ノート

りんりんむー

第1話

 私は平日は通勤のために毎日電車に乗っていました。最近人気のリモートワークなんて気の利いた制度はうちの会社にはありませんので。


 いつも大体決まった時間、通勤で使っているくたびれたリュックを手前に抱えて、身動きも取れず立ていました。都会に住んでいる人ならそんなの当たり前と思うでしょう。


 横に長い座席の前に立ちながら、運よく座れた人たちが恨めしく、早く降りないかなとずっと思っていました。

 しかし、そのメンバーは、ほぼほぼ固定で途中で降りることは稀でした。みんなその路線で家を決める時は始発や終点で駅を選ぶからです。


 私の目の前にいたのは、髪の長いス-ツ姿の女性でした。ベージュのパンツスーツですが、シワシワのヨレヨレで仕事ができる感じには見えません。髪はストレートのロングで前髪がなく、銀色のフレームの眼鏡をかけていました。陰キャと言われるタイプの容姿でした。


 その人が黒い皮のカバンを膝に置いて、その上に大学ノートを置いてボールペンで何か書いていました。人が何かしているとついつい見てしまうのは私だけではないでしょう。私はさり気なく目線を下に降ろして、書かれた文字を反対側から眺めていました。ぱっと見で、それは日記のようでもあり、架空の題材を基にした小説のようでもありました。


 書き出しには『今日の出来事』と書かれていました。癖がなく、とても見やすい字でした。


 彼女は書くのがかなり早く、逆から見ていることもあり追いつくことができませんでした。読むのが遅れる度に彼女が今書いている箇所を追って行く。そんな風にしてあっという間に1ページ書き終えていました。内容は会社の人の悪口でそれが一人一人名指しで書き連ねられていました。人数としては十人以上いました。


 彼女を馬鹿にしているとか、仕事でミスが多いとか、ミスを自分のせいにされるというような内容でした。


 一つの職場でそんなに嫌な人ばかりというのは、滅多にないことだと思います。きっと彼女自身に問題があるのでしょう。もとから人付き合いが苦手で、コミュニケーションができないせいかもしれません。服装だってもうちょっと気にしていたら、馬鹿にされることなどなかったかもしれません。


 電車の中で立っていると時々酔ってしまいます。特にその日は蒸し暑く、私は吐きそうになりました。時々、目を遠くになりながら、酔いを胡麻化していました。そうやってその人の目の前に立って十分か十五分くらい経ったでしょうか。


 彼女はようやく白紙のページを捲りました。

 そして、また書き始めました。


「電車で前の席に座っている人がずっと私のノートを見ている」

 私ははっとしました。ストレスで髪が逆立ちそうでした。すると、その人はまたすごい勢いでペンを走らせました。

「香水が臭くて吐きそうだ。死ね!」

 そうです。私はお気に入りの香水をつけていました。最近流行のサブスクで選んだものでした。そんなに臭っていたなんて、まるで気がつきませんでした。


 私はすぐにその場から逃げ出したかったのですが、何しろ電車が混んでいるので身動きが取れません。私が慌てて女を見ると、その人が私を物凄い形相で睨みつけていました。


「ごめんなさい」

 とっさに声が出てしまいました。気が動転して声が裏返っていました。その瞬間、私は後悔しました。ノートを見ていないとしらを切ればよかったのです。


「この人、痴漢です!」

 女が叫びました。周囲がざわめき始めました。

「痴漢なんて…私は立っていて、あなたは座っているんですよ」

 私はびっくりして反論しました。

「この人、前を出してました!」


 目の前が真っ暗になりました。私がそんなことをしてないと証明することは絶対にできないからです。女は目を背けていました。雲行きが一気に変わりました。その瞬間、私は露出狂だというレッテルを貼られ、周囲にいた全員が彼女の味方になりました。


 私はうろたえました。何も言うことができないまま、周囲の人の顔を見回しました。とても、冷ややかで、自分たちが目撃者だと言わんばかりでした。もしかしたら、誰かがそう言い出すかもしれません。


 そして、手元にあったノートはどさくさに紛れてカバンにしまわれてしまいました。


*********************


 そうやって彼女は今まで色々な男を相手に罠を仕掛けていたのかもしれません。私はそれに見事に引っかかってしまいました。自意識過剰かもしれませんが、私が通勤電車に乗るのが怖くなり、家を引越したのは言うまでもありません。

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