【DB哲・鶴仙人】鶴仙人の堕落と救済 ― 無力の果てに見た正義の形

晋子(しんこ)@思想家・哲学者

殺すための武道、守るための殺意――鶴仙流の「倫理学」および「力なき善は悪である」という思想

はじめに ―「悪」として描かれた男・鶴仙人


ドラゴンボールにおいて「鶴仙人」は、一般的には悪役として記憶されている。

弟子の天津飯や餃子を操り、亀仙人と対立し、冷酷無比な殺人技を創り上げた武道家。

物語の中でもその立ち位置は明確で、悟空や亀仙流の「正義」と対をなす存在だ。


しかし、物語を少し掘り下げると、鶴仙人の姿は単なる悪意の化身ではないことが見えてくる。

彼はもともと、亀仙人や武泰斗様と共に、ピッコロ大魔王の魔の手から世界を救おうとした「元・正義の側の人間」であった。

その彼がなぜ、冷たい現実主義者へと変わっていったのか。

そこにこそ、ドラゴンボール世界の「善と力」の関係を映す深い思想的主題が潜んでいる。


第一章 ピッコロ大魔王との敗北 ― 「無力な善」の崩壊


鶴仙人の転落を理解するには、過去の戦い――ピッコロ大魔王との戦い――を見なければならない。

この戦いは、かつての師である武泰斗様、そして友でありライバルでもある亀仙人と共に挑んだものだった。

目的は明確だ。人類を脅かす絶対的な悪を倒し、平和を取り戻すこと。

まさしく「善の連合」であった。


そして、平和は取り戻せたが、その結果は彼にとって敗北的なものだった。

力で倒すことは出来ず、師の犠牲によって一時的に悪を封じ込めたものであった。


ピッコロ大魔王の圧倒的な力の前に、理想や友情、武の精神は打ち砕かれる。

亀仙人はその後も理想を信じ続け、師の武泰斗様の遺志を継いで「人を育てる道」を選んだ。

しかし、鶴仙人は違った。彼の中には、どうしても消えない感情が残った。

それは、「無力であった自分への憎悪」である。


鶴仙人にとって、あの敗北は単なる戦いの敗北ではなかった。

「善でありながら何も守れなかった」という事実は、彼の信念の根を腐らせた。

善が力を持たなければ、善はただの飾りでしかない。

その認識が、彼を静かに、しかし確実に闇へと導いた。


第二章 鶴仙流の誕生 ― 「殺すための武道」


鶴仙人はその後、「鶴仙流」という独自の武道を築いた。

その教えは明確である。

「相手を殺すために力を極める」「ためらいは敗北につながる」「慈悲は武の堕落である」。

一見すれば非情で残酷な哲学だが、そこには一貫した論理がある。


それは、「悪を倒せない善は悪と同様に罪深い」という思想である。

亀仙流が「人を育て、人を活かす武道」だとすれば、鶴仙流は「悪を討つための武道」である。

目的が異なるのだ。鶴仙人は、自らの敗北を通してこう悟ったのだろう。

――「正義とは、悪を滅ぼす力を持つことだ」と。


鶴仙流の象徴的な技「気功砲」は、まさに“殺すための技”として設計されている。

それは、人を救うためではなく、世界から悪を根絶するための破壊力を求めた結果であった。

この思想を継いだ天津飯は、のちに「気功砲」で第二形態のセルを一時的に押さえ込む。

あの場面こそ、鶴仙流が世界を救った瞬間でもある。

鶴仙人の“闇”の哲学は、皮肉にも“光”の中で結実したのだ。


第三章 「力こそ正義」ではなく、「力なき善は悪である」


鶴仙人を語るとき、誤解されやすいのは「彼は力を崇拝した」という一点である。

しかし、彼の思想は単なる暴力主義ではない。

むしろ彼は、「力なき善がどれほど多くの犠牲を生むか」を知り尽くしていた。


力を持たない善人が悪に殺される。

正義を語る者が、現実の暴力に踏みにじられる。

その悲劇を、彼はピッコロ大魔王との戦いで一度経験してしまった。

ゆえに彼は、「善を守るには、悪より強くなければならない」という結論に至った。


つまり彼の信念は、「力こそが善を支える唯一の土台である」ということ。

これは、ドラゴンボールという物語全体に通底する構造でもある。

悟空もベジータも、結局は「力で平和を維持する」。

この世界では、無力な善は存在できない。

鶴仙人は、その“真実”を最も早く悟った人物だったのだ。


第四章 天津飯という「浄化された鶴仙流」


鶴仙人の教えを受けた天津飯は、当初は完全に師の思想に染まっていた。


だが、悟空や亀仙人との出会いを通じて、彼は少しずつ変わっていく。

それは、「力は必要だが、使い方を誤れば破壊者になる」という理解である。


第二形態セルとの戦いで天津飯が見せた気功砲は、

師・鶴仙人の思想が昇華された形だった。

それは「殺意の力」ではなく、「守るための力」へと変化していた。

天津飯は鶴仙流を「慈悲ある力」へと変えたのだ。


彼の気功砲は、自らの命を削ってでも仲間を救うという覚悟の象徴。

まさに、鶴仙人の“闇”が、天津飯を通じて“光”に転じた瞬間である。

この構図を見ると、鶴仙人の存在は決して無駄ではなかったことが分かる。

彼の極端な思想は、最終的に「力と善の調和」という高次の悟りに導いたのだ。


第五章 亀仙流との対立 ― 理想と現実の戦い


亀仙流と鶴仙流の対立は、単なる師弟関係の対立ではない。

それは、「理想と現実の対立」である。


亀仙人は「力は己を磨くためにある」と考える。

鶴仙人は「力は敵を討つためにある」と考える。

どちらも間違ってはいない。

だが、現実の戦いでは、後者の方が即効性を持つ。

鶴仙人は、暴力の現実を直視している“リアリスト”だったのだ。


この点で、鶴仙人はまるで『ガンジー』の逆の存在だ。

非暴力では世界は変わらない。

悪が悪を支配しているこの世界では、力が唯一の秩序だ。

鶴仙人はその現実を引き受けた。

そのために「悪の側」に身を置くことを選んだ――それが彼の覚悟であり、悲劇である。


第六章 「闇堕ちした元正義」という人間像


鶴仙人は本質的に、理想を捨てきれなかった理想主義者である。

彼が闇に堕ちたのは、善を諦めたからではなく、

「善を実現するためには力が必要だ」と悟ったからだ。


しかし、その“力”を追い求める過程で、彼は「なぜ力を求めたのか」という原点を見失っていく。

善を守るために始めたはずの修行が、いつしか「殺すための悪の力」へと変質してしまう。

これこそが、理想を求め、しかし理想に裏切られた者の悲劇だ。


鶴仙人の“闇堕ち”とは、善を捨てた堕落ではなく、

善を求めすぎたがゆえの過剰であり、破綻だった。

だからこそ、彼の悪はどこかに哀しみを帯びている。

その哀しみは、敗北の記憶と、無力の痛みに根ざしているのだ。


第七章 「無力の哲学」 ― 善と力の拮抗点


ドラゴンボールの世界では、「無力」は常に罪に近い。

誰かを守れなかった者は、結果的に悪と同義である。

悟空ですら、力を持たなければ仲間を救えない。

この世界では、「力がなければ善は成立しない」という厳しい現実が支配している。


鶴仙人はその現実を最も早く理解した人物だった。

彼は、理想主義の亀仙人とは対照的に、力の現実を受け入れた“哲学的現実主義者”である。

つまり、彼の存在はドラゴンボールにおける「もう一つの真実」を示している。

それは――


善とは、力によってしか支えられないものである。


この思想は、単なる戦闘アニメを超えた“倫理の問い”でもある。

鶴仙人は、その問いを体現した人物だった。


第八章 鶴仙人の救済 ― 天津飯による“再生”


最終的に、鶴仙人は天津飯という弟子によって「救われた」と言える。

天津飯がセル戦で見せた自己犠牲的な戦いは、鶴仙流の“暴力”を“慈悲”に変えた。

それは、師の思想の矯正であり、昇華である。


このとき天津飯は、無意識のうちに鶴仙人の“心の奥”を救っていたのではないか。

鶴仙人が求めた「強い善」は、弟子の中でようやく完成したのだ。

だからこそ、天津飯が鶴仙人を完全に否定することなく、どこかに敬意を持ち続けている描写には、

彼の「矛盾を赦す」ような静けさがある。


鶴仙人の教えは、破壊的であっても、

最終的には善の成長の肥料になった。

それはまるで、腐敗した土壌が豊かな実りをもたらすように。

悪の教えの中に、善の芽が眠っていたのだ。


終章 後付けの面白さと「読者の想像力」という力


ここまでの解釈は、もちろん“後付け”にすぎない。

原作者の鳥山明氏が、鶴仙人にここまでの思想的背景を意図していたとは考えにくい。

彼は軽妙なテンポで物語を描き、善悪の対立を深く掘り下げる作風ではない。

しかし、だからこそ面白い。


物語は、作者が書いた以上の意味を「読む者」が見出すとき、さらなる生命を持つ。

鶴仙人という脇役に「無力の哲学」を読み取ることは、私たち読者の想像力そのものの証明である。

私たちは、善悪を単純に分けることのできない現代を生きている。

だからこそ、鶴仙人のような“堕ちた理想主義者”の物語に共感を覚えるのだ。


鶴仙人は、悪ではない。

彼は「無力を憎み、力を信じすぎた人間」だった。

その誤りの中に、人間の悲しさと真実が宿っている。

そしてそこにこそ、ドラゴンボールという物語の底に流れる、

「力と善」という永遠のテーマが息づいている。


鶴仙人は、単純な悪ではない。

それは悪に闇堕ちせざるを得なかった、善なる人間の悲しき終焉なのだ。


――そしてその悲しみを読み取る力こそ、私たちが新しい物語を生み出す力である。

――そして、私たちが鶴仙人に寄せる「想像力」とは、争いの絶えないこの現代の世界を救い得る、力を超えたもう一つの「力」ではないだろうか。


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