第10話 至近距離の朝

 次の日の朝。

 目を覚ますと、目の前に花森の顔があった。

 超、至近距離である。


 吐息がかかるほどの距離で、花森が眠っている。


 ……え、何で。


 昨夜は確か、お互い背を向けて寝たはずだったのに。

 いつの間にか向き合う形になっていた。


 花森の寝顔が、すぐそこ、数センチ近くにある。


 長いまつ毛。

 少し開いた唇。

 規則正しい寝息。


 普段、会社で見せる計算された表情とは全然違う、無防備な顔。


 視線が、自然と下に移動する。


 白い首筋。

 華奢な鎖骨のライン。

 身体のラインにぴったり沿ったキャミソールから覗く、白くて柔らかそうな肌。

 ショートパンツからは、すらりと伸びた太もも。

 胸元が、呼吸に合わせてゆっくりと上下している。


 ドクン、と心臓が跳ねた。


 いやいや、何、こんなねっとりと舐め回すように見てるんだ、私。変態か。


 我に返って視線を天井に移そうとしたとき、花森の唇が小さく動いた。


「ん……」


 小さな声。

 まずい。起きる。

 慌てて目を逸らそうとしたけど、間に合わなかった。


 花森の瞼が、ゆっくりと開く。

 ぼんやりとした目が、私を捉える。


 数秒の沈黙。


 お互いの顔が、近すぎる。


「……え」

「あ」


 声が重なった。

 花森の目が、みるみる見開かれていく。


「……っ」


 花森の顔が一気に赤くなる。

 でも、動かない。

 私も固まってしまい動けない。


 至近距離で、見つめ合ったまま。

 花森の唇が、震えながら開いた。


「……浅海さん」

「う、うん」

「何、人の寝顔、じっと見てるんですか」


 小さい声。

 でも、はっきりと聞こえた。


「見てないよ」

「見てました」

「見てない」


 花森の目がじとっとした目になる。


「エロ親父ですか」

「親父じゃない」

「じゃあエロいのは認めるんですね」

「エロくない」

「じゃあ何で見てたんですか」


 花森が少し意地悪そうに笑った。

 でも、耳まで真っ赤だ。


「……たまたま、寝返り打って向き合ってただけ」

「嘘ばっかり」


 花森が小さくため息をついて、ようやく体を起こした。

 私も慌てて体を起こす。


 狭い部屋の端と端。

 できるだけ距離を取った。


 エロ親父扱いされて、憎まれ口を叩かれて腹立たしい。

 でも、心臓のドキドキがなぜか止まらなかった。


***


 チェックアウトを済ませてネットカフェを出ると、外はもう明るかった。

 日曜の朝の澄んだ空気が、肺に流れ込む。


「じゃあ、私こっちなんで」


 花森が駅の方を指差す。


「うん。気をつけて」


 花森が小さく手を振った。

 私も手を振り返す。

 それだけ。

 特別なこともなく、いつもの軽い別れ方。

 花森の後ろ姿が、霜の向こうに消えていく。


 ……何だろう、この妙な感覚。

 胸の奥が、ざわざわする。

 いつも通りの日常に戻るだけなのに。


***


 週明け、月曜日。

 出勤すると、花森がいた。


 ばっちりメイク。

 フェミニンな白のブラウスにマーメイドスカート。

 髪も綺麗に巻かれていて、整ったハーフアップ。

 男性社員と甘ったるい笑顔と猫撫で声で話している。

 いつもの花森だ。


 通常運転か。


 私はデスクに向かって、パソコンを立ち上げた。

 でも、視界の端に花森がちらつく。


 土曜の夜。

 ライブハウス。

 居酒屋。

 ネットカフェ。

 至近距離で見つめ合った、あの瞬間。


 思い出して、顔が熱くなる。

 馬鹿だ、私。

 あっちは全く何も気にしてないのに。


 花森の甲高い笑い声が聞こえる。

 営業の佐々木くんが何か言って、花森が楽しそうに笑って佐々木くんの肩に触れる。


 胸の奥が、ざわざわ、チクチクする。

 何なの、この感じ。


 メールチェックをしようとしたとき、


「浅海さん」


 声がして、ビクッと体が跳ねた。

 振り返ると、花森が立っていた。


「は、はい」


 声が上ずった。「は」の声が裏声になった。

 花森が少し不思議そうに首を傾げる。


「明日の商談資料、チェックしてもらえますか?」


 淡々とした声。

 死んだ目。

 塩対応。

 いつもの花森だ。


「…あ、うん。いいよ」

「ありがとうございます。じゃあ、後でメールします」


 花森が踵を返す。


 去り際、


「土曜日」


 小さな声。


「え?」


 振り返ると、花森が少しだけこちらを見ていた。


「楽しかったです」


 小声。

 でも、はっきりと聞こえた。


 そして、少しだけ笑った。

 計算された笑顔じゃない。魔性の笑顔でもない。

 純粋に、嬉しそうな笑顔。


 その表情が、一瞬だけ見えて、すぐに消えた。


 花森がスタスタと自分のデスクに戻っていく。

 私は、その背中を見つめたまま、固まっていた。

 心臓が、痛いぐらいドクドクと跳ねている。

 顔が、熱い。


 何、これ。

 何なの、この感じ。

 朝倉さんのことを考えても、こんな風にはならない。


 でも、花森のあの笑顔を見ただけで、胸がぎゅっと締め付けられる。


 パソコンの画面を見つめる。

 でも、何も頭に入ってこなかった。


 視界の端で、花森がまた誰かと話している。

 笑顔。

 でも、さっきとは違う、甘くて作られた笑顔。


 さっきの笑顔は、私だけに向けられたもの。

 そう思ったら、また胸がざわついた。


 ああ、もう。

 私、どうなってるんだ。調子が狂う。

 キーボードに手を置いたまま、私は小さくため息をついた。​​​​​





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