第三章 息を潜める夜
一
中村は、軽トラに戻らなかった。
シゲが角を曲がって消えてから、五分が経った。
だが、中村はその場に立ち尽くしていた。
あの男と対峙してから、どれぐらい時間が経ったのだろう。
携帯電話の画面を見る。
母親からのメッセージが表示されていた。
「面接、どうだった?」
中村は、返信を打とうとした。だが、指が動かなかった。
何と答えればいい?
「うまくいったよ」と嘘をつくのか。
「ダメだった」と嘘をつくのか。
それとも、職務質問をしていたとでも言うのか。
中村は、携帯電話をポケットに仕舞った。
それから、歩き始めた。
だが、軽トラに向かう方向ではなく、シゲが消えた角の方へ。
中村は、自分が何をしているのか分からなかった。
ただ、このまま終わらせたくなかった。
あの男、山本孝太郎。
あの男は、何かを隠している。
左のポケットに。
小麦粉だと言っていた。
どう考えても嘘だ。
もしあれが本当に麻薬なら、中村は本物の悪人を捕まえることができる。
そして、認めてもらえる。
誰に?
中村にも、分からない。
ただ、逃したくなかった。
また朝が来て、母親に嘘をついて軽トラに乗り込む。
嘘つき。
弱い人間。
「……」
中村は、角を曲がった。
そして、立ち止まった。
二十メートル先に、シゲが立っていた。
壁に背中をつけて、じっと息を潜めている。
中村を、待っていたのだ。
二
シゲは、中村が角を曲がってくるのを見て、小さく息を吐いた。
やはり、追いかけてきた。
この偽警官は、執拗だ。
シゲは、壁から離れ、中村と向き合った。
「やっぱり、来ましたね」
中村は、何も答えなかった。ただ、シゲを見つめていた。
「まだ、何か聞きたいことが?」シゲは穏やかに尋ねた。
「……あなた」中村はようやく口を開いた。
「あなた、何者なんですか」中村は言った。
「何者って」シゲは、笑った。
「ただの運送業ですよ」
「嘘をつかないでください」
「嘘なんて、ついてませんよ」
中村は、また一歩前に出た。
「あなたが、本当にただの運送業なら」
中村は、シゲの目を見た。
「なぜ、ここで私が追いかけてくるのを待っていたんですか?」
「答えてください」
中村はどこか誇らしげに捲し立てる。
シゲは、答えなかった。
確かに、中村の言う通りだ。
シゲは帰らなかった。
なぜなら、この偽警官が厄介だからだ。
もし、この男が本物の警察に通報したら。
もし、この男が後をつけて、アパートを突き止めたら。
部屋の中に、まだ「片付けていないもの」がある。
昨夜の、痕跡。
「私は」シゲは静かに言った。
「ただ、確認したかっただけです」
「何を?」
「あなたが、本当に警察官なのかどうか」
中村は、息を呑んだ。
「もし、あなたが本物の警察官なら」シゲは続けた。
「今頃、上司に連絡しているはずです。応援を呼んでいるはずです」
「……」
「でも、あなたは呼ばない」
シゲは、一歩中村に近づいた。
「なぜなら、あなたは偽物だからです」
三
中村は、後ずさった。
だが、すぐに背中が壁にぶつかった。
シゲが、さらに近づいてくる。
中村は、逃げることができなかった。
「あなたは、偽物だ」シゲは静かに言った。
「そして、私を捕まえたいと思っている」
「ち、違う……」
「違わないでしょう」
シゲは、中村の目の前で立ち止まった。
「あなたは、何かを証明したいんです」
中村は、何も言えなかった。
「だから、あなたは私を追いかけてきた」シゲは続けた。
「私が『本物の悪人』だと信じて」
「……」
「でも、残念ながら」シゲは微笑んだ。
「私は、ただの運送業です」
中村は、シゲの目を見た。
その目は、笑っていなかった。
嘘だ。
この男は、ただの運送業ではない。
だが、証明できない。
中村は、震える声で言った。
「では、もう一度、持ち物を見せてください」
シゲは、首を傾げた。
「さっき、見せましたよね」
「もう一度」
「なぜ?」
「……念のため」
シゲは、しばらく中村を見つめていた。
それから、小さく息を吐いた。
「分かりました」
シゲは、カバンを下ろし、再び中を開けた。
「ポケットも」中村は言った。
シゲは、右手をポケットに入れ、煙草とライターを取り出した。
「左も」
シゲは、左手をポケットに入れた。
そして、ゆっくりと、三つのビニール袋を取り出した。
「これも、もう見ましたよね」
「……他には?」
「他?」
「左のポケット、まだ何か入ってませんか?」
シゲの表情が、わずかに変わった。
ほんの一瞬だけ、笑顔が固まった。
中村は、それを見逃さなかった。
「何か、ありますよね」
シゲは、何も答えなかった。
「見せてください」
「……」
「見せてください!」
中村は、思わず大きな声を出していた。
シゲは、中村を見つめた。
それから、ゆっくりと左手をポケットに戻した。
そして、何かを掴んだ。
中村は、固唾を飲んだ。
シゲの手が、ポケットから出てくる。
その手には、小さなナイフが握られていた。
四
中村は、息が止まった。
ナイフ。
刃渡り七センチほどの、ナイフ。
その刃には、茶色い染みがついていた。
血だ。
中村の頭の中で、何かが弾けた。
この男は、殺人犯だ。
中村は、本物の悪人を見つけた。
だが、次の瞬間、中村は気づいた。
自分は、今、とんでもない状況にいる。
目の前に、殺人犯がいる。
ナイフを持った、殺人犯が。
そして、周りには誰もいない。
助けを呼ぼうにも、中村は偽警官だ。
本物の警察を呼べば、自分も捕まる。
中村は、後ずさろうとした。
だが、背中は壁だ。
逃げられない。
シゲは、ナイフを見つめていた。
それから、中村を見た。
「これは」シゲは静かに言った。
「護身用です」
「ご、護身用……?」
「ええ。夜間の配達は危険なこともある。だから、持っているんです」
「で、でも、血が……」
「血?」
シゲは、ナイフを街灯の光に翳した。
「ああ、これは錆です」
「錆……?」
「ええ。安物のナイフなので、すぐ錆びるんです」
嘘だ、と中村は思った。
だが、証明できない。
もしかしたら、本当に錆かもしれない。
暗がりでは、血と錆の区別はつかない。
シゲは、ナイフをポケットに戻した。
「これで、納得していただけましたか?」
中村は、何も答えられなかった。
シゲは、カバンを肩にかけ直した。
「お巡りさん」シゲは言った。
「もう、これで終わりにしましょう」
「……」
「これ以上、私を疑っても、何も出てきません」
シゲは、中村の肩を軽く叩いた。
中村は、その瞬間、体が硬直した。
「それに」シゲは囁くように言った。
「あなたも、疲れたでしょう」
中村は、シゲの目を見た。
その目は、何かを知っているような目だった。
まるで、中村の全てを見透かしているような。
「お互い」シゲは言った。
「もう、家に帰りましょう」
それだけ言って、シゲは中村から離れた。
そして、歩き始めた。
今度こそ、シゲは振り返らなかった。
中村は、その背中を見送ることしかできなかった。
五
シゲが完全に視界から消えた後も、中村はその場に立ち尽くしていた。
体が震えていた。
怖かった。
今、何が起こったのか、よく分からない。
だが、一つだけ確信していることがあった。
あの男、山本孝太郎は、危険だ。
ただの運送業ではない。
あのナイフ。あの目。あの落ち着き。
パンを焼くと言って白い粉を持っていた。
ありえない。
全てが、普通ではない。
中村は、携帯電話を取り出した。
110番を押そうとした。
だが、指が止まった。
また、逮捕される。
母親が、また泣く。
中村は、携帯電話をポケットに戻した。
それから、ゆっくりと歩き始めた。
軽トラに戻ろう。
制服を脱いで、家に帰ろう。
そして、もう二度と、こんなことはしない。
もう終わりだ。
中村は、そう心に誓った。
だが、心の奥底では、別のことを考えていた。
あの男を、捕まえたい。
本物の悪人を、捕まえたい。
そうすれば、認めてもらえる。
中村は、自分が矛盾していることに気づいていた。
だが、止められなかった。
六
シゲは、路地を抜け、大通りに出た。
そこでようやく、深呼吸をした。
危なかった。
あの偽警官、思ったより鋭い。
ナイフに気づかれた。
だが、ごまかせた。
シゲは、ナイフを確認した。
まだ血が完全に乾いていない。
暗がりだから「錆」だと言い張れたが、明るいところで見られたら、すぐにバレる。
早く洗わないと。
シゲは、アパートに向かうのではなく、別の方向に歩き始めた。
近くに、公園がある。
そこの水道で、ナイフを洗おう。
それから、アパートに戻って、部屋の中の「痕跡」を片付けよう。
昨夜の、痕跡。
シゲが昨夜殺したのは、四十代の男だった。
名前は知らない。
どこかのバーで声をかけた。
男は酔っていて、簡単についてきた。
シゲのアパートまで。
そして、シゲはナイフを取り出した。
男は、驚いた顔をした。
何か言った気がしたが、覚えてない。
シゲは、男を殺した。
カウント「7」。
だが、問題があった。
血が、部屋中に飛び散った。
シゲは、それを片付けようとした。
だが、完全に拭き取るのは難しい。
それに、シゲには潔癖症なところがあった。
血の付いた部屋。
乾いていない血痕。
床に残った、生臭い匂い。
それらと同じ空間にいることが、シゲには耐えられなかった。
殺すのは好きだ。
だが、その「後始末」は嫌いだった。
特に、血が乾くまでの時間。
あの、じっとりとした、生々しい感触。
考えるだけで、鳥肌が立つ。
だから、明日の昼間まで待つ。
血が完全に乾いて、カラカラになってから、掃除する。
それまで、シゲはどこか別の場所で時間を潰す必要があった。
シゲは、公園に着いた。
誰もいない。
水道でナイフを洗った。
茶色い水が、流れていく。
それを見ながら、シゲは考えた。
あの偽警官。面白い。
本物の警察官はシゲを捕まえられない。
あそこまで迫ってきた人間は一人もいない。
追い詰められそうだった。
偽警官に。
もし、あの男が本物の警察に通報していたら。
もし、あの男が再び自分を追いかけてきたら。
シゲは、ナイフをポケットに仕舞った。
その時は、仕方がない。
シゲは、小さく笑った。
公園の街灯が、ジリジリと音をたてた。
(第三章 了)
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