Giselle Canon
榑林
序章 プレリュード
闇が支配し人も動物も寝静まった街に一人の女性が壁に寄りかかり立っている。
コートから銀色のケースとジッポーライターを取り出す。ケースから煙草を一本取りだしライターを弾く。
静寂の暗黒にパキンッと乾いた金属音と暖かな灯が宿る。
味わうようにゆっくりと吸い込み吐き出した煙はオーロラのように瞬く星空へ昇っていく。
夕焼けのように燃える炎がフィルターにまで近づいたころ、女は袖を払い腕時計を覗く。
するとポケット灰皿に吸殻を捨て鳴り響く端末を取り出す。
『師匠、マレットさんからの連絡です。「獲物が罠に掛かった」と』
「わかった、早く終わらせましょう」
常に誰かに見られている気配が背中にこびりつく気配が朝も夜も付きまとう。急いで警察に相談したが、まともに取り合ってくれず対応すらしてくれない。
彼氏にも相談したが「キミはチャーミングだからみんなの目をくぎ付けにしてしまう」と適当を言う始末。
友人の家に泊まらせてもらった時もあった。
しかし気配が消えることはなく、友人からも「来ないでくれ」と拒絶されてしまった。家に帰ってからはこうして塞がれたクローゼットに入って朝を待つしかできなかった。
両親は3年半前のテロで他界したためもう彼女には相談する相手がいなかった。
そしてここ一週間でその気配は形となって表れるようになった。服がなくなっていたり、捨てた生理用品が消えたりとその事象は気持ち悪いの一言では片付けられないものになった。
「——ッ⁉」
ジージーというインターホンの音が鳴り響く。物がなくなること今まであった。しかしインターホンが鳴るなんてことは今まではなかった。
ドアの金具が軋み音を立てて開かれる。ドシ——ドシ——という鈍重な音が寝室に近づいてくる。
「ミレイユ、迎えに来たよゃ。さあぉ、姿を見せてぅ」
壊れたスピーカーのように歪曲で音程の崩れた声。どこか聞き覚えのあるその声にミレイユは恐怖した。
「どうしてぅ僕のところにぁ来てくれないんだいょ?僕らの恋を邪魔する者はもういないぁ!」
小刻みに震える身体は徐々に大きくなっていく。震えを止めようにも心の芯から恐怖するその言葉。ミレイユには2年前から交際する彼氏がいたのだ。
——ガタッ
震える足が誤ってクローゼットの壁を蹴る。
「みぃつけた、ミレイユぁ」
近づく足音。扉一枚分の距離まで近づく。隙間から吹き抜ける掃きだめのような臭い。
ゆっくりとドアが開き、その匂いの主にミレイユは恐怖した。
「これでお前の願いは果たされる。よかったな、
「イヤ、嫌ァァァァァァ!」
甲殻類のような肌、歪とも思える長い手足。顔はワニのように口が長い。形容しがたきそれは映画に出てくるエイリアンそのものだった。伸びる手をがむしゃらに抵抗するが鉄骨のように固い怪物の腕はびくともしなかった。
あきらかに異形な存在であることは確かだった。しかしその頬の上がった顔が笑っているのはミレイユにも理解できた。
怪物の手が彼女の柔肌に触れる瞬間、怪物がすごい勢いで窓辺へ吹き飛ばされる。車の衝突事故のような衝撃音と吹き荒れる突風。
そして壊れた壁から差し込む月明かりが風の主を照らす。
男性のように高い身長と女性を思わせるすらっとしたフォルム。腰まで伸びた月光に輝く月白の髪。端正な顔立ちと空のように澄んだ碧眼。
佇む女はまるで月の妖精かのように美しかった。
女はクローゼットでうずくまったミレイユを一目見る。
そして身をかがめた瞬間また突風が吹き荒れ、ミレイユが目を開けたころにはそこに女はいなかった。
「大丈夫ですか!」
「えっと——なにがどうなって。あなたたちは?」
「フラウト探偵事務所から来ました。ミレイユさんで間違いないですね」
「えっと、あの女の人は?あれはいったい……」
「ご安心を、あの人はこの街を守るエクソシストですから」
女は弾丸の如き速度でマンションの5階から落下する。
そして宙を舞うように態勢を整え石畳に着地すると目の前に立つ怪物を睨んだ。
「もう少しで契約満了だったのに……人間、手間をかけさせるな」
「女の家に押し掛けるだなんて紳士じゃないわ。恋はだれにも頼らず辛抱強く待つものよ悪魔さん」
怪物はその長い脚を鞭のようにしならせ女の首元へ放つ。しかし女は後ろへ飛び難なく回避する。
そして偏った重心をなでるように足払いを放ち怪物を転ばせる。
「人間の癖に——調子に乗るなぁ!」
「あら、人間相手に必死になるのね。あなたも契約者同様短気ね」
でたらめに突進してきた怪物を軽やかにかわすとともに女は腰に収めた
——すれ違う。しかし次の瞬間には怪物の胴に繊細で深い裂け目が走る。
そしてなぞった切り口から鮮血ではなく霧のような冷気と氷の結晶が芽吹く。
「何!?」
“驚愕”
それは精神だけでなく身体すら一瞬硬直させた。
飛び出した怪物の重心移動は鈍り脚がもつれたようによろめく。
その一拍を狙っていたかのように女はつま先を軸にくるりと回る。
広がる遠心力をそのまま刃へと乗せ悪魔へと刺突剣を突き放つ。
回転の軌跡とともに長い月白の髪がふわりと満月のように広がる。
その銀の幕、そのわずかな隙間を縫うかのように繊細なレイピアの切っ先が一直線に怪物の肉体を穿った。
そしてステップを踏むと同時に刺突剣を放つ。
一撃。
また一撃。
それは止めどなくコンクリートを打つ雨のように放たれる刃と、そしてプリンシパルのような舞。
「どんな願いがあっても結構、けれどあなた達“悪魔”が介入することは私が許さない」
向かってくる攻撃を軽やかな身のこなしでかわし攻撃を放つ。その動きはすでに怪物の動きを把握しているかの如く先読みをして逸らしていく。
全ての攻撃を逸らされるのに激情する怪物。しかし身体は無数の
テムズ川のほうから少年が走ってくる。
「師匠、ミレイユさんを安全な場所に送りました」
「ご苦労様。さて、そろそろ終わりにしましょうか」
肩幅よりも少し広く足を開く。
そして腰を引く構える。
レイピアを構え地面を強く蹴る。怪物は防御をしようとするが一瞬で距離を詰められ間に合わない。胸の中心に突きつけられた細刃を中心に氷の結晶の模様が広がった。
引き抜くと同時に凍り付いた体はひび割れて砕かれた岩のように地面に転がる。
宵更けるケンジントンの公園に月光がぼんやりと降り注ぐ。静寂の中に女はひとり立っていた。
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