杉ちゃんとシャインマスカット

増田朋美

杉ちゃんとシャインマスカット

10月も下旬近くになり、ようやく秋になってきたなと思われる季節がやってきた。今年は変な感染症が流行って、外へ出る人も少なくなっているようである。

「はいどうぞ。」

と、河童みたいな顔をしている柳沢先生が水穂さんに薬の入った水のみを渡した。水穂さんは咳き込みながらそれを受け取った。

「本当に良かった。柳沢先生がいてくれなかったら、水穂さんどうなるのかわからないところでした。」

由紀子は柳沢先生に丁寧に座礼した。

「まあ、水穂さんのような人は、理解のある医療関係者でないと、見てもらえないからな。」

と、杉ちゃんも言った。

「どうもすみません。」

水穂さんは薬の入った水のみの中身を飲み干すと、柳沢先生に向かって座礼し、

「お収めください。」

と言って茶封筒を渡した。柳沢先生はわかりましたと言ってそれを受け取った。

「ありがとうございました。またなにかしでかすかもしれませんが、そのときはお願いします。本当に、先生がいてくれなかったら、あたしたち、水穂さんが苦しんでいるのをただ黙ってみているしかできないところでした。それはとてもつらいから、来てくれて本当に嬉しいです。」

由紀子は、もう一度頭を下げた。由紀子にしてみれば、本当にありがたい存在であることは間違いなかった。

「大丈夫です。大丈夫です。ミャンマーのロヒンギャが言っていた、余計なことをするなと怒鳴られたこともありますから、こういう方の診察は慣れてます。」

にこやかに笑って柳沢先生は言った。

「はあ、余計なことをするなねえ。そんなにミャンマーのロヒンギャは、他の人を憎むのか?」

杉ちゃんが聞くと、

「ええ。もうひどいものでした。道端で倒れていたロヒンギャを病院へ連れて行こうと思ったら、どこの病院に行こうとしても、入れてもらえず、結局その人は、なくなりましてね。住んでいたところへ遺体を戻そうとしたところ、余計なことをするなと怒鳴られました。まあねえ、そういう国家ですから、西洋医療がどうのとか、そういうことはできないなと思いました。」

柳沢先生は、そうしんみりと言った。

「だから、水穂さんはまだ幸せな方です。世界にはそういうふうに、医療に会えない少数民族は、いっぱいいるんですから。」

「そうだねえ。」

杉ちゃんは、柳沢先生の発言に腕組みをした。

「以前に、エボラ出血熱が大流行したときも、優先的に治療を受けられた民族は一握りで、他の人は放置されっぱなしだったそうですからね。」

「はあなるほど。」

その時は、よくわからなかったけれど、後で意味がわかるのであった。

それから数日が経って、由紀子は静岡へ最近引っ越してきたという友人とカフェで話をした。もう結婚して母親になっているというその友人は、既婚女性なら必ずするであろう、「相手の男性への不満」と、「子供への不満」を、由紀子にぶつけるのであった。由紀子はそれをハイハイと頷きながら聞くしかなかった。

「それにしても由紀子は自由でいいね。」

その友人はそんな事を言った。

「あたしなんか、変な男と結婚して、ギャーギャーうるさいだけの子供、本当に最悪よ。そのうち親が年取ってきたら、介護もしなくちゃならない。なにか、人生間違えたな。」

「でも、結婚しても辛い人生だってあるわよ。」

由紀子がそう言うと、

「じゃあ言ってもらおうかな、由紀子のつらい気持ち。」

と、その友人はからかうように言った。

「好きな人がいて、その人が、今の医学ならすぐなんとかなる病気なのに、医療に関わろうとしてくれないから辛いのよ。」

由紀子がそう言い返すと、

「あら、そういうことなら、木漏れ日クリニックへ行きなさいよ。あそこの先生は大変情け深くて、いい先生だって言うわよ。」

とその友人は言った。

「でも診療科など。」

由紀子が言うと、

「いま一番儲かるのは病院よね。あそこは内科と総合内科抱えてるから、どこへ行けばよいかわからない人は、おすすめよ。ぜひ、いってみてちょうだいよ。」

と彼女は言うのであった。由紀子はそんな良い病院であっても、銘仙の着物を着ているような男性には、無理だろうなと思ったが、それは言わないでおいた。

その日は、友人と別れて、すぐ自宅へ戻ったが、なんだか自分の事を悪く言われたような、ぼやぼやした気持ちが残ったままであった。それよりも、水穂さんが、柳沢先生のような人ではなくて、もっと上手に病気を治してくれるような、医療関係者に会ってもらえないかと、祈るばかりであった。

それから数日後。由紀子はまた製鉄所へ行った。仕事が休みの日には、必ず製鉄所へ行くようにしている。そうでないと、自分の気持ちがおさまらず、由紀子は不安になってしまうのであった。由紀子は、製鉄所へ行くと、ずっと水穂さんのそばについて、ご飯を食べさせたり、薬を飲ませたりした。水穂さんは相変わらずご飯も食べないし、すぐに疲れて眠ってばかりだ。由紀子はそれがどうしても切なかったが、発作さえ起こさなければ大丈夫、と杉ちゃんたちは言っていた。

その日のお昼すぎ、水穂さんがまた咳き込みだした。一体どうしたのと由紀子が聞いても返事をしなかった。しまいには朱肉のような液体が口元から漏れてきた。杉ちゃんたちが薬を飲ませてもおさまらない。

「病院へ行きましょう。」

由紀子はすぐに行った。

「ああムリムリ。銘仙の着物着ているやつは、うちではお断りって怒鳴られて、門前払いが落ち。」

杉ちゃんはすぐ言うが、

「でも漢方薬ではもう対応しきれないわ!」

と、由紀子は言った。

「でもねえ、無理なものは無理だって言ってるじゃないか。こないだロヒンギャの話をしてくれただろ。それと一緒だよ!」

杉ちゃんも負けずにそういったのであるが、

「あたしは連れて行くわよ。なんでも病院が新しくできたって言うから、そこへ連れて行くわ。新しいところだったら、同和問題のことはあまり気にしないでくれるかもしれないし。」

と、由紀子は行く支度を始めてしまった。すぐにカバンを持って、水穂さんを背中に背負った。

「よしなってば!若い医者なんて、同和問題に免疫があるやつはいないよ。絶対身体のこととか、バカにされるよ。やめたほうがいい。」

杉ちゃんはそう言って止めようとしたが、由紀子は、水穂さんを背中に背負ったまま、車に乗せてしまった。こうなると杉ちゃんも車椅子では追いつかないので、仕方なく由紀子を見送るしかなかった。

由紀子が目指したのは、紛れもなく、木漏れ日クリニックであった。古い病院では絶対無理だ。それならそこへ行くしかない。カーナビもあるので、道に迷う心配はなかった。その病院の前で車を止めると、病院というより、小さな家といったほうがいいところであった。入院設備もないし、薬局のようなところもない。

「すみません。この人を見てやってくれますか?咳き込んで苦しんでいて、時々血を出すこともあるから。」

由紀子は、背負っている水穂さんを説明した。受付の人は、水穂さんがやってきたことにびっくりしているようであったが、

「オンライン問診票はありますか?」

と形式的に言った。

「いえ、ありません。そんなもの要るんでしょうか。誰もがパソコンをできるわけではないんだし。」

由紀子はそういったのであるが、

「じゃあこちらに記入してお待ちいただけますか?」

と受付の人は、由紀子に画板を渡した。ベッドで待たせてくれてもいいのになと思ったがそれは叶わず、待合室のベンチに水穂さんを寝かせる羽目になった。由紀子は、問診票を書いて提出した。受付の人は変なかおをしていたが、とりあえず待っていろという返事であった。

「あのすみません、母が、ちょっと、足をすべらせて転んでしまったので、見てやってくれますか?」

と、一人の青年が、おばあさんを背負って病院に飛び込んできた。

「なんですか。受付時間はとっくに終わりました。もう新規の患者さんは受け付けませんよ。」

受付は、嫌そうな顔をして、そうおばあさんに言ったのであるが、

「でも、痛そうな顔をしているんで、見てやってください。お願いします。」

人の良さそうな青年は、そういうのであるが、

「タケさん、タケさんはいつもあっちが痛いこっちが痛いって、病院へ何度もきてるじゃないですか。今日もどうせ大したことないんでしょ。もうお帰りください。」

と受付は言った。

「増井タケさんです。あの人、特に病気もないのに、いつも痛い痛いって、いいに来るんですよ。」

と、隣の座席に座っている人が由紀子に言った。

「どうかお願いします。今日は、転んでしまったので見てやってください。」

青年はそう言っている。

「転んでしまったと言うのなら整形外科に行ってください。こちらは内科なので。」

と受付の人が言うと、

「あの、すみません。」

水穂さんが言った。

「僕の番をタケさんに譲っていただけませんか?」

と水穂さんは言った。

「なんで、水穂さんだって、大変だから病院に来たんじゃないの!」

由紀子は思わず言ってしまうが、

「そうですが、僕とタケさんは、違いますから。こういうときは、タケさんに譲ってあげたほうがいいです。」

水穂さんは、そういったのであった。タケさんと呼ばれたおばあさんは、水穂さんの着物を眺めていた。

「でもそうなったら、水穂さんが見てもらえないことになりますよ。」

由紀子はそういったのであるが、

「それでも構わないです。だって、そういうものだから。」

水穂さんは静かに言った。由紀子は、なんでここまで人がいいのか、水穂さんを怒鳴ってしまいたくなったが、そこは病院。他に患者さんがいるかも知れないので、やめておいた。

「それで、検査も治療も受けないで帰ってきたのか?」

杉ちゃんは驚いて言った。

「ええ。その増井タケさんと言う人が、可哀想だからと言って、水穂さんときたら。」

と、由紀子は、呆れていった。

「そうなんですね。」

と、薬を調合していた柳沢先生が言った。

「やっぱり、ロヒンギャのことと同じようなことが、日本でもあるんですね。どこの世界でも、そういうことはあるんですよ。例えばヨーロッパでは、ユダヤ人を隔離させるゲットーというものがあったでしょ。そうなると、ゲットーの中では病院がないわけだから、基本的に外で見てもらうことになりますが、その時でも、ユダヤ人は最後に回されたりすることだって、ざらにありましたよ。」

「でも、残念でした。水穂さん、何も、治療も何も受けられないで帰ってしまうのが残念でした。」

と、由紀子は、つらそうに言った。

「そうですね、確かにそれは残念ではあるんですけど、世界的に見たらそういう例はたくさんありますよ。」

今日は柳沢先生、なかなか雄弁だ。そして、水穂さんに、漢方薬の入った、水のみを渡した。水穂さんはそれを受け取って、咳をしながら飲み干した。

「まあ今日のところは、こういうしょうがない例もあるって諦めるんですね。」

と、杉ちゃんが言ったので、由紀子はそう考えるしかなかった。大きなため息を付いて笑うだけであった。

それからまた数日がたった。由紀子は、また水穂さんのために製鉄所を訪れていた。その日は特に水穂さんは、発作も起こさず、静かに布団で横になって過ごしていた。

「どうもごめんください。」

と、一人のおばあさんの声がした。

「誰だよ、こんな時に。」

杉ちゃんが出迎えると、

「私、増井タケと申します。この間はありがとうございました。お礼がいいたくて来ました。」

と、おばあさんは言うのであった。それと同時に、由紀子が病院で遭遇した、あの若い青年も一緒に入ってきた。

「ほらお母さん、あんまり馴れ馴れしく入ってしまうと、駄目ですよ。」

「ああ、あの時の。」

由紀子は思わずそう言うと、

「お前さんはタケさんの息子さんか?」

と、杉ちゃんがでかい声で聞いた。

「ええ。違います。名前は、増井新五郎。僕は、姓は増井ですが、旧姓は、岡崎です。妻が増井ゆかりといいまして、その夫です。だから。」

「入り婿か。」

と、杉ちゃんは、でかい声で言った。

「わあ今時珍しい。」

「ええ、みんなそう言うんですけどね。でも、仕方ないですよ。妻が姓を変えるわけには行かないって言うんですから。まあ最近は、男が姓を変えてもいいかなって思うので、それは別に気にしてません。」

と、増井新五郎さんは言った。

「はあ、そうですか。増井新五郎さんね。それで、タケさんは、奥さんのお母さんということですか。それで、新五郎さんが、タケさんのそばに付いているというわけ?なんか複雑やなあ?」

杉ちゃんがそう言うと、

「ええ。でも、ゆかりは仕事が忙しくて、ほとんど母のことは構えないので、それでは僕が世話をするしかないでしょう。」

と、新五郎さんが答える。

「はあ、なんでゆかりさんが、タケさんの事を構えないの?実の娘なら、親のこと世話してもいいと思うけど?」

好奇心旺盛な杉ちゃんはでかい声で言った。

「実は、あたしが悪いんです。ゆかりは、幼い頃に大好きだった父親がなくなって、それで母一人子一人になって、あたしは、飛田で太鼓新造をずっとやってたもんですから、ゆかりは私の事を嫌いだとずっと言ってたんです。まあ、仕方ないですよね。こういう仕事をしていると、娘から嫌われるのは当たり前のことかな。」

とタケさんは、申し訳なさそうに言った。

「飛田で太鼓新造?ああ、ああいうところで働いてたのか。それでなんかおばあさんって感じがしないと思った。」

「ええ、仕方なかったんですよ。それ以外、働くところもなかったから、引退するまでずっと太鼓新造をやっておりました。それで、お琴の腕前は自信があるんですけど、それ以外のことはどうしても自信がなくて。」

杉ちゃんが相槌を打つと、タケさんは言った。

水穂さんが、遊郭の専門用語がわからなくて、困っている由紀子に、太鼓新造というのは、容姿がきれいなので本当の女郎さんにはなれないけれど、楽器演奏に秀でていたため、女郎さんが仕事をするときのBGMを奏でている女性だと説明した。それでやっと、タケさんが、そういう仕事をしていて、ゆかりさんが周りの生徒さんをいじめていたのだと言うことも理解できた。

「でも、先日、水穂さんという方に、順番を譲って頂いて、ちゃんと、病院の先生に見てもらうことができて。それは、なにかの思し召しに違いないなと、新五郎さんが言うものですから。それならちゃんとお礼をしたほうが良いと思いましてね。」

と、タケさんは静かに言うのであった。

「いえあれは、僕が、しなければならないなと思って、そうしただけですよ。」

水穂さんはそういうのであるが、

「そんなことありませんでしょう。そういう事をしなければならないと思って、水穂さんはそうせざるを得なかったんですね。だけど、あたし、申し訳ないから、ちゃんとお礼をしなければならないと思いました。本当にあのときはありがとうございます。」

タケさんは、申し訳なさそうに、水穂さんに座礼した。

「私も、そういう仕事をして生活してきたものですから、お琴があっても、お教室は開けないで、それを、娘からバカにされて、申し訳ない気持ちで生きてきました。本当は、腰をやってから、もう死んでしまおうと思ったんです。ですが、新五郎さんがうちにきてくださって、病院に行こうとか、そういう事をしてくださるようになったものですからねえ。そして、あなたが不自由なのを投げ捨てて診察を受けさせてくださったものですから、これは、生きていなくちゃだめだなと考え直しまして。」

「そうなんですね。結局病名はなんですか?ころんだとあの時おっしゃってましたけど?」

水穂さんがそう言うと、

「ええ。あれから診察を受けさせていただいて、線維筋痛症でした。つまり、心が痛かったんです。確かにころんだんですけど、足には異常はありませんでした。」

とタケさんは答えた。それに由紀子は、なんでそんな病気のひとにわざわざ水穂さんが自分の順番を譲ってしまったのか、怒りを覚えてしまったのであるが、

「いいえ大丈夫です。お琴がすごくうまいのに、教室を開けないなんで、大変ですね。確かに、お教室を開いたとしても、講師が太鼓新造をしていたのなら、ちょっと気が引けてしまいますね。一般的にはそう考えるでしょう。娘さんから、嫌われても、ある意味では仕方ないというか、そういうことでもありますね。」

と、水穂さんは、静かに言った。

「本当にありがとうございました。お礼に、うちで取れた葡萄ですが、持っていってください。」

タケさんは、水穂さんに箱を一つ渡した。中には、緑のシャインマスカットが入っている。杉ちゃんがすぐにわあうまそうだと言ってしまった。

「それでは、お体に気をつけて、ゆっくり過ごしてください。車に気をつけて。無理しないでくださいね。」

水穂さんがそう言うと、タケさんと、新五郎さんは、改めて水穂さんに頭を下げて、静かに製鉄所を出ていった。

「あの二人、決して幸せな親子と言う感じではないな。きっとああいうのはワケアリだなあ。もしかしたら、タケさんを巡って、新五郎さんと、ゆかりさんが対立しているようなこともあるんじゃないの?」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、

「そうみたいですね。僕みたいな人間のところにお礼をいいに来るわけですからね。」

と、水穂さんも言った。由紀子は、あの二人も決して幸福な人たちではなく、不自由なところがある人たちであるとわかって、なんだか自分のあの時の態度が申し訳ないような気がしてしまった。

「由紀子さん。」

落ち込んでいる彼女に、水穂さんが言った。

「そんなに落ち込まなくて良いんですよ。僕もタケさんも似たようなものだったんでしょうから。」

そういう水穂さんに、由紀子はこれだけは言わせてという顔で、

「水穂さんは、似たようばものじゃないわ。」

とだけ言ったのであった。由紀子は、水穂さんが、にたものではないとわかってくれるか不安だったけれど、自分で伝えておきたいと思っていた。それが、水穂さんの事を好きだと伝えることになるからだ。由紀子は、そう思った。



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杉ちゃんとシャインマスカット 増田朋美 @masubuchi4996

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