第二話
そこには一人の男が立っていた。いや男というよりも、夜を照らす月の如く静謐な輝きがそこにはあった。
肩の上で切り揃えられた艶やかな銀の髪は午後の光を反射して淡雪のように煌めき、肌は白磁のように滑らかで、どこか硝子細工を思わせる儚さを帯びている。灰と青と紫が複雑に入り混じる瞳は瞬きのたびに色を変え、見た者の視線を捉えて離さない。目元を縁取る長く繊細なまつ毛が、その幽玄な瞳にかすかな翳りを落としていた。
美は欠損の中に宿るというが、目の前の男にはそれがない。神が気紛れにも月光に人の姿を与えたのではないか。そんな馬鹿げた考えが思い浮かぶほどに、男は美しかった。
その優美な輪郭に見惚れるあまり、気づけばアルマは息をすることさえ忘れ静かに立ち尽くしていた。思考も世界もその歩みを止める中、心だけが波のように揺れ動き言葉にならぬ感情が押し寄せてくる。
──この男は一体どのように笑うのだろう。
そんな疑問とも呼べぬ小さな騒めきがアルマの胸に湧き上がったその瞬間、まるで答えを差し出すかのように目の前の男は微かにその瞳を細め唇の端を緩やかに持ち上げた。
その微笑みがあまりに優しく、あたたかで、穏やかなものだから、アルマは動揺のあまり手にしていたドアノブを勢いよく引き戻してしまう。バタン!回廊中に響き渡る衝撃音と共に、男の姿は再び扉の向こうへと消えていった。
「…陛下、いかがなさいましたか?」
そう問いかけられた瞬間、アルマはハッと我に返った。まるで長い夢から引き戻されたかのように、視界が急に鮮明になり心臓の鼓動が耳をつく。
声のした方に目をやれば、ルシャードが怪訝な表情を浮かべながらこちらを見ていた。何か言い返さねばと思うが、アルマ自身己が一体なぜこんなにも動揺しているのか分からず、言葉に詰まってしまう。これ程までに取り乱すのは生まれて初めての事だった。
「う、うむ…ルシャード、その、我の婿となるシグナスという男はどんな人物かもう一度聞いてもよいか?」
アルマが何とか捻り出した言葉に対し、ルシャードは何故今になってそのような事を尋ねるのかと言わんばかりに眉をしかめた。つくづく腹の立つ男である。
「…先程も申し上げましたが、シグナス殿は現ルナリア帝国皇帝コルバス陛下の弟君で、才知に長けた貴公子として帝国でも評判の殿方と聞き及んでいます。私もこれまでに幾度かお会いしたことがありますが、博学多才で人柄もよく陛下の伴侶として申し分ない人物かと」
いやもっと、もっと他に褒めるべきところがあるだろうがっ…!
なんだってこの男はシグナスという人間を評する時にやれ頭がいいだの人柄がどうだのと内面にばかり着目するのか。その眼鏡は飾りか?ちゃんと度が入っているのか?と問いただしたくなるのをアルマはぐっと堪え、ならばとレオンの方へ向き直った。
「お前はどう思うレオン、その、あやつを見て何かこう、感じなかったか!?」
「ふむ、そうだな。一見軟弱そうだが揺るがぬ意志を感じる目をしていた」
その返答にアルマは思わず天を仰いだ。この朴念仁どもが城下の民、とりわけご婦人方から大層な人気を集めているというのだから人の心とは分からぬものである。
彼女らは知らぬのだ。ルシャードという男がいかに口煩く、頑なで、融通の利かぬ性格をしているかを。レオンという男がいかに自由奔放で、その手綱を握ろうとしてどれほど翻弄されるかを。知らぬからこそ、恋い慕うのだろう。
そう、知らぬからこそ──。
ふとアルマは、己もまたシグナスという男の外見や美名といった表層しか知らぬことに気付いた。あの涼やかな眼差しの奥底に潜むものをアルマは知らぬのだ。
知りたいと、アルマは思った。いや知らねばなるまいと思った。
あの美しい影に隠れているのは弱さか、歪みか、それとも欠落か。その一片でも目にすれば男への幻想はたちまち崩れ去るに違いない。というかそうなってもらわねば困るのだ、切実に。あの男の顔にいちいち見惚れていては新婚生活どころか日常生活にも支障をきたしかねない。見惚れる?いや別に見惚れていたわけではない、うん。決して。
…駄目だ、あの男の事になるとたちまち考えが纏まらなくなる。アルマは散乱する思考を払いのけるように首を振った。
「陛下、シグナス殿に何か不満がおありでしたら後でいくらでもお聞きします。とりあえず今はご挨拶を」
「…ああ」
ルシャードの言葉にアルマは不承不承頷くと、胸の奥で疼くものを押し沈めるべく一度深く息を吸い込み目の前にそびえ立つ扉へと手を伸ばした。
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