第四章 黒い影
一
三日後。
中村は、自分の部屋にいた。
ベッドに横になり、天井を見つめている。
あの夜から、三日が経った。
中村は、一度も外に出ていない。
母親が、時々部屋の前に来る。
「悠一、ご飯食べた?」
「食べた」
嘘だった。
母親の足音が遠ざかる。
中村は、起き上がった。
クローゼットを開ける。
そこに、制服がある。
中村は、それを見つめた。
もう、着ない。
そう決めたはずだった。
だが、捨てられない。
中村は、制服をゴミ袋に入れた。
玄関に持っていく。
だが、置いたまま、捨てられなかった。
中村は、部屋に戻った。
携帯電話を取り出す。
母親からメッセージが来ていた。
「明日、面接の結果出るの?」
中村は、返信を打った。
「うん。多分、大丈夫」
送信。
また、嘘をついた。
中村は、携帯電話を置いた。
それから、窓の外を見た。
午後三時。
晴れている。
中村は、決めた。
本当に、仕事の面接を受けよう。
もう、警察官ごっこはやめる。
もう、あの男のことも忘れる。
普通の生活を、送る。
今でも信じられない。
目の前に凶悪犯がいた。
でも、どうすることもできなかった。
だって自分は偽物だから。
中村は、上着を着た。
部屋を出る。
玄関で、ゴミ袋が目に入った。
中に、制服が入っている。
中村は、それを持って外に出た。
ゴミ捨て場に向かう。
だが、捨てられなかった。
中村は、ゴミ袋を抱えたまま、立ち尽くした。
なぜ、捨てられないのか。
自分でも、分からない。
中村は、ゴミ袋を家に持って帰った。
玄関に、また置いた。
それから、軽トラに乗り込んだ。
エンジンをかける。
コンビニに向かって、運転し始めた。
二
午後四時。
中村は、コンビニの駐車場に軽トラを停めた。
店に入る前に、深呼吸をする。
面接を受けに来た、という体で。
練習をしておく。
だが、本当にいつか受けるつもりだった。
中村は、缶コーヒーを一本買うことにした。
店に入る。
冷蔵庫の前に立つ。
缶コーヒーを選ぶ。
レジに持っていく。
「百三十円です」
店員の声。
中村は、小銭を出した。
「ありがとうございました」
中村は、缶コーヒーを持って店を出た。
頷きながら駐車場に向かう。
その時、中村は足を止めた。
駐車場の隅に、黄色い軽トラが停まっていた。
中村の心臓が、跳ねた。
運転席に、誰かが座っている。
中村は、ゆっくりと近づいた。
十メートル、五メートル。
運転席の窓が開いた。
あの男だった。
そして、中村は気づいた。
この軽トラ。
車種が、中村のと同じだ。
色が違う。
黄色。
鮮やかな、黄色。
まるで、わざと目立つように塗ったような。
「こんにちは」シゲは、微笑んでいた。
中村は、言葉が出なかった。
「偶然ですね」シゲは言った。「こんなところで」
偶然?
中村は、信じなかった。
「……何の、用ですか」
「用?」シゲは首を傾げた。
「別に、用なんてないですよ」
「……」
「ただ、コーヒーを買いに来ただけです」
シゲは、助手席に置いてある缶コーヒーを指差した。
中村は、シゲを見た。
「もう、制服は着ないんですか?」シゲは尋ねた。
中村は、答えなかった。
「着ないなら、それでいいと思いますよ」シゲは続けた。
「普通の生活を送る方が、いい」
「……」
「でも」シゲは、中村の目を見た。
「本当に、それでいいんですか?」
中村は、何も言えなかった。
シゲは、煙草を取り出した。
火をつける。
「少し、話しませんか?」
「……何を」
「何でもいいです」シゲは煙を吐き出した。
「乗ってください」
シゲは、助手席のドアを内側から開けた。
中村は、迷った。
この男の車に、乗るべきか。
あの夜、ナイフを持っていた男。
危険だ。
だが、中村の足は、勝手に動いていた。
助手席に、乗り込んだ。
ドアを閉める。
シゲは、エンジンをかけた。
中村は、車内を見回した。
「この車、あなたの?」
「ええ」
「……軽トラなんですね」
「仕事で使うので」
黄色い車体。
「この色は?」
「ああ、ちょっと派手ですかね」
シゲは、ハンドルを撫でた。
「でも、気に入ってるんです」
中村は、何も言わなかった。
「どこへ?」中村は尋ねた。
「どこでもいいです」シゲは答えた。
「少し、走りましょう」
軽トラが、動き出した。
三
シゲは、特に目的地を決めずに運転していた。
住宅街を抜け、大通りに出る。
信号で止まる。
中村は、何も話さない。
ただ、窓の外を見ている。
シゲは、中村を横目で見た。
私服を着ている。
制服は、もう着ないと言った。
シゲは、口を開いた。
「言いたくなければいいんですけど」
中村は、シゲを見た。
「なぜ」シゲは続けた。
「あんなことを?」
中村は、答えなかった。
しばらく沈黙が続いた。
それから、中村は下を向いて言った。
「認めてもらいたくて」
「誰に?」
「……わかりません」
シゲは、頷いた。
「あの制服は、どこで?」
「ネットで」
「そうですか」
また、沈黙。
シゲは、前を向いた。
この男、まだ迷っている。
警察官ごっこを続けるか、やめるか。
だが、シゲには分かった。
この男は、やめられない。
なぜなら、他に何もないから。
何もない男だから。
信号が青になった。
シゲは、アクセルを踏んだ。
「あの夜から」シゲは言った。
「もう、あの路地には行ってないんですか?」
中村は、シゲを見た。
「……行ってません」
「そうですか」
「あなたは?」
「私も」シゲは答えた。
「行ってません」
嘘だった。
シゲは、毎晩あの路地を通っている。
中村が来ないか、確認するために。
だが、中村は来なかった。
つまらなかった。
また信号で止まった。
「あなた」シゲは言った。
「まあ、あなたの気持ちも分からなくはないですけど」
中村は、シゲを見た。
「……どういう意味ですか」
「誰しも悩みはあるものです」シゲは続けた。
「ただ、それをどうするかが違うだけで」
「あなたは、どうしたんですか」
シゲは、少し考えた。
それから、答えた。
「私ですか?」
「ええ」
「私は」シゲは微笑んだ。
「諦めました」
中村は、その言葉の意味を考えた。
だが、シゲは続けなかった。
信号が青になった。
しばらく沈黙が続いた。
それから、シゲが言った。
「明日の夜、私に付き合ってもらえませんか」
「……何を?」
「少し、運転するだけです」
「運転?」
「ええ。一人だと退屈なので」
嘘だ、と中村は思った。
この男が、誰かを必要とするとは思えない。
「山本さん」中村は言った。
シゲは、顔をしかめた。
「名前を呼ぶのは、やめてください」
「え?」
「シゲで」
中村は、戸惑った。
「シゲ……?」
「ええ。その名前でやってますので」
「やってる?」
シゲは、答えなかった。
ただ、前を向いたまま運転を続けた。
中村は、それ以上聞けなかった。
「断ったら?」
「別に構いません」シゲは肩をすくめた。
「ただ、もう会うこともないでしょうね」
しばらく沈黙が続いた。
中村は、シゲの目を見た。
その目は、何かを期待しているようで、何も期待していないようだった。
冷たい目。
「明日の夜11時、あの路地で」シゲは言った。
「来なくてもいいですよ」
シゲは、軽トラを止めた。
コンビニの駐車場に戻っていた。
中村は、ドアを開けた。
降りる。
だが、ドアの前で立ち止まった。
振り返って、シゲを見た。
「あなたが」中村は言った。
「何をするつもりか知ってます」
シゲは、中村を見た。
「知ってる、ですか」
「ええ」
「では、来ないことですね」
シゲは、そう言って軽トラを発進させた。
中村は、その場に立ち尽くした。
黄色い軽トラが、遠ざかっていく。
角を曲がって、消えた。
中村は、自分の軽トラに戻った。
運転席に座る。
だが、エンジンはかけなかった。
ハンドルを握りしめたまま、考えた。
明日の夜、行くべきか。
行かないべきか。
さっきの自分の虚勢がむなしくなった。
中村には、答えが出なかった。
(第四章 了)
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