【短編集】曲から小説書いてみた!
逆倉青海
第1弾 パトリシア/the pillows
「シャボン玉飛んだ~屋根まで飛んだ~」
日が沈み始め、陽が少しだけ当たる閑静な住宅街にあるアパート、その一室。そこの庭には子供たちの歌声が躍っていた。
この場所には時折今のように子供たちが集まる。毎回来ている子も居れば、噂を聞いて来る子も居てメンバーはまばらだが、みんな集まる理由は同じだった。
理由は、遊ぶため。そしてその遊びの中心にはいつも僕の彼女がいた。
こんな時間に寝起きという普通の人には理解できないであろうタイムスケジュールで動いている彼女は、寝起きの髪もそのままに子供たちの歌声に合わせて再び息を吐いた。
ふー~~
まだ眠そうな彼女が欠伸のように吹いた弱々しい息で、またたくさんのシャボン玉が出来上がる。
「凄い!大きい!」「わ~!」「すごいすごい!」「もっともっと!」
「じゃあ、でっかいのいくよ?」
彼女が今日一番のシャボン玉を吹くと、子供たちから今日一番の歓声が上がった。
そのシャボン玉はたまたま吹いてきた風に乗り、大きいのにも関わらず屋根まで飛んで、消えた。
「はい、今日はおしまいね。」
「うん!」「ばいばーい!」
ちょうど十七時の鐘も鳴り、子供たちは素直にそれぞれの家へ帰っていった。
「今日も大盛況だったね。」
僕は部屋で洗濯物を畳みながら、まだ外を見ている彼女に声をかけた。
「うん、嬉しいね。」
南向きの窓には西からいい感じの光が入っており、彼女を右側から温かく照らしていた。
「ふわぁ~」
一つ欠伸をした彼女を見て、僕はコーヒーを淹れ始める。
彼女は心を壊している。触れたものを全部、大事にしすぎたから。まるで、自分までシャボン玉のように壊れてしまったみたいに。
でも、そんな彼女を見ていると、どうしても悲しいとか哀れだとそんな気持ちは膨らまない。彼女はその儚さの中に、誰かを守ろうとした温かさを持っているのだ。
僕は何もできずにただ、静かにその残光を見つめるしかなかった。
彼女はシャボン玉が好きだった。
いつパチンと弾けてしまうかわからない危うい綱渡りを、みんなしている。
僕らは進学先の大学で出会った。
「おい、シュウ。今日も飲み行くだろ?」
都内にあるここの大学生は、講義終わりに都内を歩き回るのが当たり前だった。そこにお酒も入るも当たり前。根っからの元気属性ではない僕でも、大学に入るとそういう付き合いも多くなり、気が付けばそれが日常になっていた。
高校生の受験期、名前が有名でとりあえず入っとけば安泰と言われたこの大学。もう入ってしまえばこっちのもんだと思っていたのだ。周りが変われば自分も変わる。人の価値は相対的だ。だから、大学で出来た友人たちと遊び歩くのはとても心が充実した。
そして、だんだんと大学の講義も疎かになったり、一限から行っていても二日酔いだったり、僕らは体全体で現代の大学生を体現していた。
そして気づけばあっという間に大学三年生になっていた。
僕は相変わらずなあなあで大学に通い、適当に講義に行き、バイトをし、飲み、当時付き合っていた人とのデートを楽しみ、人生の夏休みその後半戦を謳歌していた。
そして、三年から始まったゼミで、彼女、エリと出会う。
彼女は、ほとんどの生徒そして教授までもが就職の通り道として認識し、そう過ごすはずのゼミで唯一真面目だった。もちろん、僕を含めて彼女以外のみんなも卒業するための作業はしていた。だが、彼女はそれ以上に動いていた。気になることがあればゼミの先生に聞いていたし、その分野のオススメの本を聞く場面も見かけた。
はじめこそみんな「え、私にも教えて!」みたいに好意的だったのだが、彼女はマイペースに「私の作業が終わったらでよければ」と言い、その作業は無限に終わる気配が無かったのでみんな自然と離れていった。さらに、ある日「大学院行きたいの?」と聞いた人がいたのだが「え、その予定はないよ」と返されて謎が深まっていた。
その後は「なにを考えているかわからない」「おかしい」などなど色々と言われ始め、ゼミの同期は彼女とそれ以外になっていた。ただ、二十歳も越えた僕らだ。少しそういったことは言うが、所謂いじめのような感じではなくただの「不思議ちゃん」的に扱い、必要な時には適度に接していた。
当の彼女は、僕らの態度の変化に気づいていないのか気にしていないのか、マイペースに自分の世界を纏っていた。
それから時たま構内で彼女を見かけることが増えた。これはきっと意識の問題なのだろうが、僕の視界に彼女が入ることが増えていた。
講義は一人、前の方で受け、学食では一人でカレーを頬張り、一人で外のベンチに座って読書をしている。そんな彼女。
有名大学なので元々学生の数は相当だ。だから特別彼女の行動が目立っているわけではないのだが、僕に写る彼女は他の人と光の当たり方が違うように見えた。
もちろん、僕には付き合っている人がいたので好意的な視線を向けていたわけでは断じてない。けれど、少し彼女のことが知りたくなっていたのだと思う。
「夏生まれのみんな、シュウくん、誕生日おめでと~」
9月10日、僕は今年の誕生日を迎え、ゼミのみんなにお祝いされていた。
人数がそこそこいるゼミなので3カ月分の誕生日をまとめて祝うのが恒例なのだが、たまたまお祝いの日が僕の誕生日の当日だったので、少しだけ特別扱いを受けていた。
僕ら誕生日組が並び、他のみんながそれぞれの言葉をかけてくれる。その中にはもちろんエリさんの姿もある。彼女は別にハブられているわけではないのだから当然だ。
「ありがとうございます!」
代表の僕は先生や先輩も含めた目の前のみんなに対して明るく感謝を述べ、息を吹いた。
ふーーー
ロウソクの火を吹き消すと、ケーキを切り分けることになる。
「じゃあ、僕が切りますね!」
人数がそこそこなこのゼミではケーキをホールで4つも頼んでおり、それを人数分に切り分ける。普段から切り分ける担当は祝われる側というのが恒例らしいのだが、僕はじゃんけんが始まる前に率先して名乗りを上げた。
「7等分は難しいな~」
そんなことを言いながら和気藹々とケーキを切り、運んでもらう。そして、最後の二つが残り、一つは僕ので、もう一つは「はい、エリさんの分。」僕は切り分けたもう一つを彼女に渡した。
「ありがと。誕生日おめでと。」
彼女はケーキを受け取ると、少し微笑んだ。
「うん、ありがと。」
この時初めて見た彼女の微笑んだ顔が、強烈に僕の頭に残っていた。なぜなら、彼女の微笑みは悲しみを湛えたものだったからだ。
その後は適度にみんなで会話をしながらおやつタイムをしていたが、僕は彼女の様子が気になった。なので、先生や先輩に笑顔を向けながら、チラチラと彼女を見ていた。すると、彼女は話しかけられれば適度に会話をしている様子で、まるで先ほど見せた表情が幻だったかのように、彼女は自然だった。
その夜。僕は自分の部屋で半同棲している彼女からのお祝いを受けていた。
「おめでと~」
「ありがと!」
「ねえ、シュウは卒業後、どうするの?」
「誕生日に進路の話はやめようよ……」
大学三年。僕たちは進路選択を迫られていた。正直まだ大学でなにも成しえていない人間だから、やりたいこととか、出来ることなんて今決めるのは難しい。でも、大学三年の秋。すでに進路を決定している人も周りにちらほらといて、そろそろ動き出そうかなと思っていたところだった。
「私さ、今度インターンで福岡行こうと思ってて。」
「福岡?」
「そ。旅行気分でいいかなって。それに、私の地元、そっちのほうだからそっちで就職しようかなって思ってるんだ。」
彼女は僕と違って進路をちゃんと考え出している。付き合っているのに、彼女のそういう考えは知らなかった。
「そっかー。福岡か~行ったことないな~」
「いい所だよ~」
そうか、地元福岡で就職したいんだな、それなら、僕もついていこうかな、なんて心の中で思っていた。きっと福岡でも通っている大学の名前は有名なはずだ。それなら向こうでの就活はあまり苦労しないだろうと楽観的に考えていた。
「福岡と言えば、屋台ラーメン?」
「あー、あれ観光客しか食べてないよー」
話題は自然と進路の話ではなく旅行に行くならどこがいいなど他愛のない話に変わっていった。
少し焦りは増したものの、きっと何とかなると思っていた。
就活もこれからの彼女との生活も。今まで、結果的だが周りの人から必要とされるように行動して来たのだから、相対的な僕の価値はきっと誰かが拾ってくれると思っていたのだ。
しかし、それから一週間後、僕はフラれた。
まだまだ暑さが残るものの秋らしい曇りの日。大学の食堂で一緒にお昼を食べている時「この後、時間大丈夫?」と言われた。「今日の予定はゼミで今後の方針について先生と話すだけだよな」と特に意図を深く考えずに僕は了承した。
「じゃ、外のベンチいこ。」
そう言われて僕はついていった。
この大学には色んな学部の色んな建物が乱立しているので、その間を繋ぐ道にはいくつものベンチが設置してあった。過剰なほどのベンチの数に、入学当初は「おじいちゃん先生たち用」という噂も流れたのを懐かしく感じる。
彼女の話を耳にしながらそんなことを思い出していると、彼女はベンチに座らずに切り出してきたのだ。
「別れよう。」と。
「え」と言った後のことはあまり記憶に残っていない。
理解が出来なかった。夢かと思った。
目の前の彼女はなにか口をパクパクとさせているが、水族館のガラス越しのようにぼやけて聞き取れない。
あれ?
気づけば彼女は目の前から消えていて、僕は横にあったベンチにへたり込んでいた。
どれくらい時間が経ったかわからなかったが、太ももにスマホの着信を感じたことで我に返った。
相手はゼミの先生。そう。約束の時間を過ぎていたのだ。
「すみません。すぐ向かいます。」と言ってなにも考えずに歩き出した。
無意識のまま到着すると、研究室には先輩や同期の姿もあった。そして挨拶はほとんどできないまま、先生の居室へ。「失礼します。」と言って中へ入ると、先生と目が合った瞬間先生は僕に何かあったと察してくれたらしく「日を改めるかい?」と提案してくれた。きっと、ひどく体調の悪い顔をしていたのだと思う。
そして僕は「すみません……」とだけ言って研究室を後にした。
なんでだろう。
あれ?
構内をただ歩き、先ほどのことを思い出そうとした。
かろうじて思い出せたのは「私との将来、考えてくれてる?」というセリフ。
僕らは半同棲の状態だった。確かに、他のカップルと比べても、もう結婚一歩手前の付き合いのような感じだったかもしれない。けれど、僕はそこまで考えていなかった。
僕は未来のことを考えていない、いや。考えることが出来ない。見えないんだ。未来が。
「はあ……。」
なんだかフラれたことによって頭の中に置いてあった他のマイナス思考の蓋も空き始めているらしい。どんどん気分が落ち込んでくる。
彼女は僕を必要としていなかった。彼女から見た僕は無価値だったのか?
その後構内を無駄に2周歩き、フラれたベンチに戻って来てしまっていた。そして、もう一度言葉を反芻するためにベンチに座り、日が沈み始めて家に帰った。
家に帰ってもなにもする気になれず、そのまま寝て、朝早くに起きた。
起きるとスマホにメッセージがいくつか入っていて、おそらく事情を知った友人たちから飲みの誘いが来ていた。
「悪い、寝てた。今日どうよ?」とみんなに返しておき、ゼミには休みの連絡を入れて二度寝した。今はなにも考えない方が良いということはわかりきっている。
自分でもおかしいと思うが、こんなに落ち込むものなんだな。
まあ、大学一年生から付き合っていて人生初彼女だったから仕方ない面もあるかもしれない。でも、あまりにも突然だったから喰らった。なにか気づけなかったのか?あの時の言葉かな?むしろもっと言葉にすればよかった?どうすれば彼女に必要とされたのだろう?
なにを考えても、もうフラれている。
はあ、辛い。しんどい。
目が覚めると涙が頬を伝った。
多分、夢には彼女が出てきていた。
「おつかれー」
俺に気を遣ってか乾杯から始まらなかった飲み会。元彼女と僕の共通のやつもいるからあらかたそいつは把握しているはずだが、他のやつはまだ知らない。ただ、ここは明るくした方がいいだろう。あんまり重い空気になってもみんなに悪い。
だから「フラれましたっ‼遊ぶぞ‼」と僕は切り出した。
すると、テンションの方向性が定まってなかった飲み会が明るい方に向いた。
「そんな女すぐに忘れちまえ!」「どうせすぐどっか行くんだろ?」「次だよ次!」
「シュウの良さがわからない方が悪い!」
みんなは僕の肩を叩いて励ましてくれて、その度にグラスを鳴らし、空にした。
酔いが回れば、僕らは声を出して笑い話にできた。
「次なんてあるかよーぅ!」と僕が言う度にみんなが一口飲むくだりが出来上がるころには閉店の時間になっていた。
「よーしまだまだ!」
そのまま僕らは朝までカラオケコースを楽しんだ。
でも、家に帰り、元彼女から荷物を取りに行くと言われたとき、みんなにもっと違う言葉をかけてもらいたかったことに気付いた。
「じゃあ、これで本当に最後ね。今までありがと。」
夕方、荷物を取りに来た元彼女の背中に、僕は声をかけることが出来なかった。
「飲み付き合ってくれ。」
僕は欲しい言葉を浴びたくて共通の友人だけを飲みに誘った。
「今日は、昨日みたいな感じじゃないってことだな。」
ある程度理解があるこいつなら、心の内を吐き出せるかもしれない。そう思っていたのだが、彼は開口一番、今一番欲しくない言葉をぶつけてきた。
「でも、あいつ、別に好きな人いるっぽいぞ。なんなら付き合う?らしい?」
「は?」
「多分、もうとっくに冷めてたんだと思うぞ。クズ女だわ。」
「好きな人がいるって、お前は知ってたのか?」
「いや、お前と別れた後に色々あっちが言ってるらしい。これ、軽音のやつからだから多分正しい。」
「そうか……。」つい一週間前に将来を考えていたのに。その時にはもう僕のことなんか見ていなかったんだな。
そこからもあれこれと話しはしたが、僕は救われなかった。
二日連続で飲み過ぎたせいかそこから数日体調を崩した。
こういう時に家で一人いると、余計に辛くなる。今までよりも一層孤独を実感した。
僕はこれからどうするんだろう。どうなるんだろう。
視線を上げても、見える未来は暗かった。
次の日。これ以上休んでは周りからの自分の価値が下がりすぎてしまうと思い、気合を入れて大学に来ていた。
友人たちとも合流し「いやあ、マジ色々だるすぎてさ」と言ったやりとりをしながら学食で飯を食べていた。
「お前が元気無いとこっちもつまんねから頼むわ~」と言われ、まだ自分にはここにる価値があると感じられ、安心した。
その後はゼミに寄って少し作業を進め、夕方になって外のベンチで一息ついていた。
コーヒーを飲みながら一人また少し考え事をしてしまう。
自分の価値。みんなはまだ僕を必要としてくれているらしかったが、なぜか心のどこかにモヤっとするところがあった。
元彼女からは必要とされなくなり、友人たちも僕を必要とは言ってくれるが、僕の心のうちまで知ってくれていない。
僕の外側が持つ価値は、かなり脆く不安定なのかもしれない。
外側だけが美味しい果物はない。皮が分厚くても、色が変でも、中身が美味しければみんな好んで食べる。
僕は逆だ。
僕の中身は、なにが詰まっている?
そんなことを考えていたら誰かから声をかけられた。
「シュウくん。」
顔を上げるとそこにはエリさんがいた。
「なにか用?」僕はいたって普段通りにそう返す。
「うん。大丈夫かなって。」
「大丈夫だよ。」
「そうは見えないけど……。」
もしかしたら、ゼミでなにか噂にでもなったのかもしれない。
「もしかして、僕のこと心配で探してくれたの?」
僕は目の前にいる不思議さんを少しからかうようにそう言ってみた。
「そうだよ。凄い顔してたから。」
恥ずかしがりでもするかと思っていたから、予想外のイケメンなセリフに僕の方が少し恥ずかしくなる。
「そ、そうなんだ……ありがとう。」
「いえいえ。で、本当に大丈夫?」
「まあ、大丈夫だよ。ご心配なく。」
「ふーん。」
彼女は僕を疑うような顔で見た。この人、こんなに感情豊かだったんだな。
「その顔、みたことある。飲み行こ。」
そして気づくと僕らは半個室居酒屋に居た。
「ここ来るの初めてだ。」
「それはよかった。大学の最寄りだからもっと来るといいよ。」
「よく来るの?」
「うん。まあ、たまに。」
向こうが居酒屋に来るということをとても意外に感じた。
「で、フラれたらしいじゃん。」
一杯目が届くと、向こうがいきなり切り出してきた。
「なんで知ってんのさ。」
「耳は良いから。さ、乾杯。」
コツン
エリさんは一方的にグラスをぶつけてきた。
「全部話してよ。言えばすっきりすると思うよ。」
なんと変な人なのだろうか。ゼミのみんなが言うように、やはり不思議でよくわからない人のようだ。ただ、悪い人ではなさそうだ。
それに、もう全部どうでもいい。
なので、僕は一連のことを全部エリさんに話した。友人たちとの飲み会のことも。
「で、僕は自分の存在価値を失いかけているというか……。もう、どうでもよくなって。」
僕はあまりにも話すのに夢中になっていて、目の前のことを気にしていなかった。
意識が内に向いていたから、気分も暗くなってきたし、結局気持ちなんて晴れない。ただ再び暗くなっただけ、と思って顔を上げるとそこには涙を流すエリさんがいた。
「えっ、ちょっ……。」
驚いて我慢していた涙が一気に引っ込んだ。
「ご、ごめん……。我慢できなくて。」
彼女は服の袖で涙を拭きながらそう言った。
「君の価値は、人によって決まるものじゃないよ。」
パチンという音が聞こえた気がした。これだ。この言葉が欲しかったんだ。
「僕の価値って……?」僕は試すように聞いた。
「それは……自分で探さないとわからないよ。それに、私はただのゼミ仲間だし。」
「だよね。ごめん。」この返答も思っていた通りだ。
「でも、価値の無い人なんていないよ。私にはそう思える。」
これは思っていなかった答えだ。
そこから彼女はなんで僕を飲みに誘ってくれたのかを教えてくれた。
「高校のときね、親友が自殺したんだ。」
彼女の一番の親友。その人は厳しい家庭環境や受験のストレスに加え、彼氏に裏切られたことによって自ら人生を終わらせたそうだ。
「あの子、優しいから。私に心配させないように表情を作ってたんだ。私はそれに気づいてたけど、変に掘り返したり、踏み込んだりしちゃ悪いかなって思って。なにも出来なかったんだ。」
彼女の目に涙は見えない。
「ただいつもみたいに過ごして、笑えたら救えるかなって。……でも、救えなかった。」
そして彼女と目が合う。彼女の目には、一珠、宝石のような涙粒があった。
「そして、シュウくんがあの子と同じ顔をしてた。」
「だから、声をかけてくれたの?」
「そう。私の我儘でシュウくんに声かけたの。ごめんね。」
「いや全然。むしろ、ありがとう。」
「そう言ってくれるなら私も救われるよ。」
彼女が僕に声をかけたのは、きっと過去の親友と、過去の自分も救いたかったのだと思った。彼女が他人に対してあまり干渉していないのは、再び失うのが怖いからなのかもしれない。
そこからは彼女の哲学的な時間が始まった。
「人の価値は、シャボン玉だよ。」
「ん?どういうこと?」
「誰かに吹かれてできるんじゃなくて、自分で息を吹きこんで初めて形になるの。そして、その色彩で誰かを喜ばせることができる。もちろん、逆もね」
「あー、あー、……。」
「さては伝わってないな?」
「ごめん。」
「誰かのシャボン玉で、私たちも喜べるんだよ。」
そう言うと彼女は遠い目をした。
「私、人付き合い上手くないからさ。あんま人になにかすることってないかもだけど。」そう続けて彼女は微笑む。
「言っちゃあれだけど、わかる。」
「ひどい。」
「ごめん。」
「でも、わかっててやってるから。それに、マイナスな意味だけじゃないよ。自分に構ってるだけでも、人生なんてあっという間だよ。」
そう言った彼女の中身を、僕はもっと知りたくなった。
そして、それから何回か同じ居酒屋へ二人で飲みに行った。
その度に「アスパラベーコンは皮肉が効きすぎてあまり好まない。」とか「道端の雑草も生き物だと気づいた時に人生が始まった。」なんていう彼女なりの哲学に触れ、そんな彼女の不思議な、温かいところに僕はだんだん惹かれていった。
そして大学四年になり、僕らはお付き合いをすることになった。
言ったのは、もちろん僕の方から。
付き合って彼女から色々なことを教えてもらった。
僕がまだ僕自身の価値を感じることが出来なく、就活も行き詰っていた時、彼女は「まだ触れたことのない世界には自分の可能性が無限にあるんだよ。シュウくん、プログラミングでもやってみたら?」と言ってくれたことがあり、彼女のことだからと試しにやってみたらなんとこれがハマった。
彼女は様々な角度から物を見ている。きっと、僕のことも僕以上によくわかってくれているのだと思う。
デートの時、彼女は度々遅刻をすることがあったのだがその理由はそんな彼女らしいものばかりで「歩いたことのない道で来たら迷ってしまった」「珍しい鳥がいたからつい見てしまった」など彼女の見ている世界は広く、鮮やかだ。
そんな彼女に僕は「でも、遅刻はよくないよ。」と半分呆れたように言ったのだが、内心では全然許していた。
そして僕らは大学を卒業する時を迎えた。
「卒業おめでとう!」
卒業式の後、ゼミのみんなで写真を撮り、飲み会もした。
僕らが付き合い始めてから、自然とエリと他の同期の境界も無くなっていた。
「いや、ちょっと自分のやりたいことで忙しくてさ、構ってあげなくてごめん。」
「いや、私たちはネコかなにかなん?」「どっちかって言うとエリの方が猫っぽいよね!」「わかる!」「自分でもそう思う!」
同期と飲みながらそんなことで笑えている彼女を僕は嬉しく思った。
「シュウは、システムなんちゃらだっけ?」酔った同期に絡まれる。
「システムエンジュニア、SEね。」
そう。実は文系大学に進学した僕だったが結局エリに見抜かれた才能で進み続けたのだ。もちろん生半可の努力ではなかったが、なぜかコードが読める彼女の手伝いもあって、研修がしっかりとある会社に内定を貰えていた。
彼女の方はその奇抜な発想力が買われたのか、大手マーケットの商品開発部に勤めることになっていた。
二人とも都内にオフィスがあるため、少し離れた23区外に部屋を借り、同棲もスタートすることになっている。
「新生活!蕎麦食べよ!」
こうして彼女との生活は始まった。
彼女との生活はとても楽しかった、というより、幸せだった。
お互いが自分の作れるシャボン玉を一つずつ渡し、ふわふわと過ごした。
でも、僕の方が与えられてばかりのようにも思えていた。
大学生の時には友人たちと飲み歩いていた僕だったが、今までは少し無理していたんだなと言うことにも気付けた。気ままにしている彼女のペースの方が心地よかったのだ。ふらっと散歩に出かけて草の名前や雲の名前を教えてもらったり、いつもと違う道で帰った日にはパン屋を見つけたりした。まるで猫の散歩コースのようだったけれど、彼女の世界を共有できる幸せを噛みしめていた。
僕らはそんなのんびりとした生活を送っていた。
「今年の誕生日、どっか旅行でも行かない?」
今年も9月になり、お互いの誕生日を祝う日が近づいていた。僕らは2週間違いの誕生日だから、そのちょうど真ん中である9月17日にお祝いをすることにしていた。社会人としても二年目。今年は土日と有給でどこか遠くへ行ってみたいなと考えていた。しかし、彼女はやはり予想のできない答えを返してくれる。
「んー、私、年取るの、辞めてみようかなって思ってて。」
「ん?どゆこと?」
「いや、もう年齢で肩書が変わることもことないしさー。数えなかったら永遠だよ?」彼女はそう言って笑った。
「確かにあんま年齢でどうこうってないかも?」
「でしょ?介護保険と年金の受け取りの時ぐらいじゃない?次に必要なのって。」
年齢というのは否応なしにカウントされていくものだとばかり思っていたけれど、きっと彼女は年齢を意識しないで自由に過ごしたい、とかそんなことを考えていたんだと思う。
「ま、君と居れば家だとしても宇宙にも、過去にも未来にも行けるからいっか。」
僕がそう言うと彼女が笑った。
「無限の可能性だね!」
彼女といれば、外の世界がなんだって、いつのどこだかなんてどうでもよかった。
しかし、彼女は壊れてしまった。
社会人3年目の冬。彼女はある日突然ショートカットになって僕の前に現れた。
「じゃ~ん」
昨日は急な出張だというのでお昼ごろに帰って来た彼女はそう言って僕の前に姿を現した。
「あれ?随分とバッサリいったね。」
「……でしょ。想像以上だったけど、これはこれで、パトリシアみたいでしょ?」
「パトリシア?」
「……うん。高貴ってこと。今日、かっちょいいコート買い行こ。」
「いいね。」
この頃僕はSEとして安定し始め、在宅での仕事が増えていた。月に数回出社することがあるが、それ以外は基本的に家での作業だった。しっかり業務をこなしていれば、買い物ぐらい簡単に行ける。
そして僕らは電車に乗って少し離れた街にあるショッピングモールに来た。電車に揺られている間、他愛もない話をしていたのだが、僕はなにか違和感を覚えていた。
「これ、結構よくない?」
店に着き、そう言って黒のロングコートを自分の前に持ってくる彼女の顔には貼り付けた笑顔があった。
パチンと音がした。今日ずっと感じていた違和感が、確信に変わったのだ。
しかし、決定的なものが掴めていなかったので、買い物中も上の空だった。そんな僕に彼女は「今日のシュウくん、なんかふわふわしてない?」と言って来たのだが「エリと同じだね」とよくわからないことを返してしまった。
そして、不意にあることに気付けた僕は、彼女の側頭部の髪をかき上げた。
「ちょっ、急にどうしたの……。」彼女は明らかに動揺している。
「やっぱりそうなんだね……。」
「なにが……?」彼女は頭の回転が速い。きっともう僕がなにに気付いたかわかったのだろう。
「エリ、これ誰にやられたの?」
彼女の側頭部には、明らかに歪な剃り跡が残されていた。
「うーん、とりあえず、これ買おうよ。」
そして彼女は一人、会計に向かい、戻ってくると「外行こ」と言った。
僕らは近くの公園のベンチに座った。
僕がなにも言わないでいると、彼女はコートの入った紙袋を持つ手に少し力を入れ、口を開いた。
「私、いじめられてるみたい。明確に。」
「やっぱ、そういうことだったのか……。」
彼女の頭に残されていた跡は明らかに素人が雑にやったもの。そもそも結構内側を刈られているので、犯人は外見ではあまりわからない範囲でこれを行ったのだと考えられる。ただ、どうしても違和感があったから、彼女はそれに合わせてもう片方を揃え、短髪にしたということだ。
「他にも物を隠されたり捨てられたり、嘘の会議の時間を教えられたり……。」
いじめの内容を語る彼女の顔はとても辛そうだった。
「もう!いいよ……。」
だから僕は遮った。そして、彼女を強く抱きしめた。
まさか大人になってからそのようないじめが起きるなんて思わなかったが、現に彼女は傷ついている。
同僚からの嫌がらせ。上司もあてにならないらしく、むしろ彼女にも非があると加担する発言もしたそうだ。
彼女は今まで我慢して、抑えていたものがパチンと弾けてしまったように泣き崩れた。
なんで僕はもっと早く気付けなかった?彼女は優しいから僕に迷惑をかけないようにしていたのかもしれない。でも、なにか絶対に気付けたはずだ。彼女がこんなになってしまっているのだ。
次は絶対に僕が彼女を救う。そう決めた。
こうして彼女は仕事を辞めた。
彼女が話してくれたあの後、僕はボイスレコーダーを購入して彼女に持たせた。彼女は「そこまでしなくていい」というふうに言っていたが、自分だけが傷ついてあくまでも平気だと言っている彼女を見ていられなかったのだ。そして彼女はあっという間に証拠を揃えた。
「……録音したもの聞いて、怖くなった。」と彼女は言っていた。きっと、なにかが麻痺していたのだろう。
そして彼女は勇気を出して社長にいじめの件を訴えた。証拠を揃え、相手の退職を要求したのだ。
しかし、なんといじめの主犯が社長の身内だったということが明らかになり、逆に示談金を提示されたという。
「なんだそれ!ふざけてるのか!」僕は怒りに震えた。
身内のやったことだからと内密にしてほしいというのだ。身勝手にも程がある。
「僕が電話で直接言ってやる。」悪いのは間違いなく相手。こちらから譲歩する必要は一切ないと思った。
だが、僕がそう息巻いていると彼女が止めてきた。
「やめて、もう、大丈夫だから……。」
彼女の目の端には涙が溜まっている。
「このままだと……シュウくんもおかしくなっちゃう。」
「でも、いつまでも解決しないじゃないか!」
「いいの。ありがとう。シュウくん。でも、私もう大丈夫だから。」
彼女はもうとっくに涙声だった。
「私、会社辞める。」
こんなに必死な彼女は初めてだ。いつもののんびりとした彼女からは考えられないほどに脆く繊細な部分を僕は見ている。
「社長からの示談金、結構な額だから、どこか遠くに引っ越そう?」
「でも、それじゃなにも解決してないじゃん……。」
「いいの。客観的考えれて、これ以上あの会社にいられないって思ったの。それに。私はシュウくんと二人の世界があればどこでも幸せだから。」
僕はこの言葉で我に返った。
僕らはお互いにひとつずつシャボン玉を吹いたはずだ。それがいつの間にかパチンと割れていた。
そうだ。僕は彼女のためにもう一度シャボン玉を吹こう。
そして僕らは遠くの地へ引っ越した。
新興住宅が立ち並ぶ住宅街には新しい風が吹いていた。
「ここで新しい生活が始まるんだ。」
エリが前みたいにふわふわ宙に浮きながらそんなことを言う。
「エリ、結婚しよう。」
まだなにもない部屋。その真ん中で僕は彼女に指輪を渡す。
「えっ……。」彼女は今迄で一番驚いた顔をしている。
「もちろん!」
二人とも泣いてしまった。でも、笑顔だった。
「まだなにもないこの部屋に、これから僕らの生活を作ろう。」
彼女は心を壊している。なので、基本的に横になりっぱなしか、活力がある時はやりたいことをやっている。
彼女は彼女の世界を生きている。そして、そこに僕も居させてくれている。時折「次はパン屋やろうかな。店名は、パトリシアで。」なんてふわふわとしたことを楽しそうに言う。
「パトリシア、ってなんだっけ?」
「高貴、って意味だよ。いいでしょ。」
「いいねそれ。」
「私、今ならなんにでもなれる無限の可能性を秘めてるから。」と自慢げに言って来た。
「だね。」
彼女は、今はまだなにも出来ない。でも、彼女はまだ温かい光を持っている。
そんな彼女とのなにもない生活は、それだけで僕にとってどんな宝石よりも価値がある。彼女が僕にくれた世界の彩りはいつまでも輝き続ける。
ふ~~
彼女がふとベランダでシャボン玉を吹いていた。
「わあ!」
ちょうど近所の小学生たちの下校時間だったようで、飛んでいったシャボン玉を見た小学生が「綺麗」だと盛り上がった。
「シャボン玉、好きだなあ」
彼女はのんびりとそう言った。
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