第2章 放課後の約束
屋上の出来事から一夜が明けても、私の心はふわふわと雲の上を漂っているようだった。 授業中、何度もポケットの中のペンダントに触れては、昨日の陽太くんの笑顔を思い出す。あれは夢じゃなかった。私の名前を呼んでくれた声も、私の絵を褒めてくれた言葉も、全部本物だ。 そう思うだけで、ありふれた教室の景色が、少しだけきらきらして見えるから不思議だ。
放課後、美術室の窓から差し込む西日が、イーゼルや石膏像に長い影を落としている。私はいつもの指定席で、スケッチブックを開いていた。でも、鉛筆はなかなか進まない。期待と不安が交互に押し寄せてきて、心臓が落ち着かないのだ。 まさか、また会いに来てくれたりなんて……しないよね。 自意識過剰だと自分に言い聞かせ、頭を振る。あれはきっと、本当にただの偶然。ペンダントの力なんて、やっぱり私の思い込みだ。
そう結論づけようとした、その時だった。
ガラガラ、と美術室の引き戸が開く。 そこに立っていたのは、昨日と同じ、汗を光らせたTシャツ姿の陽太くんだった。
「よお、白鳥さん。今日もいるんだな」
部屋にいた他の部員たちが、一斉に彼に注目する。女子部員からは小さな歓声が上がり、男子部員は驚いたように目を見開いた。その視線の中心で、陽太くんはまっすぐに私を見ていた。
「あ、相葉くん……どうしてここに?」 「ん? いや、なんかまた絵、見せてもらおうかなって」
彼は悪戯っぽく笑うと、迷いのない足取りで私の隣までやってきた。そして、ごく自然に私のスケッチブックを覗き込む。心臓が跳ね上がり、呼吸が浅くなる。
「昨日から、なんか進んだ?」 「う、ううん、全然……」 「そっか。なあ、今度さ、俺のこと描いてみてくんない?」 「え……?」
予想外の言葉に、思わず顔を上げる。陽太くんは真剣な目で私を見ていた。
「バスケしてるとことか。白鳥さんに描いてもらえたら、なんか上手くやれそうな気がするんだよ。ダメかな?」 「だ、ダメじゃないけど……私なんかが、描けるかな……」 「描けるって。俺、白鳥さんの絵、好きだから」
好き、という言葉が、頭の中で何度もこだまする。もちろん、絵のことだと分かっている。分かっているのに、顔に熱が集まっていくのが止められない。 私が「……うん」と頷くのがやっとだった。それが、私たちの初めての約束になった。
「マジ? やった。じゃあ、約束な!」
陽太くんが満面の笑みを浮かべた、その時だった。 美術室の入り口に、新たな人影が現れた。
「陽太、こんな所にいたんだ。探したんだよ」
声の主は、佐倉詩織(さくら しおり)さんだった。陽太くんの幼なじみで、いつも彼の隣にいる、私とは正反対の華やかな女の子。彼女は陽太くんの姿を認めると、すぐに私の存在に気づき、その笑顔をすっと消した。
「……何してるの? 部活は?」 「ああ、悪い。ちょっと白鳥さんに用事があって」 「白鳥さん……?」
詩織さんは、品定めするような冷たい視線で私を上から下まで眺める。居心地の悪さに、私は思わず俯いた。
「美術部なんて、陽太には関係ないでしょ。ほら、早く行くよ」 有無を言わさぬ口調で、彼女は陽太くんの腕を掴む。陽太くんは少し困ったように「わりい、白鳥さん。また今度!」と言い残して、詩織さんに引きずられるように部屋を出ていった。
一瞬にして、美術室は元の静けさを取り戻す。 けれど、私の心は静かではいられなかった。陽太くんと交わした約束の甘い余韻と、詩織さんから向けられた鋭い視線がもたらした冷たい不安。その二つが、胸の中で渦巻いていた。
――私は、彼女のテリトリーに足を踏み入れてしまったのかもしれない。
ポケットの中のペンダントを、ぎゅっと握りしめる。 この温かさがくれた奇跡は、どうやら簡単な道のりではなさそうだった。
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