その瞬間、花森の動きが止まった。
私も、タイピングの手が止まる。
花森の視線が、ゆっくりと私の方に向く。
目が、合った。
「あ……それ、」
私が声を出そうとした瞬間、花森の視線がスッと逸れた。まるで何も見なかったかのように、視線を佐々木くんに落とす。
「……分かりました」
花森が、小さく佐々木くんに笑いかけて言った。
「やっぱりちょっと、自分でやってみます」
そう言って私の方を通り過ぎて、足早に自席へ戻っていく。
(……え、今の)
私、助けようとしたんだけど。
私が組んだ関数なんだから、私が一番わかってるのに。
胸の奥が、ギュッと締め付けられる。ざわざわした感じが、喉の奥まで上がってくる。
***
昼休み。
食堂に向かうと、珍しく花森が一人で座っていた。
いつもは男性社員誰かと一緒にいるのに。今日はスマホを見ながら、ぼんやりサラダをつついてる。
箸の動きが遅い。明らかに元気がない。
トレイを持って、花森のテーブルに近づいた。
「隣いい?」
花森の顔が、一瞬こわばった。箸を持つ手が、ピタリと止まる。サラダのトマトが箸から転げ落ちた。
「あ、そうだ。さっきの――」
私が話しかけようとすると、すぐに花森はトレイを持って、黙って立ち上がった。
そして数テーブル向こうで偶然席についた横川さんの方へ向かう。
「あ、横川さ〜ん♡お疲れさまですぅ。お隣いいですかっ?」
そう言って別部署の男性社員の隣に腰掛ける。さっきまでの元気のなさはどこへやら、完璧な甘ったるい笑顔。
私は椅子を引きかけたまま、固まった。
(……え、今、逃げた?逃げたよね?)
(うわ、これ、なんか完全に避けられてる)
もう、これは確信した。
確信せざるを得なかった。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。息が、詰まる。
***
時計の針は夜六時を回っていた。
花森がパソコンの前で、深いため息をついている。
花森のデスクの後ろを通りかかった時ちらっと画面を見る。
画面には大量のタブが開いていて、出張手配のサイトと、Excelのエラー画面、エラー解消方法が書いてあるサイトなどが交互に表示されている。
タスク過多なのだろう。肩が強張ってる。
これでは今日も遅くまで残業確定だ。
私は花森にそっと近づいた。
「花森さん」
「……」
反応がない。聞こえてないフリ?
「花森さん、出張の手配、手伝おうか?」
ようやく花森が顔を上げた。けど、目は合わせない。視線は私の肩のあたりで止まってる。
「関数、どこがエラーになってる?一緒に見るよ」
花森の表情が、一瞬だけ揺れた。けど、すぐに元の無表情に戻る。
「……結構です」
冷たい声。
「自分でやるんで」
そう言って、再びパソコンに向き直った。
完全にシャットアウト。会話終了のお知らせ。
私は立ち尽くしたまま、花森の横顔を見つめる。
(……なんで)
大変そうだから助けたいだけなのに。
なんでそこまで拒絶されなきゃいけないの。
胸の奥が、ギュッと痛む。苛立ちなのか、寂しさなのか、自分でもわからない。
そうしているうちに花森がデスクから立ち上がり廊下に向かった。
私もその背中を追いかけた。
「ねえ、花森さん」
「……何ですか」
振り向かない。背中で話してる。
肩が、微かに強張ってる。
「なんか……避けてない?」
花森の背中が、ピクッと動いた。肩が一瞬上がって、すぐ下がった。
「別に、避けてなんかないですけど」
嘘つけ。めっちゃ避けてるだろ。
「いや、明らかに――」
「ちょっと情シス部に用事があるんで。失礼します」
そう言って、エレベーターに駆け込んだ。
ドアが閉まる。
私は廊下に一人、取り残された。
(……いや、別に、どうでもいいし)
(どうでもいいのに……)
(なんでこんな気になるの)
心の中で必死に言い聞かせている自分がいる。
でも、どうでもいいことにしては、胸のあたりがやたら重い。チクチクして、息がしづらい。ざわざわして、落ち着かない。
何なの、この感じ。
寂しい?
焦ってる?
苛立ってる?
全部?どれも違う?
廊下の鏡に映った自分の顔がむすっとしてた。でもなんか、ちょっと、泣きそうな顔にも見える。
「……あんな奴と話せなくても、どうでもいいのに」
誰にも聞こえない声で呟いて、営業フロアに戻った。
でも、胸の奥のチクチクは、パソコンの前に座ってもしばらく消えなかった。
胸騒ぎも、心の重さも、焦りも。
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