水盤の東京

六ツ川和泉

第1話 コインランドリー、蒲田

 雨の音が遠ざかる。アスファルトの水膜を叩くタイヤの音、回るモーターの音、ガスに点火する火花の音、全部が消えていく。


 ノイズキャンセリング・ヘッドホンは、強力に周囲から音を締め出していった。

 百瀬ももせ実生みおいは、バング・アンド・オルフセンのヘッドホンを耳にかぶせたまま、コインランドリーのひび割れたプラスティックベンチに腰掛けた。


 思っていた以上に音にあふれた空間だった。それらに蛍光灯の激しすぎる光と、合成洗剤の強烈な匂いが重なって、感覚器官がカーニバル状態だったことに気づく。

 つい先日届いたハイエンドヘッドホンは、彼女の生活の中ではとびきり贅沢な物だ。何かいい物を買いたいと思ったときに、真っ先に思い浮かんだのがこれだ。

 日常に彩りが欲しければ、頭にいいヘッドホンを。


 本当に彩りが欲しかったわけではないので、色は黒にした。鈍く光るアルミの筐体きょうたいに上質な羊革、中にはチタン製カスタムドライバーを搭載している。

 実のところ、スペックに見合うような使い方はしていない。どうせ再生するのはお気に入りのアニメソングか、適当に選んだチルっぽいプレイリストだけだ。


 今は音楽すら流していなかった。高性能なノイズキャンセル機能をフルに生かして、かりそめの静寂に浸っている。

 隣の女性は何を聞いているのか。


 同じベンチに一人分の隙間を空けて、女性が座っている。その女性もヘッドホンを着けて電子書籍リーダーらしい黒い板を手にしていた。

 同じくらいの年頃に見える。黒いまっすぐな長髪、重めな前髪、人形のように整った顔が、現実感薄めだった。そこに黒いヘッドホンが乗っかっていると、その女性そのものがガジェットのような気もしてくる。


 ただ、彼女の腕は現実を強調していた。ちょうど実生の側にある彼女の左腕、半袖のTシャツからのぞいた白く細い腕に、べったりとした赤い染みがついていた。

 火傷痕やけどあと


 ちらちらと盗み見ていたせいで、実生はその女性がこちらを向いたのに気づいた。なにやら口をパクパクさせている。

 おお、全然聞こえない。このヘッドホンの性能は本物だ。

 と思ったが、ヘッドホンのカップをずらしてみたら、単に彼女の声が小さいだけだった。


「終わってません?」

 女性が控えめに指さした先には、回転していない乾燥機があった。ああ、終わってる。

「すいません。待ってました?」

「ええ、まあ。雨の日って、やっぱり混むんですね」

「乾燥機は天気が関係するかもね。私は洗濯機自体がないから、雨でも晴れでもここ使ってるけど」


 女性はそっとヘッドホンを外した。その仕草がおそろしく様になっている。それから抑揚の乏しい口調で言った。

「私は洗濯機壊れちゃって。まだ五年しか使ってないのにひどいですよね。買い換えるのが悔しいから修理頼んだら、三週間後だって言うんですよ」

「へえ。何が壊れてるんだろ。私、見れるかも」

「え?」


 実生は立ち上がって洗濯物をランドリーバッグに入れながら、あまり考えずに自分のことを話した。

「白物家電に詳しいわけじゃないけど、半年前まで造船所にいたから、機械は慣れてるし。そんなに複雑なもんじゃないでしょ、洗濯機って。あ、でもドラム式?」

「ううん」

「ならオッケー」


 そう言ってから、実生は笑った。

「何がオッケーなんだか。会ったばっかなのにね」

「ああ、そうか。私、すっかりその気になってた」

「そう?」

 振り返って、改めて声の主を見た。まっすぐな髪、長いまつげ、あるかなきかの化粧、クールなヘッドホン。首から上は完璧。


 でも、下はスーパーの特売で売ってそうな普及ブランドのTシャツ、膝に穴の開いたよれよれのスウェットパンツで、急に親近感が湧いてきた。

 女性は恥ずかしそうに言った。


「普通はないか。私、そういうのって、あんまりわかんなくて」

「わかんないよねえ。私もさっぱりわからんです」

 だんだん、何がわからないのか、わからなくなってきた。

 そういうわけで、その女性は三日おきくらいでコインランドリーにやってきた。たまたま実生も同じサイクルだった。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 小苗こなえ美砂みさは、アパートの洗濯機がうなるだけで動かなくなったときは、まさしくパニックになった。保育園に勤めていると、子どものよだれ、食べこぼし、泥、おしっこ、ありとあらゆるものが服に付着する。肉体労働だから、自分の汗だって相当だ。つまり、洗濯は毎日でもしたい。


 翌日、携帯のマップで調べたコインランドリーに行ってみた。故郷では本当にたまに、父の運転で使ったことがあった。東京では一度もない。

 都会のコインランドリーには、いったいどんな作法が必要なのかと身構えながら、蒲田の住宅街のど真ん中にある店に行ってみたのだった。行ってみたら、思いのほかゆるい空間だった。風変わりな先客のせいかもしれない。


 話をするようになった女性は、実生みおいという名前だった。職場以外で親しくなる人などほとんどいない生活だったから、こういう近づき方は自分でも珍しかった。


 実生は開け広げというのだろうか、相手を警戒させない人だった。

 短くした癖が強い髪を放置しているボサボサ頭を、いいもの感あふれるヘッドホンで押さえつけている。背丈は美砂よりもだいぶ低い。細い目に大きくて良く動く口の、愛嬌あふれる顔つきだった。


 二回目に会ったときはお互いに何を聴いて、何を読んでいるのかを教えあった。美砂も実生も、たいていはヘッドホンでは何も聴いていないことが発覚した。そして、美砂が電子書籍で読んでいるのが、救いようのない少女ギャグ漫画だということも知られてしまった。


 三回目に会ったときは、互いの仕事の話をした。美砂の洗濯物の中に入っていた大きなエプロンに実生が気づいたからだ。

「保育士。神田淡路町あわじちょうの保育園に勤めてます」

「近い! 私の職場、外神田。末広町すえひろちょうだから、アキバっぽくはないけど」

 外神田、末広町、アキバと羅列されて、美砂は混乱してきた。


「私、今の保育園に勤め始めたの、つい最近なんです。だから、全然あの辺のこと知らない」

「そうなの? それまではどこで働いてたの?」

「東日本橋。違う法人に勤めてた。転職したんですよ。いろいろあって」

「いろいろかあ。あるよね、いろいろ。実は、私もいろいろあったから、転職したばっかり」


 妙に早い納得の仕方をされて、美砂は変な誤解はされたくないととっさに思った。

「いろいろっていっても、私じゃないですよ。職場の方がいろいろ」

「大変だったんだね。私はね、私自身がいろいろあったよ」

 実生はそこだけ妙に大人っぽい言い方をした。

 あらぬことを連想させる顔だ。


 美砂の場合は違う。勤めていた社会福祉法人がかなり悪質な補助金不正受給を長いこと続けていたのだ。都と区の臨時監査が入り、はっきりとブラックだと認定された。


 そんなことを日常的に行っている組織は、コミュニケーションに誠実さというものがなかった。隠し事をしていると腹を割った話し合いなどできないのは、人間でも組織でも変わらない。現場レベルの不条理さは度を越えていた。

 同僚たちは次々と辞めていき、それに乗り遅れた美砂も今年の年明けに退職した。


「ちょうどそのころ、実家に戻らなくちゃいけない用事もできたから」

「実家か。実家、どこ?」

「松江」

「松江ってどこ?」

「島根県」


「へえ、遠くから来たんだね。私、長野県出身。安曇野あづみのの北の方。言ってわかるかな」

「安曇野、いいとこですね」

「ごめん、私、島根は知らないわ」

 へへ、と実生は悪びれずに言った。話していて楽な人だ。

 さらに実生は遠慮なく聞いてきた。


「実家で何があったの?」

「父が仕事中に交通事故を起こして、しばらく介護が必要だったんです。腕と足を骨折したのに、病院がさっさと退院させたがったから。結局、四ヶ月くらいあっちにいたかな」


 おかげで五年勤務の退職金の半分以上は、住んでいないアパートの家賃で持って行かれた。父親の方は、自分の大ケガと娘の迷惑にもかかわらず、労災だ事故の補償金だでプチ小金持ちになって喜んでいた。


 帰京してから慌てて就職活動を始め、今の法人に勤め始めたのが二ヶ月前だ。幸い、少子化が進んでも都心の保育士は売り手市場で、五年のキャリアもあって再就職はすぐにできた。


「Uターンしようとは思わなかったの?」

 実生は少し踏み込んだ質問をしてきた。

 仕事を辞めて、父親もケガをして、それでもまだ東京に戻ってきたのはなぜなのか。簡単な話だ。


「思わなかった。故郷が好きではないから」

「そうか」

 実生は、なにか得心したようにうなずいた。その表情に自分の意図とは違うニュアンスを感じたので、美砂はもう少し説明することにした。

 どうもこの人は早合点するたちのようだ。


「もともと東京に憧れてたわけではないの。広島でも、岡山でもよかった。でも短大に以前勤めていた法人の求人票が来てたから。東京の法人が島根まで求人出してるのには驚いたけど」

「人手不足だもんねえ。私も、母校の高校に求人が来てたから、前の会社に就職できた。でも、だとして、なんで東京を選んだの?」


「一番遠かったからかな・・・・・・。それに、給料も断然高かった。東京の特別区って、どこもすごい家賃補助を出してくれるんです」

「あはは、ドライでいいね」

 そう言われるとは思わなかった。確かにドライに見えるかもしれない。


 今回は退職した法人と同じような待遇を求め、以前とそう遠くない場所に次の職場を決めた。

 新しい職場への愛着が育つほど時間が経っているわけではなく、周辺をぶらつくような余裕もまだない。


 蒲田から京浜東北線で神田まで行き、古びた長い地下回廊を通って六番出口を出る。それから、靖国通りを渡ってワテラスタワーの足元まで歩いた。帰りは同じ道を忠実にたどった。今のところ、毎日その繰り返しだ。

 そう、確かに転職先について深くは考えなかった。ただ、ピンときたというのはある。それが何だったのか、考えたことはない。

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