彼女の名は妖狐

「何をブツブツ言っておる。ほれ、行くぞ」


 ひぃ姉さんは僕の耳を雑に掴むと乱暴に引っ張り、どんどん山頂の方へ登っていく。


「イタタタ、痛い! 何すんだよ。そもそも行くってどこに行くんだ」


 いくらなんでも耳を引っ張るというのは酷すぎる。全力で抵抗するが、力が強くてちっとも耳から手が離れない。そのまま抵抗し続けていると面倒くさく思ったのか姉さんは僕の耳から手を離した。


「行く場所など決まっておろう。ひぃとふぅの家。母さまが住んでいるところよ。無論お前に拒否権はないからの」


 どうやら僕はこの子達の家に連れていかれるらしい。今日の事について彼女達の母親に一つ謝罪でもしてもらおうかと考えたが、こんな言動のおかしい姉妹の母親では望む結果は期待できそうにない。ただ無事に帰れる事を祈るだけだ。

 黙って少女二人に付き従うという辛酸を舐めていると———


「そろそろ着くぞ」


 姉さんの声が聞こえて前を向いた。いつの間にか僕達は山頂に到達しようかというところまで来ている。

 そもそも何故僕達は参道を登っているんだ? 

 この山には家なんてないはずだが。あるのは精々管理人が寝泊まりできるような小さなプレハブ小屋くらいだ。そしてそこに少女が住んでいるなど聞いた事がない。


「なぁ、お前達の家って何処にあるんだ?」


 聞いてもどちらも答えてくれない。ただ、まっすぐ山を登り続けるだけだ。さっきまであんなに僕の事を振り回していたのに急に無視するなんてやっぱりどうかしている。  

 前を見ると二人の少女がヒソヒソ話をしているところだった。僕の事は無視するくせに姉妹仲良く内緒話かよ。全く酷い奴らだ。


「ほら、もう着いたぞ」


 姉さんに先導されて着いた先は山頂に建つ新狐神社だった。時折手入れはされているはずなのだが、予算が少ないのかその木造建築は酷く古ぼけていて傷んでいる。まさか神社に住んでいるとか馬鹿な事を言い出すつもりではあるまい。流石にそうだったら僕はこの子達に病院をオススメしないといけなくなる。頼むから僕にそんな気は起こさせないでくれよ。


「母さま。ひぃとふぅ、ただいま帰りました」


「帰りましたです」


 姉妹は神社に向かってただいまの挨拶をした。

 まさかだったのか、ヤバイ。

 いよいよ病院に連れて行こうかと考えたが、直ぐに思い直す。

 この子達と関わると碌な事は起こらないだろう。この場から一刻も早く逃げ出した方が良い。

 しかし、姉さんが睨みつけていて動く事すらできなかった。

 蛇に睨まれた蛙とはこの事かと思っていると突然、神社からまばゆい光が放射され辺り一帯が真昼のように明るくなった。


「何だ。眩しい」


 突然の光で目をやられ擦っていると、正面から女性の声が聞こえてきた。


「愛しき娘達よ。余の下へおかえり」


「母さま! ただいま!」


「母さま、ただいまです」


 次第に目が慣れてきてこの場で起きている事象が見えてくる。二人の少女が賽銭箱に座っている女性に抱き付いて、頭を撫でられているようだ。あの女性が少女達の母親なのだろうか。

 一体何が起きているのか。

 少女達の教育はどうなっているのか。

 二つの疑問をぶつける為に足を一歩踏み出した。

 しかし、踏み出した足は二歩とは続かなかった。彼女の姿があまりに異様だったからである。足元まで届くかのような純白の長髪に死装束のような純白の和装。左手にはこれまた純白な扇子を携え、その美貌には妖しい色気を纏っている。これだけでも警戒するには充分な風貌であるが、真に異様なのは首から下ではなく首から上、正確に言うと頭の上だ。

 ある。

 付いている。

 人間の身には決してありえないもの。あってはいけないものがその女性には付いている。


「お前、何者だ」


 僕は女性の頭上を指差し、恐らくこの場で最も重要な問いを投げかけた。すると彼女は頭上の狐(きつね)耳(みみ)をピンと立てて一息吐くとぶっきらぼうに言った。


「余が何者であるかを一番初めに聞くとは主はセンスが欠片もないの。流石は余の見込んだ凡夫、凡俗じゃ。期待通りの質問をした事を褒めてやっても良いぞ」


 ダメだ。完全に関わってはいけないタイプの奴だ。

 どうやら僕の見立ては正しかったらしい。子が子なら親も親だ。完全にイカれている。これが初対面の相手に向かってする発言か? いきなり罵倒から入るなんて世の常からは大きく外れている。


「ほぅ、世の常を余に求めるか。ならば問おう。初対面の相手に不躾に何者だと尋ねるのは世の常だったのかの? ならば面白いのぉ。主の言う世の常とやらでは不躾が礼儀らしい」


 彼女は扇子で仰ぎながらハハハハと高らかに笑い、こちらを睨みつけた。

 クソ、どう考えてもおかしいのはそっちだろ。思い切って反論をしたいが、あの少女達の親だ。何をしでかすか分かったものではない。ここは大人しく下手(したて)に出たほうが懸命だろう。


「わ、悪かったよ。急に連れてこられて気が立っていただけなんだ。許してくれ。僕は早く帰りたいだけなんだよ」


「ふん、口先だけの汚(けが)らわしい謝罪か。いかにも凡俗の考えそうな事じゃ。だが、別にそれで主を責めたりはせぬ。余は主みたいな人間を何人も見てきたからの。その振る舞いは特別に許してやろう」


 どこまでも横柄な女だ。どうしてこんな女に娘がいるんだ? 娘がいるという事は夫もいるはずだ。こんな女に夫がいるなんて甚だ信じられない。どうせその顔に釣られた哀れな男が夫なのだろう。


「聞こえておるぞ、主よ」


 聞こえているって何がだ? 

 僕は彼女に謝罪をしてから一言も発していない。小声でもだ。それとも腹の虫でも鳴ったのが聞こえたのか? 


「余は全てを知っておるからの。主の矮小な考えなど全部お見通しじゃ」


 彼女は扇子で口元を隠しながらニヤリと笑った。

 え、じゃあそれってまさか———


「僕の心が全て読まれているっていうのか!?」


「心だけじゃないのです。母さまは妖狐にあらせられるのです。この世で最も恐れられているお方なのです。ですから、母さまには知らぬ事などないのです」


「ねー、母さま」ふぅは母親の膝の上に無邪気に乗り抱きついた。

 妖狐だと? 

 妖狐は僕でも知っている。人間に化けて人を騙す想像上のあやかしだ。そんな妖狐が今目の前にいるってのか? 

 いや、そんなまさか。


「お前は、妖狐なのか?」


 妖狐と思しきその女は狐耳をピンと張らせて恐る恐る尋ねた僕を睨んだ。


「うん。と言ったら主は満足するのか? 最初に言ったであろう。余が何者であるかの質問はセンスがないと。同様に余が妖狐であるかどうかなど路傍の石にも満たぬ程の些事よ」


 質問に答えていない。

 恐らく妖狐である事には間違いないが、こいつは何故ここまで僕を突き放そうとする態度をとるんだ? 少しくらい会話をしてくれてもいいと思うのだが。僕は妖狐の言動に若干の苛つきを覚えたが、これを悟られないように注意して妖狐に向き直った。


「じゃあ質問を変える。本当に僕の全てを知っているのか?」


 妖狐は僕の質問を聞いて露骨にイライラし始めた。どうしても僕と会話を弾ませたくないらしく、扇子と侮蔑的な眼差しを僕に向け心底つまらなそうに答えた。


「その質問はつまらぬの。本当につまらない、くだらない。流石の余も主がここまで低俗だとは思いもしなかったぞ。主は自身の人生をどう思う? 赤の他人が全て知りたいと思う程の価値があると思うか? 主の人生に特別他人(ひと)の心を震わせるような価値があると本気でそう思うか? そんな訳ないであろう? じゃからつまらぬのじゃ。余は主の全てを知ろうと思えばいくらでも知れる。じゃがそんなのは余興にすらならぬからせぬ。それが答えじゃ」


 今までにない程の語気と強い口調に僕は息をのむ事しかできなかった。「僕の人生など知りたくない」というその言葉に心臓が貫かれたような思いを感じる。確かに僕の人生は山もなければ谷もない平凡な人生だ。

 だが、それが何だって言うんだ。僕の人生だって無価値なはずがある訳ない。つまらない人生にだって価値があるはずだ。ただ生きてるだけで充分素晴らしいじゃないか。

 僕が反論しようと口を開いたその時———


「初めて面白い事を思ったの。主、いや怜よ」


 名を呼ばれてハッとする。見ると妖狐は先程とは打って変わって嬉しそうにこちらをじっと見つめていた。


「怜よ。そんなに真に受けるでない。先程のはただの戯れにすぎぬ。別に本心ではない。何故なら、怜。主の人生は今から平凡ではなくなるからじゃ」


 妖狐は雪より白い純白の手でこっちへ来いと手招きした。少しの警戒はあったが、そのまま彼女の前へと足を運ぶ。そして、僕が目の前まで来ると彼女は扇子と弟娘(おとむすめ)をもう一人の娘に預け、僕の右手を掴みまざまざと見つめた。右手には少し前に付けられた噛み傷がある。彼女はそれをしばらく黙って見つめていた。


「余の娘達は二人ともそれぞれ特殊な力を持っておっての。余から受け継いだ妖力なのじゃが、ふぅは呪いをかけられるのじゃ」


「呪い? 何の話だ?」


「察しが悪いの。ふぅが主を噛んだじゃろ? その時呪いをかけたのじゃ。三日後に死ぬ呪いをの」


 は? 

 三日後に死ぬって? 

 僕が? 

 少女に指を噛まれたっていう死因で? 

 あまりに唐突な宣告に僕は膝から崩れ落ちる。

 今日はつくづくついてない。ついてないどころではなく、人生最悪の日だ。何が「人生が平凡でなくなる」だ。僕の人生はあと三日で終わってしまうじゃないか。 

 果てしない絶望感に嗚咽が口を衝いて出てしまう。

 妖狐はそんな僕を慰めるように肩にポンと軽く手を置き、今までで一番の優しい口調で静かに僕に語りかけた。


「何、心配するな。ここからが面白い人生の始まりなのじゃ。つまりどういう事かと言うとな。余の妖力ならお主の呪いを解く事ができるのじゃよ」


「じゃあ、早く解いてくれ!」


 僕は悲痛な叫びを妖狐に返す。この場には少女が二人いる。普段なら決して少女の前で泣き叫ぶ事などしない僕であるが、今はそんな事を考える余裕すらない。ただ、絶望感のみに頭を支配されている。

 えずいている僕を見て妖狐は「ふむ」と頷いた。


「そうしたいところなんじゃがな。事はそう単純ではないのじゃ。実は余の妖力は今非常に弱くての。娘の呪い一つ満足に解く事もできないのじゃ」


「じゃあ僕は死ぬしかないって言うのか!?」


 泣きっ面に蜂とは正にこの事か。人生最悪の日はまだ終わらないらしい。娘の呪いすら解呪ができないという言葉に僕は絶望感よりもむしろ怒りを覚え、その怒りに任せて彼女の胸ぐらをつかもうとした。しかし———


「いや、そうならない為の方法が一つだけある」


 彼女は僕の唇に人差し指をあて静止させた。そして彼女自身もまた口を噤んで静止した。何か頭を捻って考えているようだ。僕の命がかかっているんだぞ。妖狐ともあろうお方が少年の命一つすら救えないのか。僕は手に力を込めて再び怒りに任せて動こうとした。

 が、彼女は僕に止まるように言った。


「待て。そうじゃな。黙ってても仕方なかろう。よし、教えよう。主が死なない唯一の方法を」


 ゴクリと生唾を飲み込む。僕が死なないのなら何であっても構わない。

 妖狐は少々言い淀んだが、重々しく話し始めた。


「この街、神山町には余の他にもあやかしが潜んでおっての。主がする事は簡単じゃ。そいつらを斃して妖力を奪取してこい」


 おい嘘だろ。

 想定外のその発言に僕は脱力してへたり込んだ。一般中学生の僕にあやかしを斃してこいって言ったのか? 

 そんな事できる訳がない。アニメや漫画みたいな能力などないこの僕があやかしを斃す事なんて無理な話だ。彼女にもそれは分かっているはずだ。第一なぜ僕がする必要がある? この呪いをかけたのはそこの娘だ。ならそいつがするかその親の妖狐がするべきだ。


「いや主がするのじゃ」


 彼女は僕の心を文字通りに見透かして僕を窘めた。


「余はこの場から動けぬ。そして娘達だけではあやかしを斃すには不十分でな」


 娘達が斃せないあやかしを僕に倒させようっていうのか!? どう考えても理に反しているし、尚更無理に決まっている。それとも何か考えがあるとでもいうのか? 


「お前は僕がその任務を達成できると本当にそう思っているのか?」


 僕がそう尋ねると、彼女は足を組み替え僕の頭を小突いた。


「余を疑うとはいい度胸じゃの。余は全てを知る事ができるというのを忘れたのか? 主には見込みがある。あやかしを退治する見込みじゃ」



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