第8話 帰り道

 配達の帰り道――、

 道路の片隅で猫が死んでいた。


 早朝は、よく猫が車に轢かれて死んでいる。


「・・・」

 道路の緩やかな傾斜に沿って、そのふくよかな丸い体から染み出る透明な体液が、ゆっくりと流れ落ちていく。


 そこは生きているものの世界――。



 ――通知――

 昨日、夕刊にて、奨学生のベトナム人女性の配達員が、車と接触事故を起こし、救急車で病院に運ばれすぐに緊急手術となりました。一命はとりとめましたが、意識不明、左脳損傷、右脳外傷という危険な状態です。当事業所において過去最大の重大事故です。日々暑い状況が続いております。事故などには十分気をつけて配達してください。 

                    

                     店長



 まだ一度も見たことのない同僚がたくさんいる。まだ一度も口を利いたことのない同僚がたくさんいる。いったい、何をやって生きているのか、どうやって生きてきたのか謎の人がいっぱいいる。

 それが新聞販売所。



 この世における人々の命は

 定まったすがたはなく

 どれだけ生きられるか分からない

 いたましく

 短くて

 苦悩をともなっている


              スッタニパータ



 どうしてこんなに世界は下らないんだろう。


 もういらない。胡散臭い人間たちの言葉は。

「そんなものはもうたくさんだ」


 

《一人が死亡、二人が重傷を負った先日起こった長野駅前での通り魔事件で、殺人と殺人未遂の容疑で三十代後半の男を逮捕》

 

 男は僕と同世代――。



 今日もまた、生きている世界の日が昇る。


 明る過ぎる光は時に人を傷つける。


「僕という醜さをそんなに照らさないでくれ」



 ブッダ:

 静けさを得た人は勝敗を捨て

 安らかに眠る


               相応部三ー一四



 生きている世界で、今日も死にゆくように一人眠りにつく。



 僕は狂ってなんかいない。



「殺しちまいな」

 眠る瞬間、頭の中で声がする。


 生きている世界と生きていない世界は同じ世界。しかし、その二つの世界が交わることは決してない。

 一つは生きている世界で、もう一つは生きていない世界だからだ。


 

 この世界でつけられた姓名というのは単なる仮のものである。

そのときそのときに仮初めにつけられたものなのだ。


           小部経典 スッタニパータ 三ー九



 今日も私は新聞を配る。


 頭のおかしな若者が、バイクの横に車をつけて絡んでくる。

「おにいさ~ん、おにいさ~ん、お仕事がんばってくださ~い」


「死ね」

 僕は思う。


 結局、暇なんだ。暇過ぎるのだ。この世界は――。



 ブッダ:

 愚者と交際する者は

 長きにわたって嘆く


            法句一五



 繰り返す


 繰り返す


 繰り返す


 同じことをただ繰り返す。新聞をポストに入れる。新聞をバイクの前カゴから取り、新聞をポストに入れる。新聞を取り、新聞をポストに入れる。


 それだけ。


 僕には夢がある。何かよく分からない奇跡的なことが起こって、たくさんのお金が手に入ったら、僕はこの新聞配達という仕事から抜け出して、毎日毎日好きな時間に、好きなだけ、たっぷりと眠るのだ。何時間も何時間も、飽きて苦しくなるまで――。


 僕の夢は、それだけ。



《辞職していた元兵庫県議の竹内英明氏が、姫路市の自宅で死亡しているのが見つかり・・、病院に搬送されましたが・・、自殺とみられ・・、竹内元県議は、先の兵庫県知事選挙で、斉藤知事を貶めた黒幕としたデマや誹謗中傷をネットや街宣で繰り返されており、精神的に不調をきたし選挙後辞職を・・、》



 今日も冷たい孤独が、心の芯まで僕を凍えさせる。


 いつからだろう。世界がこんなにざらついて見えるようになったのは――。


 あいつらはいつも笑っていた。その先にはいつも僕がいた。 



 自分をほめたたえ

 他人を軽蔑し

 みずからの慢心のために卑しくなった人

 かれを賤しい人であると知れ


                  スッタニパータ



 新聞配達を哲学しても、辛くなるだけ――


 限りないペシミズム――、絶望のニヒリズム――、そして、精神を病み、自殺・・。


 ただ配る。それだけがいい。



 昼の光に、夜の闇の深さが分かるものか

 

            フリードリヒ・ニーチェ



 結局、意味なんて事象の後づけでしかなく、人生の意味など最初からないのに、そこに意味を見出してしまう人間のその悲しさが、人間なのだった。



 ――通知――

 また、ポストから新聞がはみ出ていたそうです。新聞をポストの奥までしっかり入れてくださいとのことです。新聞とるのをやめるぞと、大変怒っておいでです。気をつけてください。

「・・・」

 また広瀬からだ。



 今日も無事配達を終え、一人家へと帰る。


 そこにはやはり、何もない。



「一人でも多く殺したかった」

 無差別通り魔事件の犯人の供述。



 ブッダ:

 何であれ感覚されたことは

 苦であり偽りであり

 滅びるものです


       相部経典三十六ー二

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