第2話 喫茶店、末広町(1)
実生の実家には電動工具は一通りそろっていた。恐ろしいことに、中古の
父親は近くにあったミネラルウォーター工場で働くサラリーマンで、趣味は渓流釣りだったから、そんなものは使わない。何やらわけのわからないものを一人で作って
ロケーション的には都会からの移住者がよだれをたらしそうな家だったが、あいにくと両親とも信州生まれだった。
代々住んできたというわけではなく、近隣の市に住んでいた父と母が中古の安い物件を見つけたのだ。地元の人間であっても、村外からの移住者には補助金が出たらしいから、裕福な村だったのだろう。
小学校から四十分歩いて家に帰ると、以前は農家の
発明品コンテストだとか、フリーマーケットだとかに出品するのを生きがいにしている母親で、今でも実家に行けば日がな一日作業場にいるか、設計図を引いている。
そういった点では変わり者かもしれない。ただ、地域の人とそれなりにやっていくだけの社会性はあった。地域行事は、楽そうなものは積極的に出て、大変そうなものは巧妙に避けていた。
そんな母を持っていたから、実生の進路の選択に工業高校は全然ありだった。
通っていた中学では将来展望を描けていない生徒の間で、「俺は工高の料理部でいいよ」というのが一種の決まり文句になっていた。のんびりとした高校生活を送りたいという、どこか逃避的な意思表示でもあった。
普通科にも農業高校にも商業高校にもいまいち興味が沸かなかった実生は、工業高校の機械科に進み、きちんと料理部にも入った。
高校で機械をいじり、たまに料理をして、ごくごくたまにデートもして、家でもまた機械をいじるという生活をしていると、何となくわかってきたことがあった。
母のあの趣味は、一種のアンチテーゼなのではないかということだ。
実生と母は、顔も髪質もしゃべり方も似ていないのだが、根底に流れる楽観気質がどうしようもなく似ていた。
周囲と合わせることを当然とし、周囲と合わせられる自分に喜びを感じるという規範意識の強さが、あの内陸県にはあった。
それは生まれつき楽観的で場当たり的な人間にとって、最後まで拭い切れないストレスになる。結果として、体質的にどうしても合わない人間は、今の実生のように外に出ていくのだ。
出ていかなかった母は、少し変わった趣味を持つことで、自分を維持している。そのことに、高校生活を送りながら気づいた。
それなのに、横浜の磯子にある造船所に娘が就職したいと言った時、実生の母は最初賛成しなかった。気質の合う娘がいなくなることがさみしかったのか。
ひょっとしたら、自分がなしえなかったことを実行しようとしている娘に対する嫉妬も、少しはあったかもしれない。
父が口では「さみしいなあ」と言いながら、内心では自分の時間が持てることをまんざらでもないと思っていたのとは対照的だった。
実生が美砂と職場近くで会うことにしたのは、その場のノリだった。
お互いに転職したてで情緒の安定度が低かったのは確かだ。それでも、たとえ寂しさからだとしてもコインランドリーで友だちができるなんて素敵なことだと思う。
話をしているうちに、二人とも二十五歳の同い年だとわかった。実生は高卒、美砂は短大卒で働き始めたから、実生の方が社会人としては先輩だ。
外神田といっても実生の職場は
秋葉原の電脳的な雰囲気は薄く、低層ビルだらけの東京らしい街並みだ。
その日は早番の美砂の方が早く退勤するから、近くまで来てくれるというだけで、末広町にこだわったわけではない。
待ち合わせした喫茶店に美砂はもう来ていた。奥の方のテーブル席で小さく手を振っている。今日はコインランドリーで見るような部屋着感丸出しの服装ではなく、もう少しよさげなTシャツを着ていた。
職場近くのマンションの一階にある喫茶店は、レトロでもモダンでもない工業製品のような店で、清潔感はあった。どこにでもありそうな店だ。
それがいい。会社に一人しかいない営業担当は、よく仕事の打ち合わせで使っていた。
美砂はこんな店に控えめな華やかさを添えているように感じられた。冷房対策でカーディガンを羽織っているので、左腕のあざが目を引くこともない。
「ごめんねえ、来てもらって」
「いいの。こういうことでもないと、行動範囲が広がらないから」
「でもさ、付き合ってる人とかいるでしょ?」
「うん、いる」
あっさり答えやがったな。
「なら、いろいろなところ行くんじゃない?」
「私が転職したてで動く気力がなくて。最近は互いの家に行くくらいしかできてない。彼、平和島に住んでるから」
「へえ、近いね。どこで知りあったの?」
実生は食いつき気味に聞いた。まさか、あのコインランドリーか?
「それが偶然なんだよね。弁当屋で出会ったから」
「あら、そう。でも都会的だね」
「なに、それ」
不可解な落胆を示した実生に、美砂は怪訝そうな笑い方をした。
「前の保育園で残業したとき、
「確かに、すごい偶然。偶然が三つくらい重なってる。その人、何やってるの?」
「物流会社の通関士」
「うーん、よくわからない」
「わかんないよね。私もさっぱり。港にはよく行ってるみたいだけど」
店に入ってすぐに注文したレモネードが来た。美砂はクリームソーダを前にしている。
仕事が終わった後は、猛烈に甘い物が欲しくなるのだそうだ。美砂は半分くらいになったアイスクリームをつつきながら続けた。
「彼とは去年の夏頃に出会って散歩をよくしたから、いろいろな場所には出かけたけど、この辺は来たことがないな」
「どんなところに行ってたのよ」
「日本橋、品川、深川、あと横浜とか?」
「渋めだね」
実生のその反応に、美砂は薄く笑った。
「私、水のあった場所を巡るのが好きで。
「水? 堀川?」
実生は思わず聞き返した。
「うん。私の習慣、というより妄想癖かな」
そう言うと、美砂は羽織っていたカーディガンを脱いで左腕を見せた。
「これ、気になってたでしょ?」
「気にはしないけど。目には入る」
実生はストローに向かおうとした口を戻して言った。
「小学生の頃、煮立った味噌汁で火傷したの。私、父子家庭だから、そのくらいの手伝いはしていたのね。そのときは大変な騒ぎで、火傷の痛みより周りの雰囲気の怖さの方が良く憶えてる。結局、こんな跡がのこった。私が人付き合いから逃げるようになったのは、このせいもあるかな」
美砂は左腕の色の変わった部分をそっと撫でた。
その火傷跡が自分の引っ込み思案に拍車をかけたのは間違いないけど、それだけじゃないと、美砂は話し始めた。
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