第2話 塩の道

 春が過ぎ、村には短い夏が訪れた。

 丘の上の教会は改修のために足場が組まれ、村の若者たちが石壁を塗り直していた。

 私も手伝いに呼ばれ、久しぶりにあの場所を訪れた。

 鐘楼の上には新しい鐘が吊るされ、もう幽霊の話をする者はいなかった。

 けれども、祭壇の下から漂う空気には、まだ冷たい匂いが残っていた。


 作業の最中、古い床石を剥がした青年が声を上げた。

 「見てくれ、何か刻まれてる!」

 埃を払うと、黒い石板にラテン語が浮かび上がった。


 > ANIMA NON RECONCILIATA

 ——「未だ和解されぬ魂」。


 神父代理の老人は顔をしかめ、震える声で言った。

 「この下には、封じられた者がいるのだ」

 彼の話によれば、昔、この教会では“罪人の魂”を鎮めるために塩を撒き、

 石でその名を封じたという。

 村人たちはその夜、祈りを捧げ、祭壇を布で覆った。


 だが、私は眠れなかった。

 真夜中、丘の方から微かな鐘の音がした。

 胸の奥が冷たくなる。

 私はランプを持って、ひとり教会へ向かった。


 扉を押し開けると、蝋燭が一本、勝手に灯っていた。

 光が揺れ、床の上に白い粉の線を描き出す。

 塩だった。

 それは祭壇からまっすぐ扉の方へ伸び、やがて人の足跡の形をとっていた。

 私はその跡を辿った。

 鐘楼の下、狭い階段の先で、誰かが祈っていた。


 「……また、おまえか」

 闇の中で、あの声がした。

 姿は見えなかった。けれど、空気が確かに震えた。

 「司祭さま……?」

 「私はあの夜、赦されたと思っていた。だが、もう一つの罪を隠していた」


 鐘が一度鳴った。

 それは風ではなく、まるで誰かが縄を引いたような音だった。

 「——私が救えなかったのは、ひとりの修道女だ。

  火の手が回ったとき、彼女は私を探して祭壇に戻った。

  私は扉を閉ざし、彼女を中に残した」


 私は息を呑んだ。

 司祭の影が、薄明かりの中で形を取った。

 焼け焦げた法衣の袖が揺れ、灰のような粒が床に落ちた。

 「私が赦されるためには、彼女の祈りが終わらねばならない。

  だが、あの人はいまもここにいる。鐘の音に導かれて」


 風が吹き抜け、蝋燭の炎が消えた。

 暗闇の中で、足元の塩が淡く光り、教会の出口まで道を描いた。

 私は振り返った。

 そこには、黒いヴェールをかぶった女の姿があった。

 静かに跪き、誰かのために祈っている。

 その顔は、安らぎと悲しみの境にあった。


 鐘がもう一度鳴った。

 そして、すべての光が消えた。


 翌朝、祭壇の前には白い円が描かれていた。

 塩でできたその円は、まるで二人が向かい合って座っているような形だった。

 村人はそれを「和解の跡」と呼び、誰も踏み入れようとはしなかった。

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