第3話 記憶の欠片と二十九の命


 ──その姿は、巨大な狼の悪魔。


 天使は攻撃を開始。

 一匹の悪魔めがけて刃を向ける。

 一閃、一筋の光が矢のように走ると、前足が瓦礫のように崩れた。


「ウヴァッ──?!」


 ぐしゃりと前へ倒れた狼は、電気を帯びた全身を使い尻尾を振るう。

 抉れるコンクリート、へし折れた電灯、飛び散る雷撃の嵐。

 狼の前足は黒い帯が渦を巻いて伸び、前足を象って新たな肉となっていく。

 ある警備天使達が言った。


「再生が速すぎる」

「あの電撃は一発で倒れるぞ、無理に近づくな」


 その隣をサラが過ぎ去り、悪魔の元へゆったりと近づく。


「サラ様?!」

「お待ちください!」


 サラは稲妻を浴びようと服すら燃えていない。

 目が眩む緑の雷光。

 狼は天使を噛み、投げ飛ばす。

 狼は天使の白い縄に縛られ、自らを食わんとする勢いで暴れ続けた。


「君はすごいよ、今日までその本能をずっと一人で抑えてきたなんて」


 狼は口を白い帯で封じられ、ギチギチと全身が拘束されていく。


「がヴあヴヴァッがァァァ!!」


 拘束具がブチブチと千切れていく。

 サラは狼の足元で、赤い目の奥で“青い光”を輝かせた。


「落ち着きなさい《セイ・カボルト》」


 ズシン──!

 狼はその場で伏せをした。

 サラの言葉一つで、狼は尻尾を体に巻いた。

 本能が理解する。

 この声の主には逆らってはいけないと。

 もはや恐怖すら超越し“敬意”の感情で支配される。

 すると、狼の中で眠っていた理性が、意識を取り戻した。


「ァ……あ、れ、サラ……?」

「おはよう!」


 サラが小さい。

 違う、俺が大きくなりすぎている。

 散らばるガラスの破片を見た。

 狼と目が合った。自分の意識と同じ動きをする、大きな狼。


 ああくそ、また意識が飛んでしまったんだ。


 ひび割れたコンクリート。

 壊れた電灯に、燃えた植木。

 そして、ガラスのショーウィンドウに映る、たまに見る姿。


「俺、最低だ……天使をおもいっきり投げ飛ばした」


 記憶は嫌になるほどハッキリとしていた。

 目から大粒の水が流れて、毛皮が濡れていく。


「誰も怪我してないよ。本当だよ、ほら周り見て?」


 ひんひんと、喉奥から子犬のような声が勝手に漏れ出した。

 サラが言うなら見るけど、なんで俺は物を壊すことしかできないんだろう。


 視界を動かす。

 そこでは、天使達が壊れた物を、魔法のように直していた。

 時間が巻き戻るように破損した箇所が復元され、吹き飛ばした天使は元気よく空へ羽ばたいている。


「ね? これぐらい平気。天国ではセイちゃんより強いのが暴れたりするんだから」


 今は、自分が許せず何も笑えなかった。


 ──フラッシュバック。

 脳が過去の記憶を引っ張り出してきた。

 電気を纏った俺の手が、父さんの腕を掴んだ。

 焦げ臭いにおい、警報器の不快な音。

 倒れた父親の姿、怯える母親の姿。

 あの目だけは、忘れられない。


 地面に水滴が落ち、色が深くなる。

 サラの声が心を撫でた。


「今日から俺が居る。何度暴れたって構わないから」

「こんな俺、はやく見捨てろよ」


 体が縮まり、天使の拘束具が地面に垂れていく。


「物は壊すし勝手に変身はするし傷つけるし」

「待って変身解かないで!」

「無理なのおれも!」


 サラが慌てて服を手にすると、人になりかけた俺を抱き寄せ上着を被せる。

 ぎゅむっと包まれ、視界は暗転。


「ほらこうなるんだ服もめちゃくちゃだし何もはいてないし」


 上着で塞がれた視界の中、サラの腕の強さを感じ足を抱えた。

 頭に掌の重みを感じる。

 頭上から声がした。


「自分を否定して、意味あった?」


 ぴくりと、尻尾の先が動いた。

 耳が鮮明に周囲の音を拾う。

 誰かが言った。


「悪魔が暴れたって?」

「子供だとさ」

「じゃあしゃないな」


 別の誰かが言った。


「苦しいって聞いたよ暴れる方も」

「死人はナシ? じゃあいいか」


 なんで、みんなそんな普通にしてるんだろう。

 これって普通なの? それとも興味がないだけ?

 サラが答えた。


「誰も、俺も、セイちゃんを責めてないよ。責めてるのはセイちゃん本人だ」

 

 そうなのか?

 ……そうかも、しれない。

 足元に置かれた服を手に取る。


「買い物してよかった! サイズ合う?」


 どうしてサラは俺に優しくするんだろう。


「無事ならそれでいいからね」


 急いで服を着て、上着から飛び出ししゃがむサラの前に立つ。


「ねぇサラ、これだけ聞かせてよ。俺、何か忘れてる気がする」


 だって、こんなにも力が乱れたのは、飼い犬が死んだあの時以来だ。

 それと同じ感覚がするのに、何も覚えていない。

 変だ、あまりにも。

 サラから言葉を投げられた。


「セイちゃん、もしも、自分の力で誰か殺してしまったらどうする?」


 ──静寂。

 お互いの鼓動が聞こえてしまいそうなほど、静けさに包まれていた。

 緑の目を見開いたまま息を止め、視線が揺らぐ。

 

「セイちゃんはわかってると思う。これからどんどん角も尻尾も大きくなって、隠せなくなる」


 このズボンには尻尾用の穴と調整用のボタンがある。

 サラは立ち上がると。

 声が、低くなる。


「もしも家に帰りたいなら、全ての記憶を思い出すことになる。その時は“俺が罪悪感を和らげる”ことはできない」


 その時、別のバスが終点に到着し、世界に音が戻る。


「そうなったら、きっとセイちゃんは耐えきれなくて、空へ身を投げ出すだろう」


 扉が開き、客の足音が喧騒と混ざる。


「やっぱりお前記憶を」


 現場を見た大衆は騒ぐ。


「なに事件?」

「サラ様居る!」


 サラが大衆へ手を振った。


「みんな、今はごめんね」


 サラが手を振ると、生き物たちは動きをピタリと止める。

 彼らはこの十秒間の記憶を失ったのか、不気味なほど何事もなかったように動き出す。


 変だ。さっきまで騒いでいたのに、こんなにも綺麗に忘れるなんてことある?


 脳裏に、一筋の光が差し込んだ。

 眩しい“緑の光”。

 燃える“炎の光”。

 サラを見上げ言葉を思い返す。


『自分の力で、誰か殺してしまったらどうする?』

『耐えきれなくて、空へ身を投げ出すだろう』


 そして、今見た現象。

 足元へ視線を向け、空虚を見つめる。


「俺は、誰かを殺した……?」


 そんなわけあるか。


「俺が誰かを殺して、サラが記憶を消したの?」


 否定すればするほど、しっくりきてしまう。

 サラの手が伸びる。


 ばしん! サラの腕を弾く。


「消さなくていい! なんもしなくていい!」


 響き渡るのは拒絶の声。

 まるで二人だけの世界で、サラへ言葉を投げつけた。


「俺は誰を殺したの? 俺はもう帰れないんじゃないの?」


 サラは口を固く結び、奥歯を噛み締めていた。


「アンタ、記憶を消せるんだろ? 俺のも消したんだろ? 俺はもう誰も傷つけたくなかったのに何をしたの? 思い出させて」


 誰だ。俺は誰を殺してしまった?

 友達? 先生? それとも知らない誰か?

 こんなにも胸が苦しいのに、やっぱり何も思い出せない。

 サラはあえて厳しく言っていた。


「誰かを守るために、今だけは忘れていなさい」

「俺は自殺なんてしない! 何があっても!」

「んははッ!」


 笑った。

 サラが笑った。

 その笑顔は太陽のように明るくて。

 童顔な顔立ちが、より一層幼く見えて。

 深い慈悲がとまらないほど溢れていた。

 矛盾している会話と表情に、尻尾が下がる。

 サラは微笑みながら腕を組んだ。


「だったらよかったね」


 もしかして俺はしたの?

 じゃあ、本当の犯罪者って、もしかして“俺だった”?


 周囲は楽しそうな声であふれていた。

 はしゃぎながら笑う人間。

 空でものを運ぶ天使。

 信号機が青くなると、天使獣ケルビムが道路を走り出す。

 ビルが夕陽の光を反射する紺に染まりゆく天国の街で。


「俺は、天国に居ていいの?」


 これは存在証明の問い。

 サラが答える。


「もちろん。それも含めて、この一週間考えてごらん」


 そっか。俺わかったよ。

 サラは誘拐犯ではない。


 ───俺を地獄から救ってくれた、恩人の共犯者だった。


 けれど。 

 思い出したい。

 思い出したくない。

 矛盾した感情が夕暮れと共に紺に染まる。

 はじめて正面からサラを見た気がした。


「君は知りたいだろうから、これだけは伝えておこうか」


 サラの赤い目が、真っ直ぐセイを見つめる。


「セイちゃんが殺したのは、二十九人だ」


 ……は?

 世界の音が消えた気がした。

 サラは事実を容赦なく言ってくれた。

 けれどやはり、知らない方がよかったのかもしれない。


「一週間後、君が記憶を取り戻すと決めるのなら」


 ──その時は、覚悟しなさい。



次回11月4日21時33分

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