蟻
静谷 早耶
本文
四畳半におけるあまり取り立たされない部分の話をしたい。
丁度一月か二月ほど前に、もよう替えの際に椅子を運んできて開けた
わたしの部屋は上階にある。下の部屋ではなく、この部屋に蟻が居るというのは不可解だ。いや、既に下の住民もこれに悩んでいるのかもしれないが、まったく、蟻とは。若干古いのは否めないとはいえ整理整頓されているわたしの部屋に蟻が出て来ると不吉だと感じる。わたしは煙草を
よし、少し待ってみよう。こう思ったのは、何も面倒だったのでも、生命を殺す躊躇が働いたのでもない。つまり、ろくに食べ物もない場所で蟻が、どう動くかが気になったからである。
蟻の行進を確かめやすいように机やら座布団やらをどかして、端っこで本を読みながら時々観察した。するとそれらは早々と――食物は台所に在るから――諦めて元の孔に戻ってしまった。わたしはつまらなく思い、数匹残った蟻を手で潰した後、手を洗って眠ってしまった。
その夜は妙に寝苦しかったのを覚えている。
膀胱の訴えから何度も起き、その度に断片的な夢を見た。わたしは蟻を殺していた。潰せるだけ潰していた。こうもむやみやたらに殺していると、蟻でも可哀想なのでやめたくなっても、やめられない。手は必ず蟻を潰す形をとり、それに伴って蟻は黒い点となりつぶれて死ぬ。
蟻とは蜂の仲間なので針を持っている種もある。しかし家の周囲に出る蟻は針を持たない。持ってもいても中々刺してこない。つまり、本当に黒い点と同義なのだ。何の抵抗もなく殺せてしまう。段々とわたしは命を殺している気持ちが薄れていって、遂には何も感じなくなってしまった。
朝、目が覚めて起きるとやはり蟻はあの孔からぞろぞろと出てきていた。現実であっても、それはただの黒い点にしか見えず、わたしは新聞紙を行列にかぶせて上から踏んで殺した。
気分が悪かったので近くの薬局で薬でも買ってこようと外へ出たら、大家のはげ頭が階段越しに右往左往しているのが見えた。降りてみると、どうやら木の葉を竹箒で掃いているらしい。わたしは挨拶をすると、蟻の話をした。
「二階の者なんですがね、部屋に蟻が出るんですよ。いくらでも出てくるんですよ。どうしたらいいでしょう」なるべく慎ましげに話したつもりだったが、少しも大家の罪悪感を刺激しなかったようで、「どこの部屋も同じですよ」と答えた。
「同じったって、じゃあどこの部屋が出ないんですか。ええ、まさか全部の部屋ってことはないでしょう」
「全部の部屋に出ますよ」
大家はこけしのようにスンと突っ立って、箒で木の葉を掃き続けた。
「しかし、それじゃ、いくら潰したって無駄なんですよ。殺虫剤でも買って庭に撒きましょうか」
すると、それにピクリと反応して大家は手を止めて、こちらに向き直った。じっくり二度ほど言葉を噛み締めた後にこう言った。
「殺すんですか。何にもしてないのに、蟻をあなたの都合で殺すつもりですか」
わたしは普段の仏壇じみた顔を苦々しくしている大家にびっくりして黙ってしまった。しかしすぐになぜわたしが蟻如きに我慢せねばならんのだと思い直し、さらに厭味ったらしく言った。
「さあ、何にもしてないってことはないと思いますよ。大体、わたしの部屋に出てきて、わたしの邪魔をしているんですからね。他の人はどうですか、文句を言いに来なかったですか」
「来ましたよ。でもあなたみたいに蟻を殺す人は居ませんでしたね」
そんなわけが無い。蟻を殺さぬ人間など居ない。
「じゃあ嘘をついているんですね。蟻なんて誰でも殺しますよ。大体、あんなものは虫の中でも下の下に入るでしょう。殺すも殺さぬも自由にさせてもらいますよ」
そう言って、その場を後にした。しばらく歩いて振り返ると、大家は箒で掃くのをやめて壁に凭れかかっていた。
薬局で頭痛薬と整腸剤を買ってくると、門の間に何かが積み重なり置いてあった。そこには透明な液体を入れたペットボトルとメモ代わりにしたチラシの裏に、巣は銀杏の木下である、と。
この液体はおそらく、殺虫剤か薄めた洗剤だろう。なんだかんだ言いつつ、大家も増えすぎた蟻の処置を任せたかったのだ。言われた通り庭にある銀杏の木まで歩いた。これも育ちすぎている。あの大家は命を奪うのが嫌なのだ。だから、この木も、蟻も殺せずにいる。わたしはそれに対し躊躇はなかった。どうせ、世に無数にある一部なのだ。
根っこの周りに穴凹が数個あり、そこに液を流し込んだ。蟻を殺す感覚はなく、とくとく流れる水音だけ耳に届いた。
部屋に戻って、薬を飲んですぐに寝た。眠れなかったが、もう疲れてしまって何もやる気が起きなかった。
目を瞑ると溺死する蟻の映像が浮かぶ。巣に大きな空間はないだろうから、天井の土と流れる液に圧されて泥や仲間の血に汚れながら、ぷかぷか浮いたり沈んだりして、考えることも、たとえあったとしても――女王のことや仲間のこと、自分は二の次で、いずれ死んでゆく蟻たち。
あれを思うと、潜んでいた罪悪の感触が体中に響く。無かった筈の殺しへの後悔が広がる…あの孔のように―――孔は昏く、光を吸い、
すると、孔の中の影がもぞもぞと、伸びるように形が変わった。と、いうよりそれはまるで――こちらに手を伸ばしているようなものだった。薄暗い光に照らされてより鮮明になった影は、その身を床の溝に這わせながら向かってくる。
それは蟻だった。わたしはその瞬間、動きたくても動けなかった。段々とこちらへ近づいてくる蟻の行進を踏み潰したくても踏み潰せなかった。蟻たちは驚くほどの速度で走った。意志を持っていると感じた。
わたしはもはやそれらを生き物とは思えず、幽霊を見ている気分で、恐れた。金縛りにあったわたしは必死に首を動かしてそれを見まいとした。しかしそれは無駄なあがきで、やがて蟻たちはわたしの肩に触れ、首筋を伝い、耳もとに乗り奥へ進んだ。
やがて黒い幽霊は
揺れていた。どこが揺れているかは判らないが、とにかく全体が揺れ渡った。全身が震えていて、そこでようやく自分は地震の揺れで震えているのだと気づいた。警報が鳴り響き、その音で目が覚めた。外へ出たら、大家が手招きしておりわたしは下に降りた。
かなり強い揺れで、しばらく振動が続いた後、目の前のアパートが崩れ始めた。古い建物だったので違和感は感じなかったが、大家は歯を食いしばり、それを見ていた。揺れが収まっても、アパートは崩壊を止めず、やがて窓が割れドアが破れ、鉄の階段もぐしゃりと折れ曲がり、潰れた。
わたしは深呼吸して落ち着きを取り戻した後、先ほどの蟻は全て夢だったのだと思った。しかし耳は何故か痒かった。
手は汗で濡れていた。
アパートを引っ越した後、わたしは小さな一軒家を借りた。狭いが、蟻に悩まされる心配はない、新しい家にした。
ゴキブリなどは時々出たが、蟻とは比べられない。あれほどの恐怖はあるものか。たかが一匹や二匹など殺してしまえばしばらくは見なくて済む。
しかし、最近は
あれからわたしは蟻のような小さな命でも、殺すのに躊躇を要するようになった。躊躇をする際に思い出すのはもちろんあの事なのであるが、しかし今となってみれば、あれも蟻がわたしに対して仕組んだことではないかと勘ぐってしまうのである。
やはりわたしは殺すが、殺す蟻があの時の蟻であると信じながら殺すのである。
蟻 静谷 早耶 @Sizutani38
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