第15話 忘年会、隣の憧れの人
「乾杯」
私と花森は、隣に来た朝倉さんとグラスを合わせる。カチン、という音が響いた。
「お疲れさまです」
朝倉さんの声が柔らかく響く。
それから三人で少し話した。企画部の早川部長の武勇伝とか、経理部の森口課長の口癖とか、そんな社内の他愛もない話。花森も笑ってはいるんだけど、なんかそわそわしてる。視線が泳いでて、グラスを持つ手もやけに動きが多い。落ち着きない子供みたいだ。
そうこうしているうちに、隣でふらっと花森が立ち上がった。ピーチウーロンの入ったグラスを片手に。
「ちょっと、あっちの席行ってきますね」
私は花森を見上げる。笑顔なんだけど、なんか引きつってる気がする。目が笑ってない…気がした。
「うん。じゃあ、また後で」
花森は軽く会釈して、すたすたと田村さんのテーブルに向かって歩いていく。
「田村さ〜ん♡」
花森の声が、やけに甘い。いつもの猫撫で声、あざとさフルパワーモードだ。田村さんが「おお、お疲れ」と反応している。
私は花森の背中を見送った。なんかやけに胸がざわざわする。いつもの光景なのに。なんでだ。
「花森さん、田村さんと仲良いですね」
朝倉さんがくすっと笑い、何気なく言う。
「…そう、ですね」
私は曖昧に答えることしかできなかった。どう答えていいか分からない。
ふいに朝倉さんがポケットから何かを取り出した。電子タバコだ。
「吸われるんですか?」
思わず声が出た。
「はい、ちょっとだけ。…がっかりしました?」
朝倉さんが、少しいたずらっぽく笑う。スイッチをつけたタバコを咥えながら上目遣いで私を見る。
「いや…ちょっと意外で」
「普段は控えてるんですけどね。飲み会の時だけ吸いたくなるんです」
煙を吐き出す姿が艶やかで色っぽい。煙が細く立ち上る。
「お酒と合うって言いますもんね」
「そうそう、分かってくれます?」
「私は吸わないんで分からないですけど」
朝倉さんがふふっと少し笑う。煙を吐き出しながらグラスを傾ける姿が、いちいち絵になる。
***
「例の案件、無事に通りました。ありがとうございます」
私は朝倉さんに向き直った。声が上ずる。心臓がどきどきと脈打って、喉が渇く。
グラスを持つ手に力が入って、指先が白くなってる。緊張で水滴が妙に冷たく感じる。
「いえいえ、浅海さんの資料があったからこそですよ」
朝倉さんは完璧に整えられた髪と上品な微笑みで答えてくれる。その笑顔を見てるだけで、また心臓が跳ねる。落ち着け、私。社会人何年目だ。
「いえ、朝倉さんのデザインが良かったんです。クライアント、めちゃくちゃ食いついてましたから」
「そう言っていただけると嬉しいです」
朝倉さんが身を乗り出す。ブラウスの胸元から鎖骨のラインが見える。視線をそらす。どこ見ればいいんだ。手のひらに汗をかいてる。
もっと自然に話したいのに。緊張で喉がカラカラだ。ビールを一口飲む。二口飲む。喉を通る冷たさが心地よくて、少しだけ落ち着く。
「そういえば、次のプロジェクトの件なんですけど——」
朝倉さんが話し始める。新しい企画の話、部署の裏話。私はうなずきながら聞く。
お酒が入ったせいか、朝倉さんの表情がいつもより柔らかい。頬も少し赤くて、かわいい。
朝倉さんが電子タバコに手を伸ばし、ゆっくりと煙を吐き出す。その仕草がやけに色っぽくて、思わず見入ってしまう。
「部長、あの時焦ってましたよね」
「そうなんですよ。でも朝倉さんが上手くフォローしてくださって」
「いやいや、浅海さんの資料構成があったからですよ」
朝倉さんが目を細めて笑う。
会話が弾む。お酒のおかげで、少しずつ緊張がほぐれてきた。ビールを飲むたびに、肩の力が抜けていく。アルコール様様だ。
こんなに朝倉さんと話せる機会なんて滅多にない。グラスを持つ手の震えも、いつの間にか止まってる。
そんな中、ちらっと花森が視界に入る。
あ、顔赤いな。だいぶ無理してない?
大丈夫かな。またベロンベロンにならないといいけど。
「浅海さん?」
そんなことをぼんやり考えていると朝倉さんの声がして、気づけば朝倉さんの顔が近い。すぐ隣だ。いやいや、ちょっと、近い近い。
心臓がまたバクバクする。
「あ、はい。すみません」
我に返る。話に集中しないと。もう一口、ビールを飲む。落ち着け。
でも、視線が時々あっちのテーブルに向いてしまう。勝手に目が動く。
花森は田村さんや営業の男性社員たちに囲まれて、楽しそうに笑ってる。
田村さんが何か言って、花森が「キャハハ」と甲高く笑う。いつもよりボディタッチ多めだ。田村さんの肩とか腕をねっとりと触ってる。
あの笑い方も目つきも、私と二人で話してた時とは全然違う。
「——だから、面白いでしょ?」
「…え?……あ、はい。確かに」
適当に相槌を打つ。やば、朝倉さんの話、聞けてなかった。何の話だっけ。
「浅海さん、ちゃんと聞いてます?」
朝倉さんが少し拗ねた顔をする。
「ごめんなさい、ちょっと酔いが回ってぼーっとしてます」
「ふふ、そうですか」
朝倉さんがグラスを置く。細い指が綺麗だ。
「実は私、映画が好きで」
「どんなジャンルですか?」
「ミステリーとか、サスペンスとか」
朝倉さんが少し間を置く。
「あと、意外と恋愛映画も観るんですよ。」
「私もです。この前、『春の名残に』観ました」
「ああ、あれ。ラストシーン、良かったですよね」
朝倉さんが身を乗り出す。距離が近い。香水の香りがする。甘くて大人っぽくて、柑橘系の奥にムスクの香り。いい匂いだ。
「そうなんです。あそこで泣きました」
「分かります。浅海さん、そういうの好きなんですね」
朝倉さんとの共通の話題で、会話が途切れない。映画の話、本の話、休日の過ごし方。お酒が回るにつれて、会話がどんどんスムーズになっていく。
朝倉さんとの距離が縮まった気がする。緊張もすっかりほぐれてきて、肩の力が抜けて、もう普通に話せてる。
朝倉さんが電子タバコを咥えて、ゆっくりと煙を吐き出す。その横顔が綺麗で、見惚れてしまう。
お酒が進んで、朝倉さんの雰囲気が変わってきた。いつもの完璧で隙がない感じから、ふにゃりと柔らかい表情に変わっていく。
目がとろんとしていて、笑い方も崩れてる。
「浅海さんって、話しやすいですよね」
朝倉さんが身を乗り出した。距離が近くて、肩が触れてる。
「そう、ですか?ありがとうございます」
「普段、こういう話できる人って少ないから楽しくて」
朝倉さんの目がうるうるしてる。お酒が回ってる。頬も赤くなってて、かわいいな、と思ってしまう。
でも——また、視線があっちのテーブルに向いてしまう。勝手に目が動く。
花森は相変わらず男性社員たちに囲まれて、楽しそうに笑ってる。
でも、一瞬こっちを見た気がした。
朝倉さんの話に集中しないと。せっかくのチャンスなのに。
「そういえば、この辺り、美味しいお店多いですよね」
朝倉さんが話題を変える。
「へぇ、そうなんですか?」
「そう。イタリアンとか、フレンチとか」
朝倉さんがグラスを傾ける。
「この前SNSで見つけた隠れ家的なビストロがあって。雰囲気も良くて、ワインも美味しいんですよ」
「へえ、いいですね」
「浅海さん、ワインも飲まれます?」
「好きです。でも詳しくないんですけど」
「私も詳しくないですよ。美味しければ何でもいいかなって」
朝倉さんが笑う。ふっと煙を吐き出して、グラスに手を伸ばす。
「でも、そういうお店って一人じゃ行きにくいんですよね」
「分かります」
「だから、誰かと行きたいなって思ってて」
朝倉さんが少し間を置く。
「浅海さん、もし良かったら、今度一緒に行きませんか?」
「え?」
思考が止まる。え、今何て。デート?これデート?え、違う?お酒で落ち着いてきたはずなのに、また心臓がドキドキし始める。
「いや、でも…」
「ちょっと仕事終わりに。浅海さん、話も合うし、楽しそうだなって」
朝倉さんが首を傾げる。髪が肩から滑り落ちて、白い首筋が見える。
「ダメ、ですか?」
少し唇を尖らせる。
「行きます」
即答してた。もう口が勝手に動いた。
「本当ですか?嬉しい」
朝倉さんが嬉しそうに笑った。
それから、しばらく会話が続いた。お酒が回って緊張もすっかりほぐれてる。朝倉さんとの会話が楽しい。お店の話とか、趣味の話とか。アルコールのおかげで、リラックスして話せてる。
——また視線を感じた。
何気なく、そちらを見る。花森がこちらを見てた。目が合った瞬間、花森は視線を逸らす。
いや、多分私の気のせいだ。偶然だ。そうに決まってる。
朝倉さんが何か話しかけてくるたびに、私は笑顔で答える。もしかしたら表情も少しヘラヘラしているかもしれない。
また、視線を感じた。目線だけそちらに向ける。やはり花森が見ている。
目が合うと、花森は、また視線を逸らした。
今度ははっきり見えた。あいつ、今絶対こっち見てた。
胸のざわつきが大きくなる。なにこれ。
「浅海さん?」
朝倉さんの声が耳元で響く。吐息が首筋にかかる。アルコールとタバコの香りが混ざって、頭がくらくらする。
「あ、すみません。えっと…何でしたっけ?」
朝倉さんの話に戻る。でも、集中できない。頭に入ってこない。意識が半分、いや八割ぐらいあっちに向いている。
憧れの先輩と二人で過ごす時間。これ以上ないチャンスなのに、胸の中がモヤモヤしてる。
これは何なんだろう。
何でこんなにモヤモヤ、チクチクするんだろう。
答えが分からない。分かりたくない気もする。
私は一旦、考えるのをやめてビールを一気に飲み干した。
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