新聞配達員
ロッドユール
第1話 生きていない世界
この作品を――に捧げる――者を、私は誰も持たない――
私はそういう存在――の書く――これは物語――
無花果の花を探しても見出せないように
諸々の事物に本質は存在しないと悟った修行者は
蛇が古い皮を脱ぎ捨てるように
此岸と彼岸を捨て去る。
小部経典 スッタニパータ 1―1
《無職、渡辺容疑者が・・、先日駅前で次々と刃物で通行人を襲い殺傷させたとして・・、死傷者は十人を超えるとみられ、警視庁は・・》
《同居の長男(四十一)が、年老いた父親と母親を鈍器のようなもので殴り、殺したと自供・・、長年引きこもった末の犯行で・・》
まだ暗い早朝――。冷たく誰も呼吸していない世界。それは人の生きていない世界――。
僕はそこで生きている。
自分の呼吸の音が聞こえる。
「・・・」
誰もいない信号。
「・・・」
意味のない赤で待つ時間――。あるのは静寂の闇と信号の赤だけ。
そこにあるのは完全な孤独。
暗い空気の中に、原付バイクの軽薄なエンジン音だけが響く。
釈迦族の生まれの比類なきブッダが
わたしに教えを示された
意見や理論を超越した真理を
長老尼偈 七・二
この世界は何かが間違っている。でも、それは、言葉にできない歪み。だから、誰もそのことを知らない。
知的障害者、発達障害者、人格障害者、精神障害者、社会不適合者、生活困窮者、元引きこもり、アル中、ヤク中、ギャンブル中毒者、元ヤンキー、元犯罪者、元ヤクザ、年金受給者、老人、世の最底辺に集結した人間たちの背負った業の集積地。
それが深夜に瞬く、新聞販売所。
健康であれば誰でも採用される世界。そこにはありとあらゆるすべての人間と社会の問題が集まって来る。
「・・・」
今日も誰もいない事務所。いつもきれいなその空間とその明るさが妙に寂しい。
誰かがいても口を利くこともない。あいさつすらもない無言の世界。
いつものように自分の配るエリアの新聞の束の前に僕は立つ。
《ロシア、囚人を徴兵・・》
ウクライナとの戦争に送られるロシアの囚人の記事。それが今日の新聞の一面。
「・・・」
遠い世界はいつだって戦争をしている。そして、日本はいつも平和だった。
ブッダ:
何も行わず何も意図しない者たちは
この世界の何事にも執着しません。
執着しなければ恐れず、
恐れなければ各自が究極の安らぎへと達します。
相応一二ー五一
新聞の束をバイクに積み込み、自分の配達エリアへと出発する。そこに、やはり人間の関係はない。
バイクは、静寂の闇を切る。
闇、闇、闇――。
闇の中に、雑音を刻んだアナログで、奇妙なインストゥルメンタルの曲が流れている。
いつの頃だろうか。この曲が聞こえ始めたのは――。
《七十代の父親が五十代の息子を撲殺し・・、家庭内暴力に長年苦しんでいたとの供述を・・》
みんな傷ついている。でも、そのことをみんな知らない。
だから、みんな自分だけがいつも傷ついている。
胸の痛み。最近胸の痛みを感じる。でも、そんなことはどうでもいい。
彼は新聞を配る。彼はいつも一人だ。それは僕。
ライオンズマンション三ー八〇一戸田。日経新聞――から始まるいつもの配達。
努めはげむのを楽しめ。
おのれの心を護れ。
自己を難処から救い出せ。
泥沼に落ち込んだ象のように。
ダンマパダ
沈黙と闇。
バイクの排気音だけが響く閑静な住宅街。
そこは誰も生きていない世界――。
そこに、今、僕だけが息をしている――。
《相模原の障碍者殺傷事件から、本日で八年が経ち・・、四十五人が死傷し・・》
「・・・」
僕もこの社会の延長にいる。あの犯罪者たちは僕だった。そして、あの被害者たちも僕だった。僕は彼らで、彼らは僕だった。
同じ世界に生きている。僕は彼らと同じ世界を見ている。
世界はすべて繋がっている。
――人を愛するって何ですか?――
人生相談・・。
世界は病んでいる。
配達は続く。
積み込んだ大量の新聞は、一部一部確実に減っていく。
一部、また一部、一部、また一部――
―――
恐ろしいほど世界はバカバカしい。
いつからだろう。
それに気づいてしまったのは・・。
師は答えた
「わたしは何人の傭い人でもない。
みずから得たものによって全世界を歩む。
他人に傭われる必要はない。
神よ
もし雨を降らそうと望むなら
雨を降らせよ。」
スッタニパータ
日経三十八部、毎日七十六部、朝日百六十七部、スポーツ五部、その他七部。新聞の余計な余りなし。よって、本日配達ミスなし。配達時間約二時間半。
配達が終わる頃、暗かった夜空が白み始める。
生きている世界と生きていない世界の交わる光。
その明るさはあまりに純粋過ぎて、生きていることの真実まで照らし出してしまいそうで、僕はそこに少し怯える。
眠りと覚醒の狭間の意識――
生きている世界の動き出す方向。それと、逆の方向へと僕は帰っていく――。
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