5 四月二十八日
四月二十八日の昼、高校の食堂で。
「今朝のお前、サメじゃなくてもはやマグロだったろ」
「なら今日からマグロ島で行く」
「マグロよりカジキマグロのが速いんじゃなかった?」
「それならカジキマグロ島と呼んでくれ」
「長い。呼びにくい。語呂が悪い」
水泳部、同じ一年、色々な大会で何度も顔を合わせて『悪人面』に慣れたらしい友人三人との昼飯や会話は気楽だが。
──あの一年? あの子が『鮫島直』?
──たぶん。ぱっと見めっちゃ可愛いって言ってたし。
──ホントにぱっと見じゃん。思ってたよりヤバいんだけど。
せめて聞こえないように喋って欲しい、名前も顔も知らん女子の方々。ネクタイの色からして恐らく先輩方。
無視するよりこっちのが楽だろうと、目を向ける。
俺としては「自分の名前が聞こえたな?」と不思議に思う表情を、傍から見れば鋭く睨んでいるように映るだろう視線を。
悲鳴なのか楽しんでいるのか、驚いたような声を小さく上げ、目配せし合った女子たちは話題を変えた。
「気持ちは分かる、と言いたいけども。なんで食堂にしたよとも言いたい」
呆れ半分な友人の一人に言われ、
『部室の点検で、今週いっぱいは部室で食えないだろ』
と答えようとして、
「教室だとりん、……部室で食えないから。分かってるだろ」
しくじった部分をなかったように答え、昼を食べていく。
「今のはお前が悪いわ。鮫島は悪くない」
「鮫島でありカジキマグロ島だろ、そこしっかりしとけ」
「すみませんカジキマグロ島様。並びに皆様」
あえて茶化してきていると分かるから、気を遣ってくれた友人たちへ詫びるのでなく。
「まあ許す。あと『カジキマグロ島』はなんとかなるけど『カジキマグロ島様』はマジで語呂が悪い。様付けやめてくれ」
食べつつ伝えたら、
「じゃあカジキマグロ島で」
「つっても、カジキマグロ島も呼びにくいんだよな」
「ならマグロ島に戻すか? 泳ぎの速い生き物で呼びやすいのなんかいるっけか」
友人たちがスマホで調べ始めたので、俺も乗っからせてもらった。
お前らだって速いだろと言いながら。
友人たちが水泳を始めたキッカケは様々だが、友人たちも他の人たちも、俺の周囲の人間は、泳ぐために泳ぐ。
俺が泳ぐのも、泳ぐため、記録を出すため、世界を目指せるなら──その思いもあるけれど。
未だに拭い去れない記憶を一瞬でも忘れるために、必死になって泳いでいる。水泳を始めた理由も、碌なもんじゃない。
俺はなんで、嫌な思いをしてまで食堂で昼を食ってんのか。教室で食べるほうがまだマシなはずなのに、教室で昼を食べる燐音を避けるのか。朝からずっと燐音の顔をまともに見れないのか。
お前が俺の顔をまともに見れない状態だからだよ、と燐音に言ってやりたくなる。
朝から、歌の練習前から、燐音が。
可愛く頬染めて、可愛く目を彷徨わせて、恥ずかしそうにたどたどしく可愛い話し方で「おはよう」って挨拶してきて、俺は大いに狼狽えた。
『これはまだ、ほん、……えと、練習です……』
まだ、ほん、そのあとになんて言おうとしたんだ、聞くに聞けない。
一生懸命に心を込めて歌う燐音に、俺の素直な感想を聞いて喜びながらも少し不安そうに確認してくる燐音に、何度も都合の良い勘違いをしたくなった。
頭も冷やそうと朝から全力で泳いだら、公式記録を超えるタイムが出た。
喜ぶより気が抜けた。それでもだいぶ冷静さを取り戻せたと思ったけど。
教室でも『とんでもなく可愛い燐音』のままで、俺はまた狼狽えたし周囲も狼狽えてただろ、こうやって気を遣ってくれるくらいに。
燐音と同じクラスになったことを、呪いたくなる日が来るなんて。
笑うに笑えない。
昼を終えても燐音の顔をまともに見れず、燐音も俺の顔をまともに見れない様子で、周囲は今までのように『腫れ物を扱う』のではなく『そっとしとこう』という雰囲気になってしまった。
燐音は良いんだ、俺の巻き添えで燐音まで『腫れ物扱い』されるより、万倍いい。
けど、俺を『そっとしとこう』って判断はやめてくれ。今までなら有り難いと思うけど、今は状況が違いすぎる。
逃げる気持ちで部活へ向かい、まとわりついて離れない記憶を拭い去るように──拭い去れないと再認識するためにも、必死になって泳いだ。
フォームが若干崩れたというのに、朝を上回るベストタイムが出た。
様々だよ。内心で吐き捨てる。
俺じゃない。燐音が好きなのは俺じゃない。
燐音が好きな『誰か』は、燐音を助けたんだろ。
俺は一度も、燐音を助けられてない。
助けられてばっかりだ。何度も助けてもらって、何度も救われた。
俺は燐音を、小鳥遊燐音という存在を。
不幸な目に遭わせ、恐怖のどん底に突き落として、壊れる寸前まで追い込んだ。
だから、燐音。
頼む、燐音。
部活が終わった夜の公園で、毎朝お前の練習に付き合ってた公園で。
お前を暗闇へ引きずり込んだ公園で、お前を一緒に暗闇へ引きずり込んでしまった公園で。
お前と俺しかいないこの場所で、俺に向かって。
自分のスマホで曲を再生して『練習』も『本番』も言わずに、心を込めて一生懸命歌い出した燐音の声を、姿を、最後まで。
最後まで、受け止めて、刻みつけるから。
体にも頭にも、心にも魂にも、刻みつけて忘れないから。
だから、頼む、燐音。
そうであれ、そうであるな。祈るように願いながら、冷静さも装えなくて、色々な意味で泣きそうになる俺は。
かけがえのない存在が歌い終わるのを、口を引き結んで待っていた。
毎朝していたようにベンチに座っている俺へ、歌い終わった燐音が不安そうに口を開く。
「……あの、なおちゃん……今のが、ですね……」
不安そうな燐音は、迷子のように目を彷徨わせる。
「なおちゃんへの……誕生日プレゼント……で、本番……だった、んだけど……」
泣きそうになっている俺を見てだろう、燐音がさらに不安そうに──泣きそうになった。
左目も、すぐ上に傷が残る右目も──傷なんか、関係ない。瞳に涙を浮かべて今にも泣きそうな燐音を放っておくなんて、したくない。
「燐音」
ベンチから立ち上がり、駆け寄りたいのを我慢して歩き、
「ありがとう、燐音。すっごい伝わってきた」
毎朝の定位置だった数メートル先で立ちすくむ燐音の前で、悪人面で嘲笑っているように見えるだろう『心から慈しむ微笑み』を見せる。
瞬間、泣きそうだった燐音の顔が、公園の明かりなんてなくても絶対に分かるくらいの朱色に染まり、呆けたような表情になって、
「なおちゃん!!」
「っ!」
体当たりするように抱きしめられた。
そう来るかもと思っていたから、呻かずに済んだけど、息は詰まった。
許してくれ、泳ぎすぎてバテた俺が悪い。
「……燐音、抱きしめても大丈夫か?」
「うん!」
可愛く即答して、可愛く頬を押し付けるな。
「あー、もー……お前本当、どんどん可愛くなってくな、燐音」
緩く抱きしめ返した腕の中で、燐音が「へっ?」と可愛く声を上げる。
「俺は燐音が好きだけど、燐音が言ってた好きな人に、俺が当てはまらないのが分かんねぇんだよな」
本心からの疑問をぼやいたら、
「どこが……当てはまらない……なおちゃんめぇ……」
可愛く唸られた。
「本番まで、ナイショにしようと……していましたが……上手くナイショにできず……なおちゃん、気づいてたっぽいのに……どこが……当てはまらない……」
どこも何も。
「俺は燐音に何度も助けてもらったけど、俺は燐音を助けられたことなんてないし」
自分の見た目も。
「格好良いとかの部類じゃないだろ、俺。顔も、それなりに鍛えた体も」
抱きしめてくる力が強くなっただけでなく、縋るように抱きしめられた気がして、慌ててしっかりと抱きしめ直した。
「ごめん、悪い。燐音を否定とか──」
「なおちゃんは、わたしを助けてくれた、格好良い人です」
胸の中で、今にも泣きそうな声になっている燐音に、
「人殺しじゃないってわたしを庇って助けてくれた、優しくてカッコいい人です」
燐音に言わせてしまった言葉で、どす黒い渦を巻く拭い去れない記憶が、俺を過去に引き戻した。
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