二章 父の墓【1】

【おもな登場人物】

《ミィラス》

聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年




 師からの手紙には、地図が同封されていた。その紙片を、ミィラスはとくと眺める。王都の郊外にある集合墓地の中においては、一等地に数えられる区画に、父が葬られていることが分かった。

 念入りな旅支度をし、サムシィを含めた数人の親しい神職にしばしの別れを告げ、ミィラスは大聖堂の外に出た。

 道を行く人々は、旅装の聖典楽師をみとめると、ある者は頭を下げ、ある者は「どうぞご安全に」と声を掛ける。ミィラスは彼らに祝福の仕草を返すと、顔を前に向けた。


 ミィラスは早足で街を抜けたが、墓地に辿り着いたのは日が暮れた後だった。夜の墓場はしんと静まりかえっており、誰もいない。このような時間に詣でようとする者がいれば、それは人目を避けねばならぬ事情を抱えているものと決まっている。

 ミィラスも、ある意味においては、昼でなく夜のほうが、墓参りをするには都合が良かった。昼間はそれなりに人も多く、ミィラスが教団に入ったいきさつを知る者と出会う可能性があるからだ。


 手元で揺れる行灯ランプの光に、ぼんやりと照らされている墓石には、父の顔が彫られている。同じように区画内に存在する数多くの墓には、それぞれ埋葬者の顔があり、それらが整然と居並ぶさまはさながら死者の回廊であった。彼らは色のない瞳でぼんやりとミィラスを見つめ、ミィラスは哀悼の意でもって彼らを見つめ返した。


 父の墓石に向き直る。

 規律によって制限されていた少年時代は勿論、聖典楽師となってからも、父に会うことは叶わなかった。年月を経てやっとまみえたその顔が、墓石に彫られた彫刻だとは。

 ミィラスは墓の前に跪き、立てた膝の上に竪琴を置いた。指をそっと弦に沿わせ、ゆっくりと〝聖典の詩〟のひとつ、〝弔いの詩〟を奏ではじめる。


 もし、墓地の近くを通る者がいたならば、夜闇の奥から、清らかな旋律と、かすかな歌声を聞くことができただろう。だが周囲は無人だった。ミィラスの指が奏で、唇が吟ずる、静かな〝弔いの詩〟は、誰に気づかれることもなく、地面に、木立に、風の中に吸い込まれていった。

 ミィラスはふと、宙に視線を向けた。なにかが視界の端をよぎったのだ。首を左右に巡らせ、やがて自身のすぐそばに謎の淡い光が浮かんでいるのに気がつく。


「蛍……? まさか」


 今は蛍の時期ではない。ミィラスは目をしばたいた。いったい何が発光しているのだろう。彼はしばらくその光を観察していたが、光源らしきものはどこにもなかった。浮かんでいるのは光そのもののようだった。

 唐突に、それが父の魂なのだとミィラスは悟った。光は呼吸をするように明滅しながら、ミィラスの目の前で、すうっと天に昇っていく。


「父さん!」


 ミィラスは追いかけるように立ち上がり、そう口に出していた。しかし光は留まることなく、そのまま星のひとつとなって夜空に溶け込んだ。

 ミィラスの〝弔いの詩〟が、この世に留まっていた父の霊魂を呼び出し、慰めて天に送ったのだった。彼の奏でる音楽には、そして〝力ある言葉〟には、それだけの魔力が秘められていた。彼はそのことにまったく無自覚だった。


 ミィラスはしばし呆然としていた。大聖堂でいくら修行をしても、このような事象に出会ったことがなかった。外で活動している他の聖典楽師たちは、みな経験していることなのだろうか? 地方に派遣されていたサムシィは知っているのだろうか。死せる者の魂が、〝聖典の詩〟に応えてくれることを。


 ミィラスは、己の鼓動が落ち着くのを待った。父は待っていてくれたのかもしれない。ミィラスが一人前の聖典楽師となり、墓に詣でることを。

 もしそうだとしたら――であるとしても、ミィラスはそれが混じりけなしの愛情によるものだとは思わなかった。


 懐で、師からの手紙がカサリと音をたてた。教団に預けられることが決まった日のことを思い出し、ミィラスは竪琴を抱える腕に力を込める。

 

しばらくそうして立ち尽くしていた。

 ミィラスは、己の修行がいまだ途上に過ぎないことを実感していた。彼は教団に入ったことを後悔していない。しかし、少年だった彼の、むき出しだった魂に刺さった小さな棘は、依然として残っていた。


「もう気にしてない」


 ミィラスは呟いた。彼は本当にもう気にしていなかった。棘があったとして、問題にはならない。問題にしない。

 ならばどうして、心がざわめくのか?


「過去が汝を定めることはない。汝の足が向かう先にて決めること、だ」


 ミィラスは〝聖典の詩〟の一節を呟くと、そっと踵を返した。

 墓地を出るときに、ふわりと甘い香りが漂ってきた。暗闇のなか目を凝らすと、墓地の入り口に、ミランの樹が生えていることに気がついた。香りはその枝々に実る小ぶりな果実からである。

 鳥たちがついばんだ痕があったが、食べると美しさを保つといわれるミランの実がこのように放置されているのは、ここが墓地であればこそ。野や畑に生えていたなら、娘たちがこぞって摘み取ったはずだ。

 ミィラスは、あのはきはきとした踊り子のことを思い出し、口元をやや緩めたのだった。



 墓地から町に降りたミィラスが宿屋の扉を叩こうとすると、背後からしわがれた声を掛けられた。


「もし。そのお姿は、聖典楽師様でいらっしゃいますか」


 振り返ると、ひとりの小柄な老婆が、ミィラスを――彼が抱える竪琴をじっと見上げていた。


「ええ」


 ミィラスはうなずき、老婆に向き直った。街なかで声をかけられるのは、聖典楽師には珍しいことではなかった。

 老婆は深いしわの刻まれた顔に安堵の色を浮かべ、「ああ」と言った。


「どうか、私どもに教えを説いてください。このままでは、罪の意識にさいなまれて死んでしまいそうです」


「いったいどうしたのですか」


 ミィラスは目を見開き、しかし落ち着いた声で問うた。


「私どもの家においでください、どうか、どうか」


 老婆がしきりに乞うので、ミィラスは困惑しながらも、「ええ、行きましょう」と了承した。

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