第2話

朝の校門前はいつもより人が多く、石畳は足音でざわついていた。屋台の準備、演目の最終確認、友人同士のはしゃぎ声。文化祭の空気が校内を満たしている。エレノアは控室で、いつものように冷静に進行表を確認していた。隣にはユーディが腰を下ろし、タブレットの通知を細く追っている。


「拡散、順調です」

ユーディは小さく報告する。画面には掲示板のスレッドが並び、コメント数が緩やかに上昇している。


「ただし、不確定要素が残っています。来場者の行動予測に少しぶれがある」

「ぶれの範囲は想定内よ。重要なのは‘誰かが気づいて、動く瞬間’を作ること」

エレノアは冷静に動線図を指でなぞる。案内係の位置、ライトの角度、出入口付近の視線を集める目印──細かい調整がいくつも並んでいた。


そのとき、控室の扉が開き、ミラが駆け込んできた。顔は少し紅潮しているが、目は真剣だ。


「エレノア様っ、私、本当に欠席の演出でいいんですよね?」

「ええ。本当に来ていないように見せるだけ。けれども、舞台袖には常に誰かがいるはずだから、危険があったら躊躇なく助けて」

「わかりました。もし困っている人がいたら、声をかけます!」


ミラは小さな袋から手作りの紅茶キャンディーを取り出し、エレノアに差し出した。「これ、差し入れです。気合い入れてくださいね!」

エレノアは一瞬だけ表情を緩め、キャンディーを受け取る。


「ありがとう、ミラ。舞台が終わったら感想を聞かせてね」

「はい! 楽しみにしてます!」


会場の外は賑やかそのものだった。来場者の流れは想定どおりで、案内係が誘導する通路に人の列ができる。掲示板の書き込みは昼前から急に増え、見知らぬ人が「行ってみようかな」とつぶやく。


舞台では演劇が始まり、観客の注意は物語に引き込まれていく。空席の聖女のチェアは真ん中にぽつりと置かれ、その不在が確信へと変わる瞬間、会場にはささやかな期待と不安が混ざった空気が流れる。


演目は中盤に差し掛かり、物語はクライマックスを迎えようとしていた。舞台奥でセットの一部が不意に外れ、微かな音が響く。照明が一瞬ゆらぎ、端にいた演者がバランスを崩した。


「気をつけて!」

会場の端で誰かが声を上げ、数名の観客が本能的に立ち上がる。舞台袖ではスタッフが迅速に駆け寄り、状況を収めにかかる。だが、小さな騒ぎが観客席の空気を変えたのは確かだった。誰もが、何が「本当で」「演出なのか」を一瞬見分けかねる。


その瞬間、会場の後方から一人の生徒が走り出し、舞台に向かって駆け寄った。制服の裾がはためき、彼女は小さな傷を負った演者に手を差し伸べる。


「大丈夫? 行こう、みんなで手を貸して」

その生徒の声は震えていたが、真剣そのものだった。観客席からは拍手に似た安堵の息が漏れる。誰かが自然に立ち上がり、舞台へと向かう。助け合いの輪が瞬時に広がった。


控室のエレノアはその光景を見て、思わず胸の奥がきゅっとするのを感じた。緻密に設計した演出の結果として人が動いた──その時の彼女の計算式は正しかった。しかし、駆け寄った生徒の目の中にある純粋な心配や、差し伸べられた手の温度は、どんな数字にも代えられないものだった。


舞台の騒ぎはすぐに収束し、演者たちは無事に演目を再開した。場内はほっとした雰囲気に包まれ、出口で感想を語り合う声が弾む。掲示板には既に「見てきた」「なんか感動した」といった書き込みが流れていた。


ユーディが小声で言う。「拡散指数は想定を上回りました。ミラ絡みの反応が強く、本気の行動が二次拡散を生んでいます」

「ミラが駆けつけたわけでもないのに、誰かが助けた。その‘誰か’が議論を生んだのね」

エレノアは眉間に軽く皺を寄せた。数字は跳ね、注目は集まった。だが同時に、自分の中で小さな違和感が膨らんでいく。


控室を出ると、ミラは舞台裏で、さっき助けた生徒と話していた。二人の笑顔は自然で、演劇の台本とは別種の温度を孕んでいる。


「痛かった? 大丈夫、私は本当に心配してたから」

「ありがとう。あなたが来てくれて助かったよ」

ミラは照れくさそうに笑い、周囲の生徒達もその場の暖かさに頬を緩めている。エレノアはその様子をじっと見つめた。


「偶然の善意って、意外と強いんだな」

彼女は呟き、ノートのページに細かくメモを取る。だが、今回の出来事をどのように利用するかは、慎重に考える必要がある。人の善意は繊細で、無理に作ろうとすれば嫌悪を生む。だからこそ、次の一手は慎重に設計しなければならない。


午後の講評会で、来場者の反応はさらに顕著になった。掲示板には感想だけでなく、舞台の一部始終を撮った写真や、助け合いの瞬間を切り取った短い動画が投稿されている。コメントには「本当に泣きそうになった」「偶然って素敵」といった声が並ぶ。


「数字は確かに伸びている」

ユーディはデータを示しながら言う。「ただし、反応の質が前回と違う。共感が中心になっている。これは単なる注目ではなく、感情の波及です」


「感情の波及……つまり、計算外の『本気』だと」

エレノアは言葉を繋ぎながら自分でも驚くほど冷静だった。だが胸のどこかに、静かな動揺が広がっているのを否定できない。


夕方、学園の広場で行われる公開座談会の前に、ミラがエレノアのところへやってきた。彼女の顔には日中の出来事が残っており、少し興奮気味だ。


「エレノア様、さっきのこと、見てくれましたか? みんなが一緒に手伝ってくれて、本当に嬉しかったんです!」

「見たわ。あなたが助けたわけじゃないけど、誰かが助けてくれた。観客が自然に動いた瞬間が大きかった」

「偶然って、演出と違って裏切らないですね!」

ミラは満面の笑みで言う。彼女の言葉は無邪気だが、周囲には確かな説得力がある。


エレノアは少しだけ間を置き、控えめに答える。「偶然は大切。でも、偶然が良い結果を生むのは、そこに‘本気’があるからよ。次はその‘本気’をもっと自然に引き出す方法を考えましょう」


ミラはきらきらとした目で頷いた。「ええ、頑張ります!」


その夜、エレノアはノートに今回の反応を整理し、ページの端に赤い印をつけた。今回の成功は数字に表れているが、それを次にどう繋げるかが重要だ。単なる話題作りで終わらせるのか、居心地の良い“場”を作ることにつなげるのか。


「数字だけを追う運営者になってはいけない」

エレノアはそう呟き、ノートの見出しを書き換えた。次の章で試すべき施策の候補が、幾つか頭に浮かぶ。だが彼女はまだ、それを実行に移す前にもっと周到な準備が必要だと感じていた。静かな夜、学園は明日の更なる波を待っていた。

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