第2話 昨日のことは、なかったことに

 昨日は一睡もできなかった。


 私は嫌いな後輩――花森千紗と、キスをしてしまった。

 いや、正確には、キスされた、だ。


 夢じゃない。たぶん。


 朝。カーテンの隙間から光が差し、ソファの上で花森がもぞもぞ動く。


 寝癖は全方向。顔はむくんでる。

 昨日の飲み会での小悪魔モードは完全にオフである。


「……あいたた……頭、痛〜い……」

「そりゃそうでしょ」


「ん…、ここどこ……?」

「うち」

「……へ?浅海さん!?ここ、浅海さんの家ですか?」

「そう」


 状況が飲み込めていない花森に、私はコーヒーを飲みながら淡々と説明する。


「えっ!?なんで、ですか!?」

「花森さん、ベロンベロンに酔ってたの。コンビニのベンチで倒れてた」

「……うわ、全っ然覚えてない……」


 頭を抱えて、いつもの甲高い声の二オクターブは低いであろう声でうめく。

 いやいや、うめきたいのはこっちだ。


「……昨日のこと、どこまで覚えてるの?」

「え?えーっと……」


 花森は必死に記憶を辿るように目を閉じた。


「確か、二次会くらいまでは……あ、でも途中からイケメンと話してた気がする……送っていくよって言ってくれて一緒にコンビニ行って…」

「……コンビニに花森さん放って帰ってるじゃん、その人」

「うっわ、最低。そんな奴だと思わなかった」


「それで、ここまでどうやって来たか覚えてる?」

「全然……。記憶が途切れ途切れで……気持ち悪くなってコンビニでベンチに座ったのは覚えてるんですけど、その後が……」

「完全にブラックアウトしてたわけね」

「みたいです……」


 花森は珍しくしょんぼりしている。ちょっと可哀想になってきた。ほんのちょっとだけ。



「……じゃあ昨日のも……?」



 つい、口に出してしまった。


「え?アレって何ですか?」


 花森がきょとんとした顔でこちらを見る。


「え、あ、いや、なんでも……」


 私は慌てて視線を逸らした。心臓がバクバクしている。言えるわけない。「キスしたこと覚えてる?」なんて。


 そもそも、花森が覚えてないんだったら、それはそれで良かったのかもしれない。なかったことにできる。忘れられる。

 うん、なかったことにしよう。


「とりあえず、しじみ汁飲んだら?」


 私はキッチンで温めておいたインスタントのしじみ汁を花森の前に置いた。


「え、しじみ汁……?」

「二日酔いにいいらしいよ」

「へぇ」


 花森は驚いたような顔で、お椀を両手で持った。そして一口飲んで、ほっとしたように息を吐く。


「……おいしい」

「そう」


 私は素っ気なく答えた。でも内心、少しだけ胸がくすぐったく感じた。


「……あの…、ありがとうございます」


 花森がぽつりと呟いた。

 顔を上げると、いつもの生意気な顔じゃなくて、少しだけ恥ずかしそうな、素直な表情をしていた。


「助かりました。拾ってくれて」

「……別に」


 私は視線を逸らした。なんだか照れくさい。

 花森がもう一度、しじみ汁を口に運ぶ。その姿が、妙に丁寧だ。いつもの生意気な感じが全然ない。むしろ、子犬みたいに小さく見える。


 気づけば、じーっと見てしまっていた。花森の唇に、視線が吸い寄せられる。


 私は昨日あの唇と――

 こらこら、やめろやめろ。さっきなかったことにしたばかりだろ。思い出すな。


「……なに見てるんですか?」

「えっ!?み、見てないけど?」

「うそ。今、絶対見てました」

「見てない…!!」


 顔が熱くなる。バレバレだ。何を焦ってるんだ。最悪だ。

 花森はニヤッと笑った。その表情が、昨日の小悪魔モードを思い出させる。さっきまでの素直な雰囲気は、もうどこにもない。


「浅海さん、なんか顔赤いですよ?」

「暖房のせいじゃない?」

「暖房ついてないですけど」

「…はいもう、早く飲んで帰って」

「ひど」


 花森はくすくす笑いながら、しじみ汁を飲み干した。

 ……朝から疲れる。


***


 しじみ汁を飲み終えた花森が、ふと時計を見て焦り始めた。


「え、やば、もう八時!」

「服とか荷物どうすんの? 仕事間に合う?」

「うーん……微妙ですけど、一回家帰ります。このまま行けないですし」


 昨晩の服のまま出社するわけにはいかない、という判断は正しい。いつも完璧に着飾っている花森なら尚更だろう。でも時間的にかなりギリギリだ。


「服なら貸すけど」


 私は仕方なく提案した。別に恩を着せたいわけじゃない。遅刻して私のせいにされたら困るからだ。そう、それだけだ。


「いいです。やっぱり、一回家寄って着替えてきます。今からなら間に合うと思うんで」

「……そう」

「だって浅海さんの服、私の顔に合わなくて」

「……はあ?」

「いや、だから。浅海さんの服って地味じゃないですか。わたし、もうちょっと華やかな感じの方が似合うタイプなんで」


 はい、イラッとした。こっちが親切心で言ってやってるのに。

 心の中で二回クソデカため息。いや、三回かもしれない。

 こいつはいちいち余計なことを言う。本当に、腹が立つ。こういうところが嫌いなんだ。


 花森は席を立ち、玄関へ向かった。


「あ、でもほんとに助かりました。ありがとうございました!」


 最後にふわっと振り返って深々とお辞儀をする花森。顔を上げると微笑。その姿がやけに可愛く見えて、また混乱する。

 ダメだ。腹が立ったり可愛く思えたりと感情が追いつかない。



 ***


 出社。


 私はいつも通りデスクに座り、いつも通りパソコンを立ち上げた。

 モニターの白い光が、やけに眩しい。

 メールを開いて、資料を確認して、キーボードを叩く。


 いつもの朝。いつもの仕事。

 でも、全然集中できない。

 キーボードを叩きながら、昨日のキスが頭をよぎる。

 あの距離。甘い匂い。唇が触れ合った時の温度。

 キスの後ふにゃっと笑った花森の顔。


 最悪。こんな時に思い出すなってば。


「おはようございます〜」


 甲高い声が響いた。

 振り向くと、花森が颯爽と入ってきた。

 髪は完璧に整えられ、メイクもバッチリ。ピンクのブラウスに白いスカート。確かに華やかである。


 昨日のあの乱れた姿が嘘みたいだ。

 寝癖爆発で、よだれの跡があって、むくんだ顔で「気持ち悪い〜」って言ってた姿を思い出して、少し笑いそうになる。


 あんな花森、他の誰も知らない。

 私だけが知ってる。

 ……なんか、ちょっと特別な気がして、また顔が熱くなる。

 ダメだ。何考えてるんだ私。


「あ、今日ネクタイおしゃれですね?似合ってます〜」

「え、部長髪切りました?なんか若く見えますぅ〜」


 花森は笑顔で手を振りながら、さりげなく距離を詰めている。完璧な営業スマイル。

 またか。

 いつものことだ。花森は男性社員に愛想を振りまき、可愛く笑い、ちょっとした仕草で心を掴む。



 花森の席は、同じ島の私の斜め向かい。

 視界に入る。常に。

 花森が電話をする姿。メモを取る姿。笑う姿。

 全部、全部見えてしまう。そして気づけばまた、(私は昨日あの唇と…)なんて考えてしまう。

 そして時々、目が合う。

 その度に私は慌てて視線を逸らす。


 私は深呼吸をして、モニターに向き直った。

 はい集中集中。集中しろ。

 でも、キーボードを叩く手が震えている。



 花森千紗。

 あの女のせいで、私の平穏な日常は完全に崩壊した。

 本当に、最悪だ。​​​​​​​​​​​​​​​​



 ――そんな中、課長から呼び出された。



「浅海、花森が営業の現場デビューすることになった。しばらくついてやって、指導役お願いしてもいいか?」


「え?」



 ――最悪なタイミングだ。

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