第9話 眠れないのは、花森のせい
終電を逃して入ったネットカフェ。
「個室は満席でして……カップルシートが一部屋だけ空いておりますが」
私と花森は思わず顔を見合わせる。
「……別のところ探そうか」
私がそう言うと、花森が少し考えて、
「別にもう、よくないですか。ここで」
意外とあっさり答えた。
「え、いいの?」
「疲れましたし。他探すのも面倒ですし」
「でも、カップルシートって……」
「え、浅海さん、わたしのこと襲う気ですか?」
花森が一歩私から距離を取り、少し怪訝な顔をしている。
…は?
「だ…、誰が…!襲うわけないでしょ…」
「じゃあ問題ないじゃないですか」
私の言葉を遮るようにそう言って、花森が受付の店員に向き直った。
「それでお願いします」
「かしこまりました」
店員が手続きを始める。
私は、何だかモヤモヤした気持ちでその様子を見ていた。
花森の横顔が、少しだけ赤い。
本当は、緊張してるのかもしれない。いや、単に酔ってるだけなのか。
私はというと変に緊張していた。
***
案内されたカップルシートは、思ったより狭かった。
二人で寝るには、明らかに距離が近い。
「じゃあ、わたしこっち側で寝ますね」
花森がシートの端に座った。
「うん」
私も反対側に座る。
二人の密室になると、とたんに心臓がうるさい。なんでだ。
「暑いですね」
「うん、ちょっとね」
おもむろに花森がパーカーを脱ぎ始める。
え、脱ぐの?
私は思わず反射的に目を逸らした。別にやましいことなんて何もないのに。
ごそごそとパーカーを脱ぐ音が、やけに大きく聞こえる。その音の方に思わず目線が向かってしまう。
パーカーを脱いだ花森は、黒いキャミソール姿だった。
細い肩。白くて華奢な体。
薄い生地越しに、背骨のラインがすっと通っている。
振り向いた花森と目が合う。私は慌てて視線を逸らした。
「浅海さん、見すぎです」
「み、見てないから」
「目合ったじゃないですか。絶対見てましたよね、今」
花森がじとっとした目で冷たく言う。
花森がシートに横になった。私から顔を背けるように。
私も反対側に横になる。花森に背を向ける形で。
それでも、距離が、近い。近すぎる。
花森の吐息が聞こえる。吐息に合わせて身体が動くのを感じる。
いやいや、なんでこんなドキドキしてんの、私。相手は、あの生意気な花森なのに。
***
三十分くらい経った頃、花森が起き上がった。
「ちょっとお手洗い行ってきます」
「うん」
花森がカーテンを開けて出ていく。
私は一人、天井を見つめた。
何だろう、この感じ。
心臓が騒がしい。
なんで、こんなに。
しばらくして、カーテンが開いた。
壁の方向に背を向けようとした、その瞬間——
「わっ!」
花森が何かにつまずいて、前のめりに倒れ込んできた。
「えっ!」
ドサッ。
気づけば、私が下で、花森が上に覆いかぶさる形になっていた。
顔が、近い。
唇が触れそうな距離。
そして——胸が当たってる。
柔らかい…とか、そんなことを思ってしまった。
花森の目が、大きく見開かれている。
お互い、息が止まった。
「……あ」
花森が小さく声を漏らす。
その吐息が、私の頬にかかる。
心臓が、うるさい。
バクバクしすぎて、心臓が口から出てくるんじゃないだろうか。
「浅海さん……」
花森が囁くように言った。その声が、妙に甘くて、色っぽくて。
私は何も言えなかった。
花森の視線が、ゆっくりと私の唇に落ちる。
ゆっくりと、重心が下がってくる。
花森の髪が、私の頬に触れた。
シャンプーの香りが、鼻腔をくすぐる。
唇が——
頭の中で、あの日のキスがフラッシュバックする。
花森の赤い耳。
近づいてくる唇。
その瞬間——
廊下から、ドタドタと足音が近づいてきた。
「!」
二人同時にハッとする。
花森が慌てて体を起こした。
「す、すみません!」
花森の体重が離れる。さっきまでの柔らかさが消える。
足音はそのまま通り過ぎていったけれど、花森はもう立ち上がっていた。
「…ちょ、ちょっと、飲み物入れてきますね」
花森が部屋を飛び出していった。
残された私は、一人でシートに倒れたまま、天井を見つめた。
「……何、今の」
心臓がまだバクバクしている。
顔が熱い。
体に残る、花森の感触。
胸が当たってた。
唇が、あと少しで——
(……ダメだ。何考えてんの、私)
頬を両手で覆った。
しばらくして、花森が戻ってきた。
「……はい、これ、浅海さんの」
花森がジュースを入れた紙コップを差し出してくる。
視線はあさっての方向を向いたまま。
「あ、ありがと」
「別に」
ぶっきらぼうに答える花森。
でも、耳まで真っ赤だった。
気まずい沈黙。
花森がシートに横になる。限界まで壁際の位置で。
さっきより、明らかに距離を取っている。
「じゃあ、もう寝ようか」
「……はい」
また電気を消す。
暗闇の中、お互いの息遣いだけが聞こえた。
「浅海さん」
「ん?」
「………なんでもないです」
小さい声だった。
花森の声が、少し寂しそうに聞こえた気がした。
いや、多分、気のせいかもしれないけど。
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
私は目を閉じた。
でも、全然眠れなかった。
花森の重み、温もり、吐息。
胸の柔らかさ。
唇が触れそうだった距離。
全部、まだ体に残っている気がした。
隣で、花森も寝返りを打っている。
もしかしたら、向こうも眠れてないのかもしれない。
長い、長い夜だった。
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