第4話 銭湯帰りの美丈夫
「誰だ!」
紀生と師匠は店の入り口に立つ男を見て、異口同音を叫ぶ。
「ええと、朔だけど」
見慣れぬ美丈夫が困ったように眉をハの字にした。
あれから干し芋を食べきった朔は、紀生が渡した銭で銭湯に行っていたのだ。床屋も寄ってこいと言ったら面倒くさいと文句を垂れたが、銭湯代を取り上げようとしたら素直に寄ってくると言った。
そして帰ってきた朔は、見違えるほど身綺麗になっていた。
土埃でくすんでいた肌は白くなっていたし、前髪は目元が見える長さに切られ後ろ髪は一つに結って束が肩に垂れている。
髪を整えたことで、初めて朔がこんな顔だったのだと知った。
すっきりとした輪郭の中に収まる薄い唇、その上には形の整った高めの鼻、眠たげな目すら逆に彼の魅力かもしれないと思わせる。
血だまりで倒れていたぼろ雑巾のような男と同一人物かと疑ってしまうほど、朔の容姿は凜としたものだった。
「何人も声かけられて疲れた」
朔がずいっと右手を差し出してくる。口を開くとやはり気の抜けた印象だなと思いつつ、朔の手を見る。
「なんだこれ」
朔の手には、小さな紙が数枚握られていた。どうやら名刺のようだ。
紀生が受け取って、握りつぶされていたのを伸ばすと、横浜で人気のカフェーの名刺だった。もう一枚伸ばすと別のカフェー、もう一枚は洋装店だ。
「いらないって言ってるのに、絶対来てって押しつけてきた。ああいう圧の強い女の人は疲れるから嫌だ」
朔はさきほどと同じ場所に座り、卓上にべたりと上半身を投げ出している。
「そ、そうか」
皺の寄った名刺を眺めて、紀生は驚愕していた。銭湯からこの店に帰ってくる道のりだけで、少なくとも三人の娘から秋波を送られている。
確かに身綺麗になった朔は眉目秀麗であると紀生も思うが、ここまで顕著に女性の目を引くとはすごいのではないだろうか。
「ねぇ紀生。俺眠くなっちゃった。もう寝ていい?」
「こら、そんなところで寝るな。奥で布団敷いてやるから待ってろ。おい、寝るなよ」
「ういー」
気の抜けた返事を聞きながら、客用の布団を探す。いくら見目が良くなろうとも、やはり中身は手の掛かる子どものような奴だ。名刺を渡した娘達だって、こんな姿を見ればあっというまに恋の熱も冷めるに違いない。
出会った初日からこのような調子で、朔はとにかく怠惰な生活を望んだ。いつでも寝ようとするし、何事においてもやる気はない。さすが生きるのが面倒になったから死ぬと言うだけはある。
食事も腹がふくれればそれでいいといった様子で、紀生が奮発して豪勢に作っても手を抜いても同じ反応だ。
紀生も本来であればこんな甘ったれな青年の相手など、腹立たしいだけだと思う。けれど、彼との約束が紀生の心を動かす。手間がどれだけ掛かっても、面倒くさければ面倒くさいほど妙に救われた。きっと罪悪感が軽くなるからなのだろう。
もっとも、誤魔化しているだけだと内心では分かっていた。紀生の身勝手な願望で、朔の命を取ることに変わりはないのだから。
***
紀生の朝は早い。
変死体を探していた頃はさらに早かったけれど、今でも五時前には起きている。手早く縞の小袖に着替え身支度を済ませると、離れへと向かう。
紀生は実家である藤里家の屋敷に住んでおり、日中にまじない屋へ入り浸っている。父が藤里商事という会社を立ち上げて貿易で財を成した家のため、屋敷も広く、使用人達も多い。
だけれど、離れには食事を運んでくる以外、使用人も極力姿を現さないのだ。だから、紀生は身の回りのことで困っていることはないか、かの人に確認しに行くのが日課だった。
「おはようございます、お母様」
膝を付き、板張りの廊下から声をかける。廊下が少し埃っぽい。今日は早めに帰宅して雑巾掛けをしようと頭の片隅に記憶しつつ、返答を待った。
「おはようございます、紀生さん」
中から声がした。今日も変わりない声にほっとしつつ襖(ふすま)を引くと、母が起き上がっている。紀生を見つめる瞳は、暖かな光を宿していた。
大丈夫、今日も母は自分を娘だと判別した。まだ、希望はある。
紀生の母はこの離れに隔離されていた。離れは和風の造りで、壁際に箪笥や鏡台、文机など必要最低限の家具が設置されている。嫁入りの際に父が用意した物なので、どの家具も一級品だ。
母は華族の娘だが、家名はあれども経済的には没落していたのだという。そこに、生糸輸出で成り上がった父は目を付けた。上流階級からは生糸成金と蔑まれていたため、結婚によって家柄に箔をつけたかったのだ。
母の実家への経済援助と引き換えに、母を妻に迎えた。つまり、お互いに利害が一致した政略結婚というわけだ。
「お母様、お体に触りはありませんか」
「大丈夫ですよ。紀生は毎日心配してくれるけれど、わたくしは元気ですからね。今日はお庭にお花の球根を植えようと思っているの。旦那様がお手紙と共に贈ってくださったのよ」
楽しそうに今日の予定を話す母は、痩せて顔色はあまり良くないけれど、口調ははっきりとしている。着替えだって、化粧だって、食事だって、お風呂に入るのだって一人で出来る。空いている時間には本を読むし、刺繍をしたりもするし、庭の散歩や花壇の手入れもする。
それでも、やはり母はこの離れにいなくてはならないのだ。
「どんな花が咲くのですか?」
父と母は不思議な関係だと紀生は思う。
政略と割り切った婚姻のはずだが、仲が冷め切っている様子は昔からなかった。かといって、慕う情があるようにも見えなかったが。
適切な言葉を探すのが難しいが、お互いを尊重しているというのが一番近いかもしれない。
だから、こうして長期間留守にする際には、手紙もまめに届いているし、母もそれを楽しみにしている。
「ダリヤという名前で、とても艶やかな花を咲かせるそうよ」
母は少女のような笑みを浮かべていた。父が外国の珍しいものを送ってくれるので、離れで過ごしていても暇を持て余すことなく過ごせているのだ。
「花が咲く頃にはお父様も欧羅巴から帰られるでしょうし、私も一緒にお世話しますね」
「まぁ、ありがとう。綺麗に咲いたら栄子さんにもお裾分けしましょう」
「そ、そうですね。喜んでくれると……良いのですが」
紀生は最後のほう、誤魔化すように小声になる。
実は、栄子とは父の妾なのだ。通常であれば、正妻である母にとって、面白くない存在のはず。だけれど、母はまったく気にしない。恐らく、本当に母にとっての父は、恋慕の絡まない生き抜くための共闘相手なのだろう。
そのため栄子がどれだけ煽るような言動をしても、全く意に介さない。今日も元気ねと微笑んでいたくらいだ。
当然、栄子にとって屈辱的なことだろう。こうして母を離れに追いやっているのも、それが理由の一つだ。
つまり母の咲かせた花を栄子が喜ぶはずはないのだ。けれど、機嫌が良さそうな母の笑みを消すのは忍びなく、紀生は曖昧に相づちを返すにとどめた。
母の様子を見た後、紀生はまじない屋へ向かうため母屋へと戻る。自室で着替えて、男装しなければならないからだ。その戻り際、廊下の曲がり角で人の気配がした。
「あら、最近姿を見かけないと思っていたけれど、まだこの家にいたのねぇ」
遭遇してしまったのは、一番会いたくない栄子だった。目覚めたばかりなのか、まだ寝間着に半纏を羽織った姿だが、嫌味は起き抜けでもすらすら出てくるらしい。
「おはようございます」
紀生は視線を合わせないように挨拶をした。嫌味に都度突っかかっていては時間ばかり無駄に過ぎる。そのため栄子と対峙するときは、極力口をつぐむようにしているのだ。
「……本当に、似た親子だこと。私に対する態度がいちいち癇にさわるわ」
栄子は目元がすこしきつめの印象だが、華やかな美しさを持つ女性だ。だが、さすがに寝起きなのでその魅力も半減している。
早く絡むのに飽きてくれないかなと黙っていると、栄子があからさまな嘲笑を浮かべた。
「でもまぁ、本当に似た親子よね。母はあれだし、娘も傷物だもの。あなた、あんな大きな傷跡があったら、良い嫁ぎ先など見つからないわよ。女としてまったくの役立たず。金持ち爺様の後添えくらいなら大丈夫かもしれないけどねぇ。旦那様が帰国したらさっそくお勧めしてみようかしら」
紀生を不快にさせたいというだけの、中身のない話が続く。無意味な時間だ。
「ご用がなければ、もうよろしいですか?」
早くまじない屋に向かいたくて、無理やり終わらせようとしたのがいけなかった。紀生の態度に苛ついたのか、栄子が話題の矛先を変えたのだ。
「あの女、先日もやらかしたらしいわね。もう藤里家の妻として表に立てない役立たずなのだから、さっさと妻の座を私に譲ってほしいものだわ」
紀生はぐっと歯を食いしばる。ここで感情のままに喚いても、栄子を愉しませるだけだ。そうは分かっていても、母を嘲笑する栄子が腹立たしくてたまらない。
母は正妻で紀生と紀一郎という双子を産んだ。だが、跡取りに望まれていた紀一郎は亡くなってしまった。
その後、新たに子宝を授かる兆しはなかったため、跡継ぎを心配した親戚一同の圧により、父は妾を持った。それが栄子で、彼女は相次いで男子と女子を産んだ。つまり、今、藤里家の跡取りは栄子の産んだ男子なのだ。
弟や妹は可愛い。だけれど、栄子はどうしても苦手だった。母を見下し、馬鹿にするだけではない。母が嫁入りしたことで得た上流階級との縁が、どれほど藤里家を潤したのかすら理解していない。
今でこそ引きこもって生活しているが、紀一郎が生きている時は父と一緒に夜会に出たり、妻達の茶会に出たりして立派に勤め上げていたというのに。
紀生はゆっくりと息を吐く。過去のことをあれこれ言っても無駄だ。今のことを持ち出されれば反論出来ないのは事実なのだから。
「すべてはお父様がお決めになることです。では、私はこれで失礼いたします」
まだ栄子は何か言いたげにしていたが、構うことなくその場を離れた。
自室の障子を閉めると、畳の上にうずくまる。朝からとても疲れた。このままもう一度眠りについてしまいたい、そう思ったところで朔が寝汚く布団にかじりついていた様子が脳裏に浮かぶ。
「これじゃ朔と同じだ」
両手で頬をぴしゃりと挟み、その刺激で頭の中を切り替える。
紀生は立ち上がり小袖を脱ぎ、胸にさらしを巻く。そしてパオを着て、下は黒いズボンをはいた。鏡台の前に正座すると、櫛で髪をとかし、後頭部で一束に結ぶ。くるりと髪を団子状にすると布で覆い、紐でくくった。これでまじない屋の助手の姿に早変わりだ。
支度を済ませると朝の六時半、部屋の外では使用人たちが朝の支度をしている。朝食の支度にかかりっきりになっているので、裏門の方には人の気配はなかった。
紀生は一応、姿を見られないように注意しながらも、裏門からするりと道に出る。
そこから歩いてまじない屋まで行くのだ。
横浜の街は栄えているが、意外と範囲は狭い。小さな地域に多くの人、建物が集まって街を形成していた。面白い街だと思う。帝都にも劣らぬ発展をしていて、外国の息吹を身近に感じる。
紀生はもう女学校を卒業したが、入りたてのころに帝都へ遠足に行ったことがある。横浜と似たような街並みはあったけれど、歩いている人達が違った。日本人しかいなかったことに違和感を覚えたのだ。
でも、先生にそれを言うと、逆だと苦笑いをされたけれど。外国人があちらこちらを歩いている横浜の方が珍しいのだと。
早歩きをすると屋敷から二十分くらいでまじない屋につく。そこから助手としての一日が始まるのだ。
まじない屋の小さな台所でご飯を炊き、味噌汁を作る。漬け物を添えて朝餉の完成だ。師匠を起こし、そのまま物置に向かう。物置の中を整理して、布団が敷ける程度の床を確保し、朔に使ってもらっているのだ。
朔のことを思い浮かべ、紀生はなんとも言えない表情を浮かべる。
普段は寝てばかり。でも一度だけ、のそりと立ち上がり紀生のあとを無言で着いてきたことがあった。あれはなんだったのだろうか。
彼の行動はどうにも掴めない、まるできまぐれな猫のようだった。
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