第13話 現実の痛み

 いつもの場所、いつもの時間――、いつもの行為、いつもの労働――。


 僕は新聞を配る。


 胸に痛み。


 また胸に痛みが走る。


 最近、胸に痛みが出る。


 今まで感じたことのない痛み――。



 ブッダ

 教えを知らないものが苦痛を感じると

 嘆き悲しんで動揺します

 肉体と精神、両方が傷ついてしまうのです

 しかし教えを会得したものが苦痛を感じても

 嘆き悲しみ動揺することはありません

 肉体は傷ついても

 精神は損なわれないのです


                   相応部三六ー六



「ここ」

 老医師はレントゲンを指さす。それは突然だった。

「この黒いとこ、これ壊れているから、肺ののう胞が壊れているから」

「えっ、あの・・」

 何の心の準備もない。それは完全な不意打ち。

「血管が通ってないから、ここ、血管が死んでるから」

「あの・・」

「もう治らないよ」

 老医師は、どうだと言わんばかりに言う。まるで親に自分の特技を褒めてもらいたくて得意になっている子どもみたいに。

「将来酸素吸入器ね」

 金子クリニック医院長、金子正孝は、へらへら笑いながら言った。

「余計なこと言っちゃったかな?」

 そして、またへらへらと笑う。

「あの・・、あの・・」

 恐ろしいほどに狼狽する私。

「よくある病気なのでしょ?」

「ないね」

 容赦ない言葉。

「でもあの・・」

「ダメだね」

 容赦のない言葉。

「治らないね」

「ここ壊れてるから」

「将来酸素吸入器ね」

 絶望的な言葉。が、続く――。

「・・・」

 目の前が真っ暗くなっていく――。


「将来酸素吸入器ね・・」

「もう治らないから」

「肺、ここ壊れてるから」

 その言葉が頭の中でグルグルと回る。


「・・・」

 それからどうやって帰ったろうか――。まったく記憶がなかった。

 


 ヴァジラー尼

 「自己」とは単なる要素の集合であり

 この世界には実在していない

 様々な部品の集まりが

 「車」という名前を得るように

 今ここにある要素の集合が

 仮初めに「自己」と呼ばれているのだ


              相応部五ー一〇



 この体は不可逆的な破壊の中で生きている。


 生命はなんて残酷な奇跡。 



 つねによく気をつけ

 自我に固執する見解を打ち破り

 世界は空であると認識しなさい。

 そうすれば死を乗り超えることができるだろう。

 このように世界を観る人を

 死の王は捉えることがない。


                 スッタニパータ


 

 世界がグラグラと揺れていた。足元から、ガラガラと世界が崩れていく――。

 


 ブッダ:

 わたしの教えを知らない人々でも、

 肉体にはうんざりして

 自由になりたいと思うこともあります。

 いずれ体が衰えることは

 彼らにもわかりますから。

 しかし精神に関しては

「これは私のものだ、私だ、私の本質だ」

 と思い込み、

 いつまでも執着し続けてしまうのです。


                     相応部十二ー六一

 


『治らないね』

『ここ壊れてるから』

『将来酸素吸入器ね』

 医師の言葉が私を呪う。

 呪われた体。


 もう戻らない体、絶望が私を襲う。


 死・・。

 


《ガザでの死者が、五万五千人を越えたという報道が・・》



 ――通知――

 また、ポストから新聞がはみ出ていたそうです。新聞をポストの奥までしっかり入れてくださいとのことです。新聞とるのをやめるぞと、大変怒っておいでです。気をつけてください。

「・・・」

 また広瀬からだ。



 人間という存在の最大の理不尽は死ぬということだ。誰もそこからは逃げられない。


 みんな死ぬ。いずれみんな死ぬ。そのことを忘れた文明はいずれ滅びる。



 人が「これはわがものである」と考える物――

 それは

 その人の死によって失われる。

 わたしの教えに従う者は

 賢明にこのことわりを知って

 わがものという観念に

 屈してはならない。


                スッタニパータ



「俺は狂ってない。狂ってなんかいない」


「・・・」

 死刑宣告を受けても、日常は続く。


 僕は今日も新聞を配る。


 意味――


 価値――


 元々そんなもののない世界。


 しかし、それが、死の前でさらに虚しいものへと変わっていく。

 死の前ではすべてが虚しい。死の前ではありとあらゆるものがすべて、その意味と価値を失う。


「クソッ」

 また、毎日新聞の数が間違っている。

「数が足りない。」

 事務所まで取りに戻らなければならない。十五分のロス。

 新聞配達は時給ではなく、出来高制。もちろんよけいな金は出ない。

 

「何でこうなんだ。何でこうなんだ」


 怒り、怒り、怒り――。

 

 新聞を叩きつける。


「死ね。すべての人間は死ね」

 僕は叫ぶ。


 そこには虚しさしかない。それが分かっていて、なお、僕は叫ばざる負えない。


「僕は狂ってなんかいない。狂ってなんかいない」


 僕は正常だ・・。


「・・・、正常ってなんだ・・?」



 この世の憎しみは憎しみによってやむことはなく  

 慈愛によってのみやむ。

 これは永遠の真実である。

 愛によって怒りに打ち勝て

 善によって悪に打ち勝て

 与えることで貪欲に打ち勝て

 真実によって偽りを言うものに打ち勝て。


                 ダンマパダ



――通知――

 また、新聞が濡れていたそうです。新聞とるのをやめるぞと、大変怒っておいでです。気をつけてください。

「・・・」

 また広瀬からだ。



《ガザでの死者は六万人を超え、依然収容されていない遺体が多数あるとされ・・》



 なんだか世界がグラついている。いつからだったろう。こんなに世界が不安定になったのは――。



 死。



 死が迫っている――。



「俺が死ぬはずないんだ」


 堪らない怒り。


 抑えきれない怒り。


 あいつへの怒り――。



 ブッダ:

 頭が燃えているかのように励め

 死は必ず来る


             相応部 四ー九

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