二章 父の墓【2】

【おもな登場人物】

《ミィラス》

聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年




 足が悪いらしい老婆の、遅々として進まぬ歩調に合わせながら、ミィラスが辿り着いたのは、掘っ立て小屋というにもおこがましい、貧相なあばら屋だった。

 柱は傾き、壁には穴。屋根はところどころ破れていた。同じような家が、周囲にいくつか見受けられる。ここは貧民街だ。埃と塵の交じった、生臭い風が吹き抜けていく。


「ニネア、ニネア……。聖典楽師様がいらっしゃったよ」


 老婆が呼ばわるほうを見ると、筵を重ねたような寝床の上に、ぐったりと力なく横たわるひとりの女がいた。

 ニネアと呼ばれたその女は、入ってきたのがまだ年若い青年だと見るや、みるみる目に涙を浮かべた。


「いやよ、あたし……どうしてこんな、母さん。余計なことを!」


 拒絶の言葉を受けたミィラスは、竪琴を抱えなおし、丁寧な一揖いちゆうを返した。そして老婆に向き直り、尋ねた。


「娘さんは、どこか患っているのですか」


 すると老婆は重くため息をつく。


「娘は、心と身体、両方を病んでしまいました。私には、どうすることもできないのです。身体を癒やすための蓄えはなく、せめて心の澱だけでも除いてやれたらと、あなた様をここへ」


 聖典楽師は、ドリード神の教えをもって、人々を正道へ導く。人が身の内に抱え込んだ煩悶や、罪の告白を聞き届けるのもまた、彼らの役目だった。

 ミィラスはニネアに向き直り、そっと近寄って寝床の側に膝をついた。ニネアはさっと顔を背ける。


「あなたが思い悩んでいることを、話してはくれませんか。心に抱くには重い患いも、私がともに抱えることはできます」


 ミィラスが声をかけても、ニネアは口を固く閉ざしたまま、しかし今にも泣きそうな気配である。

 彼女はひどく弱っていた。心と身体の疲弊が彼女から力を奪い、何かしらの罪の意識で無気力になっているのだ。

 であれば、とにかく腹を先に満たすべきか。

 ミィラスは自身が携えていた荷物の中から、いくつか食糧を取りだした。

 携行食は日持ちするが固く食べにくい。しかし煮て粥に調理しなおせば食べやすかろう。


「炉を借ります」


 それは石と廃材でできた粗末な炉だった。ミィラスはしかし頓着しなかった。

 鍋にかかった蜘蛛の巣を払い、固いパンと水筒の水、塩を入れて、火にかける。

 この炉に火が灯ることすら、随分久しぶりだったのだろう、わずかな煙の匂いに、ニネアも老婆も思わずじっと見入っていた。それがちぎってほぐしたパンを煮た粗末な料理であっても、目の前で誰かが料理をしているというのは、わびしい心のどこかに火を灯すような心地にさせた。

 くつくつと煮え、ほどよい頃合いになったので、ミィラスは鍋を火から下ろす。できあがった粥からは良い香りがたちのぼっていた。


「ドリード神の恵みに感謝を」


 ミィラスは短く祈りの言葉を唱えると、粥を器によそいで、ニネアに差し出した。ニネアはごくりと喉を鳴らした。食べたくて食べたくて仕方がないのだろう。しかし、彼女はそれでも器を手に取ることを拒んでいた。


「どうぞ私と共食きょうしょくをしていただけませんか」


 ミィラスは言う。


「食べることは、生きること。あなたが生きることを、ドリード神は望んでおいでだ」


 するとニネアは顔をゆがめて、「あたしのしたことを知れば、神であってもお許しにならないわ」と嘆いた。

 ミィラスはなおも粥を差し出し、「さあ、冷めないうちに」と言う。


「ドリード神はきっとすでにご存知でしょう。しかし、それでなお、私をここに遣わしたのです。これはあなたが食べてもよいものだ」


 ニネアは窺うようにミィラスを見た。孔雀色の瞳が炉の炎に照らされて、翠玉のようにきらめいている。そこには同情や哀れみといった、受ける者を惨めにさせる感情は浮かんでいない。彼はただひたすらに神の信徒であって、共に食卓を囲おうと、こうして粥を差し出しているのだ。

 おずおずとニネアは器を受け取る。温かな粥をそっと匙で口に運ぶと、じゅわっと塩味が舌を刺激した。気づけばニネアは貪るように粥をすすっていた。

 ミィラスは老婆にも粥を渡し、自らも少しだけ口にした。


「……あたし、赤ん坊を」


 ニネアが口を開いた。


「産んですぐに、お乳が出なくなって……どうしようって思ったら、もうどうにもできなくて……」


 ニネアはぽろぽろと落涙しながら、我が子を町なかに置き去りにしてきてしまったと語った。生んだばかりの赤ん坊の世話を、慣れないなりに頑張っていたものの、全くうまくいかなかったのだと。乳が出ない。この貧民街ではもらい乳をするのも難しい。腹を空かして泣き止まない赤ん坊は可哀想だが、つい耳を塞ぎたくなった。ニネアだって腹は減っていて、ゆっくり眠ることもできないし、赤ん坊の泣き声に責められているようで苛々した。もう自分には育てられない。ならばいっそ、親切な誰かがこの子を見つけてくれないだろうかと。


 一度そう思ってしまうと、他の選択肢などあり得ないような気がした。

 昨晩、彼女は行動に移した。日中は人通りの多い中央広場がうってつけの場所に思えた。ニネアはそこに赤ん坊を置いて、逃げるように立ち去った。もとより望まぬ妊娠だった。その日の食事すら事欠くニネアにとって、子は重荷だったのだ。十月十日、腹の中で育てただけでも褒められたいものだとさえ思った。

 しばらくして、赤ん坊を置いてきた広場の方角から野良犬の声がした。


 ニネアの歪んだ顔は、しなびた果実のようだった。


「……あたし、急いで子のもとに戻ったの。そうしたら大きな犬が二匹いて……私の子はいなくなっていて、犬の口に、血、血が」


 ニネアの身体がぐらりと傾く。ミィラスはとっさに腕を出して彼女を受け止めた。

 背後で老婆が「貧しい身とはいえ、罪のない赤子です」と泣いている。ニネアはミィラスの腕にすがりながら、嗚咽とも呻きともつかない声を漏らした。

 ミィラスはしばし沈黙したまま、ニネアの身体を支えていた。やがてそっと息をつくと、「少し待っていてください」と言い置いて、あばら屋を出る。


 ミィラスは中央広場に向かった。昼は行き交う人々で賑わうのだろうが、今はしんと静まりかえっている。

 ミィラスは腰をかがめながら、注意深く地面を観察した。どこかに赤ん坊の痕跡がないか。

 それらしいものは見つからず、徒労に思えた。しかし逆に、赤ん坊の血の痕がないことに、かすかな望みが残っていた。

 ミィラスは近所の家の扉を叩いた。家主の不機嫌な声が答え、戸口が細く開く。


「夜分に申し訳ありません」


 頭を下げるミィラスの身なりから、彼が聖典楽師であると見て取った家主は、驚きながら態度を和らげ、用向きはなにかと尋ねた。


「赤子を探しています」


 ミィラスがわけを話すと、家主は首を振る。たしかに昨晩は野良犬がうるさかった。そこに赤ん坊が一人でいたなら、もはや生きてはおるまいと。

 ミィラスは、次の家でも同じように尋ねた。その次の家、また次の家でも。


「その赤ん坊なら、うちのひとが……」


 その言葉が聞けたのは、ミィラスが戸を叩いた最後の家であった。

 その家のおかみはミィラスの風体をじっと見たあと、「さあ、どうぞ中に」と招き入れる。さきほどから何者かが、近所の家々の戸を叩いて回っていることに気づいてはいたのだが、まさかそれが聖典楽師であるとは思いもよらなかった。しかもまだ若い、大人しそうな青年だ。

 室内は暖かかった。ミィラスがほっと息をついていると、部屋の奥から男が出てくる。腕に何かを抱えていた。


「あんた」


 おかみが夫に向かって言う。


「ああ、聞こえていたさ」


 男は、腕に抱えているものをミィラスに見せた。布にくるまれて、すやすやと眠っている赤ん坊だ。


「野良犬が今にも襲いかかりそうなところに、偶然通りかかりましてね。互いに赤ん坊を狙って喧嘩していたようで。近くに親らしい姿もなし。昨日のことです。俺はとっさに拾い上げて……」


 そう語る男の腕には、犬に噛まれた痕があった。


「それで、どうして聖典楽師様が、この赤ん坊を探していなさったので?」


 尋ねられ、ミィラスは答えに窮した。その赤ん坊を捨てた母のために探していたのだとは言えなかった。


「……とある不幸により、母子がはぐれてしまったのです」


 それだけをやっと言った。

 善良そうな夫婦は顔を見合わせた。そして、ミィラスに言った。


「わたしら、この子を自分らの子として育てようかと相談していたところでして」

「連れ添って長いですが、子どもができませんでしたから……」


 ミィラスは、彼らがしっかりと赤ん坊を抱きかかえているのを見て、瞳を揺らした。彼らなら、きっと健やかにこの赤ん坊を育ててくれるだろう。家の中を見渡せば、物はきちんと整頓され、掃除も行き届いている。暮らしぶりは悪くない。

 あのあばら屋に戻り、ニネアに言うのだ。あなたの赤ん坊は、見ず知らずの親切な夫婦が養育することになった、と。

 だが、気がつけばミィラスは頭を下げていた。


「その子を、母親のもとに返したいのです」


 彼は己の罪深さに、心の内でおののいていた。赤ん坊を育てるのに、ニネアと、この夫婦のどちらが相応であるかなど、考えるまでもない。それでもミィラスは、ニネアのもとに赤ん坊を戻してやりたかった。野良犬から子を救わんと駆け戻った彼女を、罪の意識に泣いていた良心を、信じたかったのだ。


 夫婦は青ざめたミィラスの表情になにかを感じたのか、不安そうに顔を寄せた。だが、彼が必死の様子であることを見て取ったのだろう。しばらく悩んではいたものの、「分かりました」と頷いた。


「あなた様を信じましょう」


 赤子を抱き取り、ミィラスは夫婦に言った。


「あなた方の善なる行いを、天上よりドリード神は見ておいででしょう」


 その家を出るとき、彼は「ドリード神の祝福がありますように」と頭を下げた。

 ミィラスは赤子を抱いて、貧民街へと戻る道を歩き始める。腕の中の小さくて温かな存在が、これほど頼りない生き物に思えたことはない。赤子は生まれる場所を選ぶことなどできないし、守ってくれる腕がなければ簡単に死んでしまう。


 あばら屋へ戻ったとき、月はすでに空の反対側へ傾いていた。

 ニネアは膝を抱いてうつらうつらしながら待っていたが、ミィラスが戻ってきた物音で顔をあげた。


「あっ!」


 ニネアは、彼が抱いている赤ん坊に気がつくと、目を大きく見開く。まろぶように駆け寄ると、赤ん坊の顔をのぞき込んだ。

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