第3話 花森と交わす、密かな取引

 朝会で、私と花森がOJTの一環で営業のペアを組み、外回りすることが発表された。


 朝会の後、花森の目は、完全に死んでいた。

 光を失った瞳で、遠くを見つめている。まるで屍のようだ。会議が終わっても、しばらく動かなかった。


「……花森さん?」

「……」

「ちょっと?打ち合わせするよ」

「……わたしの人生、終わりました」

「そんな大袈裟な」

「終わったんです。完全に」


 ガクリと肩を落とす花森。


 その視線の先には、田村先輩と二年目の男性社員の佐々木くんが打ち合わせしている姿があった。


 ああ、そういうことか。

 花森は、イケメン営業田村さんと今回の営業ペアになって一気に仲を深めたいと目論んでいて全てを賭けていたと。


 まあ、考えてみれば当然の采配だろう。下心丸出しの女性社員を、そのお目当ての男性社員と組ませるなんて、上司としてもリスクしかない。

 何かやましいことや痴情のもつれがあって、セクハラだのパワハラだの言われたら会社として問題になるだろうから。


「なんで……なんでわたしが浅海さんと営業のペアなんですか……」

「こっちのセリフなんだけど」

「最悪です。ほんとテンション下がる」


 溜息をつく私の横で、花森は小さく「うぅ……」と呻いていた。


 その顔は、まさに「世界の終わり」を見たような絶望に満ちていた。


 正直、ちょっと面白かった。


***


 朝会が終わり、それぞれの席に戻ろうとした時だった。

 営業課のフロアに、場違いなほど洗練された空気が流れ込んできた。


「失礼します」


 その声に、何人かが顔を上げる。


 朝倉さんだ。

 デザイン部の朝倉美咲さん。


 淡いベージュのブラウスに、テーパードパンツ。シンプルなのに、どこか雑誌から抜け出してきたようなスタイリング。

 丁寧に巻かれた上品な栗色の髪が、歩くたびにさらりと揺れる。整った顔立ちに、柔らかい笑顔。


 化粧は薄いのに、それがかえって透明感を際立たせている。


 社内でも評判の美人デザイナーだ。


「浅海さん、少しお時間よろしいですか?」

「あ、はい」


 朝倉さんが私の席に近づいてくる。

 ふわりと、柑橘系の香水の香りがした。


「先日ご依頼いただいた件で」

「ああ、例のパンフレットの件ですね」

「そうなんです。こんなデザインにしてみたんですけど」


 朝倉さんがタブレットを取り出し、画面を見せてくれる。

 その距離が、微妙に近い。

 私の席に腰をかがめるようにして、画面を指差す朝倉さん。


「このレイアウトなんですけど、商品の写真をもう少し大きく配置してみたんです」

「なるほど……じゃあ、この部分のテキストを削って――」

「そうなんです。でも営業的にはこのキャッチコピー、外したくないですよね?」

「ええ、これは重要なポイントなので」

「ですよね。だから私、こういう案も考えてみたんです」


 朝倉さんが画面をスワイプする。

 その指の仕草まで、やけに優雅だ。


「わあ、いいですね、素敵です」

「でしょ?浅海さんの営業トークを想像しながら作ったんですよ」

「私の?」

「そう。浅海さん、いつもロジカルに攻めるじゃないですか。だから視覚的にも、理詰めで納得させるような構成にしてみました」


 朝倉さんが微笑む。

 その聖母のような笑顔に、思わず見惚れる。


「……ありがとうございます」

「いえいえ。じゃあ、ここからもう少し詰めていきますね」

「はい、よろしくお願いします」


 朝倉さんが立ち上がり、軽く手を振って去っていく。

 その後ろ姿を、つい目で追ってしまう。

 スラリとした体型。自然な歩き方なのに、どこか絵になる。

 廊下に消えていくまで、視線が離せなかった。


「……」


 ふと、視線を感じる。

 振り向くと、花森がこちらをじっと見ていた。


 死んでいたはずの目が、妙に鋭い。

 まるで獲物を見定める猛禽類のような――


「……何?」

「いえ、別に」


 花森が少し考えた後、にやりと笑った。

 嫌な予感しかしない笑みだった。


***


 午後。


 営業車に乗り込む。


 私が運転席、花森が助手席。

 エンジンをかけても、花森は一言も喋らない。


 窓の外をたまにぼんやり見ながら、スマホをいじっている。

 その横顔は、相変わらず不機嫌そうだ。


「……はぁ」

 ため息。


「………はぁぁ」

 また、ため息。


「……ほんっと最悪なんですけど」


 ぶつぶつと呟く声が聞こえる。


「何が」

「何がって、全部ですよ。ペアは最悪だし、田村さんと今日全然話せてないし」

「またそのこと。もう諦めたら?」


 私はため息をつきながら言う。

 信号待ちで車が止まる。


 花森がスマホを見ながら、不意に言った。


「……ねえ、浅海さん」


「何?」


「朝倉さんのこと、どう思ってるんですか?」


 ――え?


 思わずハンドルを握る手に力が入った。


「え!?は!?な、なな、なんで!?どうって…!??」


「ふっ、わかりやす」


 明らかに顔を赤くして挙動不審になる私に、花森が鼻で笑いながらこちらを見る。

 その目は、完全に値踏みしている目だ。


「やっぱりね。今日朝倉さんと話す時の浅海さん、目がやらしかったっていうか、下心ありましたもん」

「…は!?やらしいって何。ないよ下心なんか」

「いや、ありました。完全に。スケスケで見えてました。むしろ隠す気もないレベルで」


「花森さんに言われたくないんだけど」そう言い返そうとしたが、言葉が出てこない。


 くそ、図星。

 …いや、違う。別に下心とかじゃなくて、ただ――

 朝倉さんは、綺麗で。優しくて。

 仕事もできて、センスもあって。

 近くにいるだけで緊張するし、笑顔を向けられるとドキッとする。

 これが恋なのかは分からない。


 でも、憧れているのは確かだ。ああいう人になりたいと思うし、近づきたいとも思う。

 そういう気持ちを、下心とか一言で片付けられるのは、なんだか不本意だった。


「……別に」

「別にじゃないですよ。分かりやすすぎます」


 花森が助手席のドアにもたれ、頬杖をつく。

 その表情が、妙にニヤついている。


「でも…、昨日のこともありますし?」

「昨日?」

「ほら、わたしが酔っ払って、お家連れて帰ってくれて」


 ああ、あの時。


「あれで分かりましたから。浅海さん、意外と優しいんだなって」

「……意外って。…で?」

「だから、協力してあげますよ」

「は?」


「わたしが、浅海さんと朝倉さんと仲良くなるお手伝い、します」


 花森がにっこり笑った。

 その笑顔が、どこまでも計算高い。


「それに……」


 花森が続ける。


「朝倉さんって、田村さんとちょっと怪しいんですよねぇ」

「……は?」

「女の勘ですけど。だから、もし朝倉さんが浅海さんとくっついたら、わたしは自然と田村さんといい感じになれるじゃないですか」


 ――ああ。

 そういうことか。

 こいつは、全部それが目当てなんだろう。やっぱり花森は花森だった。


「つまり、私を利用すると?」

「利用だなんて人聞きが悪いですよ」


 花森がけらけらと笑う。


「Win-Winの関係ってやつですよ。浅海さんは朝倉さんと仲良くなれる、わたしは田村さんに近づける。最高じゃないですか」


 苦笑いする私の横で、花森がスマホを弄りながら、にやりと笑った。


「……でも、朝倉さんが女の人に興味あるかどうかも分からないのに」

「そんなの分からないじゃないですか」


 花森があっさりと言い切る。


「やってみなきゃ分かりませんよ。最初から諦めてたら何も始まらないですよ?」

「……」

「浅海さん一人だと何も進まなそうだし」

「……」

「わたしも協力します。作戦会議しましょう」

「…いや、いらないよ」

「やりましょう、絶対いけます」


 断言する花森。

 その自信満々な態度が、やけに腹立たしい。


 信号が青になり、アクセルを踏む。

 花森は窓の外を見ながら、小さく呟いた。


「まあ、お互い頑張りましょうね」


 私は、何も言い返せなかった。

 ただハンドルを握りしめて、前を見据えるしかなかった。



 物語は強引に動き出した。

 花森という名の、厄介な共犯者を得て――。






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