第1章 深き入り江に眠る野望
第1話 依頼
タンスを開ける。
皴一つないワイシャツを取る。
——綺麗なシャツが憂鬱な気持ちをあざ笑う。
袖を通して一つ、一つ、ボタンを閉じていく。
——偽りの羽衣をまとう。
——けれど億劫な気持ちだけはあくびとともに漏れ出ていった。
タンスから赤いネクタイを取り出し、寝室を出る。
朝が弱いせいかカノンは起きるたびに億劫な気持ちに沈み込む。意識が朦朧としてドープな時間が流れているように感じる。
朝が弱いといっても寝坊をするわけではない。ただ仕事が嫌なのだ。
窓を見る。灰色がかった空が少しずつ白んできていた。
午前6時
ポットに水を入れて火にかける、湯が沸く間に顔を洗う冷水がまだ完全に起きていない意識に染みわたって、遅く感じる時間間隔が元に戻る。
ティーポットに茶葉を入れてこぽこぽと沸き立つお湯を注ぐ。蓋を閉め茶葉を蒸らすと高貴な香りが立ち込めた。
口に含むと柑橘系のすっきりとした香りが口腔にたちこめる。
一口
また一口とお茶を飲むと霧のようだった精神が形を戻していく。
体が完全に目をさますと、鬱屈としたけだるさが重くのしかかっているのがわかる。そんなけだるさを振りほどくように立ち上がる。
午前6時30分
洗面所に行き、寝ぐせのついた銀の髪を解かしていく。そして不愛想な顔に化粧を乗せ、皮肉を隠す唇に口紅をそっと塗る。
そして碧眼の瞳に添わせるようにアイラインを乗せる。
そしてネクタイをきれいに締める。
「いってきます」
午前7時
私は朝仕度を終わらせコートハンガーにかけた男物のような黒いツイードジャケットに袖を通す。
そして後ろにかけておいた檜皮色の春外套を羽織って、玄関の扉を開けた。
ここはロンドン。——灰色の街。
私、カノン フラウトは退屈でせわしないこの街の時代遅れの探偵屋だ。
※
私が営む探偵事務所はウェストエンド地区にあり、窓からはビッグベンがひっそりと見える位置にある。いつも朝刊とチーズがのったバケットを近くの売店で買っていく。
そして事務所のデスクで朝刊を読みながら朝食を済ませるのが私のルーティンだ。
新聞の一面を飾るのは数カ月前から続く少年少女失踪事件。ジャーナリストたちは変態たちのポルノ的犯行だと騒ぎたてるが、事件の解明には至っていないようだ。
読み終えるころには往来する靴の音と、活気のある話し声が増えてくる。腕に巻いた時計を確認しデスクの上にある書類の整理に手を付ける。
整理とは言っているが、もはや助手が整理した書類に目を通すだけだ。
そうこうしているとドアベルがカラコロと音を立てる。
扉の向こうから現れたのは白いパーカーとジーンズに身を包んだ金髪の少年。ルビィのような赤い瞳を光らせ、耳からイヤホンを垂らしていた。
まるで人形のように整った顔立ち。おそらくこういうのがロリコンの獲物になるのだろうと新聞を読み終えた私は思った。
「おはようございまーす」
「おはようカイン」
「おはようございますカノン師匠。いやあ、春が来たっていうのに今日も寒いですね。
今日もいつものパンですか?今お茶入れますから」
カインは私の助手兼弟子だ。とある事情から彼女が引き取り、面倒を見ている。いつもこの時間に来てはキッチンに行ってお湯を沸かす。コンロの前で冷えきった手を摩りながら茶葉をティーポットに入れていく。
「そういえば今日は正午ぐらいにマレットさんが来られますね。師匠、忘れてないですよね?」
読み終わった新聞をおもむろに手に持ち、顔を隠すよう広げる。
そんな姿を見てカインは呆れたようにため息をついた。
「やっぱやめたはなしですよ。先月からの依頼なんて片手が埋まらないほどしかないんですから」
今の時代探偵業なんてものは時代遅れも甚だしい。特に私立探偵なんてものは閑古鳥の巣ともいえる状態だ。
だから仕事をえり好みできる状態ではない。
頬杖をつきながらため息をこぼす。陰鬱な気持ちを溢していると壁に掛けた振り子時計が重苦しい音を立てる。
——時刻は10時
「そろそろ開店よ。扉の札を返してきてちょうだい」
そういうとカインは玄関に飾ってある回転札を「CLOSE」から「OPEN」に変える。
今日も退屈な一日が始まった。
一日の業務は……といっても依頼者を待つこと以外は特にやることがない。だからやることと言えば報告書を読むか、本を読むか、茶を飲むか。
たまに散歩へ出かけるが、それ以外にやることはない。
だからこそ日がな一日ステレオから流れるジャズを聴きながら来ることのない依頼人を待つのだ。
退屈さは否めないが現代とは程遠い古風な家具に囲まれたこの空間は落ち着く。
ロココ調の赤いソファ、マホガニーのローテーブル、ヴィクトリア王朝時代の茶器。
どれも私の「優雅な退屈」を演出するために揃えたものだった。
実のところ、依頼人が来ないことに対して焦りはない。
来なければ来ないで、それもまた結構。暇もまた贅沢の一つなのだと、ソファの上で私は自分に言い聞かせる。
けれども時折、窓の外を歩く人の気配に無意識に耳を澄ませてしまう瞬間がある。
ジャズのリズムが一瞬だけ途切れたような気がして、視線をドアに向けてしまうことがある。
そうして何事も起きないまままたページをめくる。お茶の湯気が消えていく。
それが日常。つまり平穏。つまり、ほんの少しだけ、つまらない。
「師匠、昨日の件報告書にまとめたので確認お願いします」
「ん、了解。あれから諜報局からの連絡は?」
「ストーカー野郎が捕まったらしいですよ。しかも師匠が睨んだとおり、パブで溺れていたみたいです」
「そう」
「仕事はできるのに、どーして閑古鳥が鳴いているんでしょうね」
「やりなおし」
「ええー」
そんなばかげた会話を続けていると扉を三回ゆっくりと叩く音が響く。
響く音、叩くリズム。扉の向こうにいる人を私は知っている。
「はーい」
「お出迎えご苦労様カイン君。お邪魔するよ、カノン フラウト」
扉の向こうから現れたのは絵に書いたような紳士服に身を包んだ初老の男性だった。
——鏡を見なくてもわかる。私は今、心底面倒くさい顔をしているに違いない。
「ようこそ、フラウト探偵事務所へ。お茶を飲むだけならそこら辺の喫茶店にでも行ってくれると嬉しいわマレット」
「ははは少し早めのティータイムか、それもまたいいね。しかし、今回も仕事で来ていてね。ティータイムはその後に」
そう言うとコートとシルクハットをハンガーにかけ、向かいのソファに座る。そしてイニシャルが刻まれカバンを開けて資料をテーブルの上に広げる。
マレット・アルフォード。
「前回の一件ご苦労様。やはり君たちに頼んでよかった」
「厄介ごとを回してきただけでしょう?まったく、便利屋扱いは癪に障るわ」
「本部のエクソシストよりも、君たちのほうが信頼できる。私は信頼しているんだよカノン」
「減らず口を」
「それでマレットさん、今回のお仕事はどんな感じなんです?」
「今回の依頼は密輸の調査だ。ここ最近、テムズ川近辺で違法船の往来が確認されてね。積み荷を確認したところ、出てきたのはアルミと石ころだったようだ」
「それならロンドン港管理部や警察のお仕事でしょう」
「それがそうともいかないのが厄介なところだ。石ころを解析したらなんとウテルスが確認された。
ブルーノートはこれを第三級事案『ウテルスの違法取引』と想定。エクソシストカノン フラウトに密輸業者の調査及び逮捕を命じた」
悪魔たちはウテルスと呼ばれる鉱石から現れる。どんな原理で現れるかはまだ未解明なところが多いが、一つわかっていることがある。
それは人の願望に釣られて現れ、望む姿望む現象に合わせて願望を成就させようとするのだ。
そう、どんな手を使ってでも。
そんな悪魔たちを祓うのが私たちエクソシストだ。それは中世から続く悪魔祓いを生業とする者たち。私は私立探偵の傍ら、エクソシストとして“悪魔”と戦っている。
そんなエクソシストたちを束ねるのが『特異現象捜査機関ブルーノート』だ。
「嫌」
「ハハハ、そういうと思ったよ。なにせ、密輸ともなれば行く行くはマフィアやギャングにたどり着く。
そんな面倒ごとに巻き込まれるのは君の性分ではないことぐらい、みんな分かっているさ」
「第一そういう仕事は本部のエクソシストの仕事でしょう?私はフリーランスよ」
「私との約束を忘れたかい?」
「義理は果たしているつもりよ」
「頼むよ、私の顔を立てると思って。それに、君にしか頼めないんだ。今回の事件ウテルスの他に、もう一つ厄介なものがあってね」
マレットは少し前のめりの体制になる。先ほどまでの笑顔は消えて、神妙な面持ちへと変わる。
「積み荷の中に子供が詰められていたんだ。それも数十人規模でね」
「こ、子ども⁉」
「人身売買がかかわる以上、本部の指示は遅くなる。君もわかっているはずだ。ブルーノートと英国警視庁との確執を」
「師匠、これはただ事ではありません。駄々こねてる場合じゃないですよ!」
ブルーノートと英国警視庁の確執は根深い。なぜなら私たちエクソシストは悪魔と戦う上で武器を使う。それが国の治安を守る警察にとってはいい気分ではない。
そのため警視庁とブルーノートとの間に交わされた制約が一つある。
『エクソシストは刑事事件にかかわるべからず』
これによってブルーノート所属のエクソシストは動きが遅くなる。だからこういう面倒ごとは私のような
「だから頼むよ」
「——わかったわ。けど、報酬は高くつくわよ。それともう少し情報をよこしなさい。
「ありがとう、カノン。我々諜報局の見解では密輸業者の根城はリヴァプールだ」
「リヴァプール……確か、貿易港の一つでしたよね?まさか、ウテルスを集めて国外に」
「間違いないでしょうね。明日にでも取り掛かるわよ。カイン、いつもの道具を準備してちょうだい」
「了解です」
そう言うとカインは別室へ移動する。横目で出ていくのを確認すると私は足を組む。そして右手で口を覆い、マレットを睨んだ。
「まったく、あなたは信用ならないわ。結局私を手駒のように扱うのだから」
「後見人として君の立場を守っているんだ。わがままぐらい許しておくれよ。それに君の弱みに付け込んだように聞こえるかもしれないけど全部本心さ。嘘はない」
「知ってる」
私はこの男が嫌いだ。いつもにこやかで面倒ごとを私に任せようとするからだ。それが彼と私の約束であってもだ。
鏡を見なくてもわかる。私は今、心底面倒くさい顔をしているに違いない。
「さて、ティータイムにしようか!」
「嫌」
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