教会に仕える幽霊
彼辞(ひじ)
第1話 夜の鐘
丘の上の教会は、霧に包まれていた。
村の家々が眠りにつくころ、ただ一つ、鐘楼の十字架だけが白く浮かび上がっていた。
石造りの壁にはひびが走り、苔むした屋根から雨水が落ちる。
それでも朝晩の鐘だけは絶えたことがなかった。
誰が鳴らしているのか、村人は知らない。
「夜中の鐘は、死者の祈りだよ」と、老婆が言った。
パンを焼きながら、煙の向こうで静かに笑った。
「昔、司祭さまが火事で亡くなってね。それからずっと、あの鐘は真夜中に三度鳴る。
——あれは、赦しを乞う音だとさ」
旅の神学生だった私は、その話を聞いて教会を訪れた。
扉を開けると、冷たい石の匂いがした。
長い年月で煤けた祭壇、色あせた聖母の絵。
けれども、蝋燭だけは誰かが灯したばかりのように揺れていた。
「誰か、いるのですか?」
声をかけても、返事はなかった。
ただ、奥の方から、かすかな靴音が響いた。
私は祭壇の裏へと進んだ。
そこには白い法衣をまとった男が立っていた。
頭を垂れ、ロザリオを握りしめている。
「神父さま……?」
男は振り向かなかった。
蝋燭の光に照らされ、頬に焦げ跡のような影が見えた。
その手が震えている。
「……赦されぬまま、ここにいる」
掠れた声が、空気を震わせた。
「火が回ったとき、私は懺悔室にいた。
逃げるよう命じられたが、告白を途中でやめられなかった。
罪を告げぬまま、煙に包まれた。
だから今も、告白を待っている」
私は言葉を失った。
それでも、ロザリオを掲げ、祈りを唱えた。
「主よ、この人の魂を光のもとへ導き給え」
男はゆっくりとこちらを見た。
その瞳は空の色をしていた。
「……おまえは生きているのか」
「はい。神学校の者です」
「ならば、私の懺悔を聞いてくれるか」
私は頷いた。
蝋燭の炎が揺れるたび、影が壁に伸びる。
男は小さく息を吸い、唇を開いた。
「私は……金を盗んだ。教会の献金を。
村の子らのパンを買うためだと、自分に言い聞かせた。
だが、嘘だった。私は恐れていた。貧しさも、神の沈黙も」
その声は、告白というよりも祈りのようだった。
やがて鐘が鳴った。
深く、重い音が、夜の霧を震わせた。
男は微笑んだ。
「……ありがとう。これで鐘を鳴らさずに済む」
その瞬間、光が蝋燭の芯から弾け、彼の姿は霧のように溶けた。
床には塩のような白い粉が一筋、鐘楼の方へと伸びていた。
翌朝、村の人々はこう言った。
「昨夜は鐘が鳴らなかった。春が来るんだな」
私は教会を振り返った。
霧の晴れた丘に、白い壁が静かに光っていた。
その窓辺に、一瞬だけ、白い影が手を振るのを見た気がした。
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