その花は雨に溶ける
辻凪
その花は雨に溶ける。
その花は雨に溶ける。
溶けると言っても、水に浸した紙や粘土のように崩れたりするわけではない。
桃色に透きとおった花弁は、しみ出すように、数時間をかけて水に溶けだし、背の低い茎だけを残す。
この性質は、花の生存には特段有利には働かない。
ただ、その儚い性質も相まって、飴細工のように美しいその花は、多くの人に親しまれている。
わたしの住む共同住宅は、この花で有名だ。
ロの字型に建てられた建物の内側には、住民共有の庭がある。強い風を苦手とし、日陰を好むその花が繁殖するには絶好のスポットになっている。
ここの住民は、皆この庭の世話をしており、その甲斐あって、花は庭一面に広がっている。
その花は水に溶けるので、じょうろで水をやるようなことはしない。コップなどで、根元の土に静かに水をそそぐのだ。
毎朝、孫を連れたお婆さんから、花など趣味ではなさそうなおじさんまで、水をやるため庭に顔を出す。
わたしは毎朝ベンチに座り、そんな人たちのクロッキーを描く。クロッキーとは、簡単に言えばごく短時間で行うスケッチで、速写とも言う。
わたしのような画家見習いが良くやる練習法だ。
「カエデさん。」
お婆さんをちょうど描き終えたタイミングで、ベンチの隣に立った白いシャツの青年が私に話しかけた。
「タカアキさんを描いてるのかな?相変わらずお上手ですね。」
彼はリョウ。わたしの向かいに住んでいる、南棟の管理人だ。
リョウはいかにもな好青年で、老若男女から好かれている。
誰からも好かれる人間を嫌うような、ひねくれ者以外からは。
彼が好かれるのはその共感力ゆえだ。人の機微に敏感で、どう振る舞えば好印象を抱かせられるかを即座に把握できるようだった。
どうしてそこまでしてくれるの?と、よく言われているのを目にする。彼自身は、他人にそう感じたことなど一度もないだろうに。ご苦労な事だ。
わたしがクロッキーを描き終えたタイミングで話しかけてきたのも、きっと偶然ではなく、その目ざとさゆえだろう。
スケッチブックを閉じて立ち上がり、彼に作り笑顔を向ける。
「ありがとうございます、リョウさん。今日も花が綺麗ですね。摘んでいってもいいですか?」
「大丈夫ですよ。この庭も花も、皆さんの共有財産ですから。」
わたしは愛想笑いを崩さずに、近くの花を一輪摘んだ。
花弁が朝日を透して、私の手を桃色に染める。
リョウは、はがきくらいの紙を胸ポケットから取り出し、こちらに渡した。
「どうぞ。切り口から液がでますから。」
庭にはたくさんこの花が生えているので、摘んでいく人も多い。雨に溶ける花なので、自室で育てたいと考えるのは自然だ。彼はそんな人のために、包み紙を持ち歩いているらしかった。
彼のこうした行動からは、誰からも好かれようとする意志を感じる。
管理人という立場からくるものではない。彼の備えている注意深さは、好意を貪ろうとする明確な意思がないと、身につくものではないからだ。
なぜ彼がそこまで好かれようと必死なのかは、わたしにはわからない。腕に収まりきらないほどに好かれたって、何にもならないだろうに。
わたしは彼から受け取った紙で切り口を包み、自室へと戻った。
それからしばらくして、リョウは失踪した。
わたしは管理人を代理することになった。日中働きに出ておらず、そして損な役回りを押し付けても罪悪感がわかないくらい住民と交流を持っていない若い人間として、わたしに白羽の矢が立った形だ。
安かったので自主管理型の住宅を選んだが、こんなことなら管理会社がついている所に住めばよかった。
失踪の理由はわからない。
安否確認で彼の部屋に立ち入った警察は、事件や事故の可能性は低いと言っていたらしい。
わたしを除いて、この棟には彼を好いている人間しかいなかっただろうし、生活に困っている様子もなかったので、自ら失踪したとは考えにくい。事故か事件のどちらかに巻き込まれていると考えるのが自然だろうが、そうではないと判断する理由が、彼の部屋にはあったのだろうか。
彼の事は好きではない。
彼の媚びに屈してなるものか。絆され、コントロールされてやるものか。彼に対してそういった感情はあるが、実際にそのへつらいに魅力を感じるのも確かだ。
好きではないが、興味がある。
他者と距離を取って様子を伺い続けてきたわたしにとって、彼のふるまいはとても不可解で、卑猥で、同時になぜか妬ましいものに見えた。
わたしは引き継いだばかりのマスターキーで、彼の部屋に入ってみることにした。
リョウの部屋の鍵を開け、一歩踏み入れた私は、その汚れように息をのんだ。…いや、よく見ると、汚れているというより、散らかっているという表現の方が適切だ。
捨てられていない段ボール、何かのメモ、空いている封筒、どこにつながっているかわからないコード。物が多く、整頓されていないだけで、不衛生なわけではなかった。
玄関を入ってすぐ横の棚には、化粧品や櫛、その他身だしなみを整える種々の道具が乱雑に並べられていた。普段の清潔で朗らかな装いは、ここで整えられていたのだろう。
わたしは彼の内面に踏み込んでいくような気分で、棚を横目に奥へと進んだ。
奥の部屋は彼の生活空間だった。散らかりようは概ね同様で、たたまれていない服や、床に平積みされている本とノートが目立った。
ただ一か所だけ、おそらく書き物などをする机とその周りだけは異様に整頓されていた。机は窓の前にあり、窓からは庭が見えるようになっている。
机の上には、花弁が溶けて茎だけになった花が挿してある花瓶と、開かれたままのノートがあった。窓からの光がそれらを照らしていた。
摘んだ後の花の花弁は、適切な保護をしないと大気中の水分によって数カ月で溶け落ちてしまう。溶けた花弁が溜まった花瓶を通して、机の上の光が開かれたノートの上で桃色に揺らめいた。
『おれはもう、おれで居たくない。
住人たち。対等なはずの友人にも、両親に対してさえ、求められるようにあろうとしてしまう。それは、おれ以外の存在への恐怖ゆえに。
恐怖ゆえ、排斥されるまいとして身に着けた処世術。まやかしの笑顔、清らかさ、明朗さ、社交性。
目上目下、相手との関係にかかわらず、求められた立場に自分をおさめる。そんな風にしないと自分のふるまいを決められない。』
ノートの上の方には、そう書かれていた。
彼は、わたしと比べて、ずいぶん他者を過大評価する性分のようだった。
そうでもないとあのへつらいは身に付かないだろうが、彼がこのような恐怖や自己嫌悪を抱えていたのは意外だった。
『こうした迎合は、激しくおれを消耗させるが、それによって勝ち得た好意に、おれ自身が満足することはない。何か一つのきっかけで、おれから離れ、敵対するのが他人という存在だから。
人の心がおれから離れ、見捨てられる恐怖心から、他者という支えをかき集め続けてきた。しかし、この処世術そのものが、おれを脆弱にさせたのではないだろうか。
守るために身に着けたはずの処世術が、おれ自身に負担をかけ、より他者を求めるようになる。おれが処世術だと思っていたものは、悪癖に過ぎないのではないだろうか。
おれは、見捨てられる恐怖から脱しないといけない。
誰もおれを知らない場所で、しばらく過ごしてみるのが良いだろう。
そして、この悪癖を断つことができたら、ここに戻ろう。
人はおれから離れ、おれは孤立していくだろうが、もう、他者に依存したふるまいをしなくても良い。
もし、この悪癖がおれの生来の性質で、断つことが叶わなければ』
記述はそこで終わっていた。
最後の一行はずいぶん荒い文字で書かれており、この一行を書いている途中で席を立ち、旅立ったことが感じられた。
わたしは彼を誤解していた。彼は浅ましく人に媚びる人間ではなかった。卑劣な手段を使う男だと認識していた自分を恥じた。
わたしが恵まれていただけだったのだ。わたしは他者に飢えるように育たなかった。それゆえに過不足なく愛され、満足できた。
しかし、彼はそうではなかった。彼は他者を恐怖し、それゆえに他者を必要としていた。卑怯に見えた媚びへつらいは、ただの手段だったのだ。
同時に、わたしが彼に感じていた妬ましさの正体が見えた。
その妬ましさは、彼が人々から人気を勝ち得ているからゆえではなかった。
恐怖心と自己嫌悪を抱え傷つきながらも、自己を保とうとした強かさゆえだった。私は、彼がとても高尚な存在に見えた。
私は庭から花を一輪摘んできて、机の花瓶へと挿した。
部屋から持ち出した樹脂を花弁へ塗る。細筆を使って丁寧に。
これは、完成した絵を劣化から保護するための樹脂だ。乾くと空気を通さなくなり、絵を鮮明に保ってくれる。
摘んだ後の花は、空気中の水分と反応して、ゆっくりと溶けてしまう。これを塗ると、花はいつまでも美しく保たれる。
なぜ花は雨に溶けるのか。
溶ける性質は、繁殖に有利ではない。花弁を失うことは、むしろ不利になりうる。
この儚い花が自然淘汰されて絶滅していないのは、自然の摂理に反するとさえ言われている。
私は、人に媚びることで、種を存続させてきたのではないかと思う。この花は、人の審美に合わせて、透ける花弁と、雨に溶けるという儚さを演出したのではないか。
思惑通りに、この花は人々の人気を掌握し、共同庭園はこの花に埋め尽くされ、むしろ他の植物を淘汰せんとしている。
リョウはノートに、『おれは孤立するだろう』と書いていた。
わたしは、きっとそうならないだろうと思う。
へつらいをやめても、彼はきっと魅力的なままだ。
窓からの風で、花が花瓶にもたれた。
この花は溶けないが、それでも十分美しい。溶けるという性質がゆえに注目されはするが、花自体が醜ければここまで愛されはしないだろう。わたしは、溶けなくなったこの花が好きだ。
その花は雨に溶ける 辻凪 @kusanagi0130
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