空色の予感 4
三
放課後。
すべての授業が終わり、学生としての責務から解放される束の間の休息。わたしの隣には、すっかりしおれてしまったヒマワリの姿が。
「あぁ〜……つっかれたぁ〜……」
大きくため息をつきながら、ぐで〜っと机のうえに突っ伏せる麻衣。だいぶお疲れのようす。
「お疲れさま、麻衣」
「ほんとに疲れたよぉ〜……」と彼女が言う。「なんで今日に限って、小テストが三つも重なるの〜? せっかく、今朝は最高の気分だったのにぃ〜……」
ぶぅぶぅグチをこぼす彼女の頭を撫でてあげる。さらさらの髪の毛が気持ちいい。
「本屋には、少し休んでから行こっか?」
「うん、そうするぅ〜……」
なでなで。
なでなで。
お疲れモードの彼女をねぎらうつもりで、なんども頭を撫でてあげる。
「ごめんね、待たせちゃって……」
「ううん、大丈夫だよ」
教室内には、わたしたち以外に三人ほど。ひと気がなくなった室内は、おだやかな静けさに包まれていた。
なでなで。
なでなで。
くり返し彼女の頭を撫でていると、やがてパチっと目が合った。
「葵の手、すごく気持ちいい」
「そう?」
「うん。なんか、ふんわり毛布に包まれてるみたいな感じ」
おぉ。
麻衣にしては珍しく、分かりやすくて具体的な比喩だね。いつもは「索敵中のハムスター」とか「飼い主にゴロンしてあげるポメラニアン」とか言ってるのに。
疲れているときは、彼女渾身の例えも解像度が落ちるのかもしれない。
いや、分かりやすさが増してるから、むしろ解像度が上がってるのかな?
「そろそろ、毛布はお休みの時期だね。暑くなってきたし」
「だね〜。でもあたし、夏に冷房きいたなかで毛布にくるまれるの好きなんだ〜」
「あ、分かる。冬にコタツでアイス食べるみたいな背徳感あるよね」
「そう、それ! 悪いことしてる気がするんだけど、すっごい気持ちいいんだぁ。背徳感と毛布の気持ちよさで、満足感二倍アップみたいな?」
「あはは。環境には悪そうだけど」
「地球さん、ごめんなさい……あたしは悪い子です……」
くすくすと笑うわたし。
気がつくと、教室には私たちだけになっていた。さきほどまで談笑していた三人が、いつの間にか姿を消している。わたしたち二人の影だけが室内に残される。
右手首に巻かれたスマートウォッチで時間を確認する。時刻は四時半を過ぎた頃。
時間的に、部活がある生徒はクラブ活動の真っ最中。とくに用事のない生徒は、とうに自宅に帰っている頃だろう。日中にのぼっていた太陽も、だいぶ傾き始めていた。
耳を澄ますと、楽器の音が聞こえる。吹奏楽部だろうか。ホルンの堅牢な音や、クラリネットの上品な音が聞こえる。その他には、ヴァイオリンやピアノ、それからトロンボーンなど。いくつもの音が重なり合って、放課後の教室に軽やかな音色を届ける。
頭上から降ってくる合奏を背景に、コチラを見つめる麻衣が口をひらく。彼女の瞳が、光に反射してきらりと煌めいた。
「ねぇ、葵」
「うん?」
「好きだよ」
粘度を感じさせない彼女の澄んだ瞳が、わたしをジッと見据えている。
くす、と鼻を鳴らすわたし。
「なぁに、いきなり?」
「葵、かわいいなー。好きだなーって思ったの」
「わたしのこと見ながら、そんな風に思っててくれたの?」
「うん。いつもあたしに『かわいい』って言ってくれるけど、葵だってカワイイよ」
雪解け水のように透明な声で、麻衣が続ける。
「大好きだよ、葵。あなたのことが、ずっとずっと大好き」
「わたしもだよ。麻衣のこと、大好き」
わたしがそう返すと、彼女は口角を上げて柔らかく笑った。わたしの好きな優しい微笑みだった。
「えへへ〜」
彼女の頭を撫でてあげる。ご機嫌そうなようすで頬を緩ませる彼女。
「ねぇ、葵」
「うん?」
「キスしよ?」
どき。
麻衣の言葉に、ぴょこんと心が跳ねる。
「え、ここで?」
「うん。放課後の教室でキスなんて、ロマンチックだと思わない?」
「まぁ、そう……だけど……」
撫でていた手を止めて、きょろきょろと辺りを見回すわたし。ほかに学生の姿はなく、教室には私たち二人だけ。
「今なら、だれもいないよ?」
麻衣の言うとおり、ほかには誰もいない。教室にいるのは、わたしたち二人だけ。わたしたちだけ。わたしたち二人だけの空間。
「でも、だれか来たら……」
だれか来たら。
だれかに見られたら。
「んー……そのときは、そのとき考えよ?」
そのときは、もう手遅れな気がするけど……まぁいいや。
だって。
だって、わたしだって。
麻衣と、キスしたいから。
「好きだよ、葵」
麻衣が、わたしを見る。ふだんよりも熱を帯びた彼女の声が、わたしの耳のなかで反響する。
「わたしも……麻衣のこと、好きだよ」
「ずっとずっと大好き」
「うん。ずっとずっと、麻衣のことが好き。大好きだよ」
麻衣の頬に手を添えるわたし。彼女もまた、わたしの頬に手を添えた。
中腰になった彼女が、ゆっくりと目をつむる。長いまつ毛が下まぶたに影を作る。
彼女の熱を求めて僅かに開いたわたしの口から、行き場をなくした吐息が漏れ出していく。
彼女の唇めがけて、わたしは自分の吻を寄せた。彼女の柔らかな口唇が、わたしのソレに触れる。
唇を離したあとで、ゆっくりと目を開ける。彼女の美麗な顔が、わたしの瞳のなかに飛び込んでくる。
彼女もまた同じように、ゆっくりと目を開けた。白磁のような肌が薄桃色に染まっている。
「……えへ。葵の唇、やわらかい」
「麻衣だって、そうだよ?」と返すわたし。「甘い香りがして、やわらかくて……ずっとずっと、キスしてたくなっちゃう」
やわらかな彼女の唇。
何度も口付けたくなる彼女の口唇には、中毒性があるのかもしれない。たった今キスをしたばかりなのに、もう次の口付けが欲しくなっている。
わたしは、欲張りだ。
「じゃあ、さ……もっかい、する?」
コクリとうなずくわたし。
「もっといっぱい、しよ?」
ふたたび、麻衣の唇に触れるわたし。
あむあむと上唇を軽く食む。それに応えるように彼女もまた、わたしの吻を優しく食んだ。唇の柔らかな感触が伝わって、多幸感が神経系を波及していく。
麻衣の手をたぐり寄せる。ゆびさきをキュッと絡めると、たがいが溶け合っていくような気がした。ミルクとコーヒーが溶け合うように、お互いの熱が一つになっていくような気がした。
わたしの右手。
麻衣の左手。
わたしの左手。
麻衣の右手。
わたしの指先、麻衣の指先。
つないだ手の平から、彼女の体温が伝わる。
絡め合った指先から、彼女の熱量が伝わる。
どれくらい、そうしていただろう。
長いようにも感じたし、一瞬のようにも感じた。
願うなら、この時間がずっと続けばいい。この幸せな時間が、ずっとずっと続けばいい。そんなことを思いながら、わたしは夢中で彼女の唇を食んだ。
吹奏楽が奏でる音が鮮明になってきたころ、ゆっくりと彼女の唇から離れるわたし。微睡みから覚めるときのように目を開けると、彼女の瞳のなかにわたしがいた。
頬を薄桃色に染めた麻衣が、絞り出すような声で「やばい……」と言った。
「な、なにが?」
「葵のこと大好きすぎて、胸が張り裂けそう……。胸骨ごと、左心室が飛び出ちゃいそうだよぉ……」
くすりと笑うわたし。
もう、あいかわらず比喩が独特なんだから。
「麻衣が死んじゃったらわたしが悲しいから、いっしょに長生きしようね?」
「それって、ずっと一緒にいてくれるってこと?」
「そうかもね」
「あ、匂わせ系だぁ。罪深き〜」
さいごにもう一度、触れるだけの軽いキスをしてから教室を後にした。
さきを歩く麻衣が教室のドアを開ける。彼女の後に続いて、わたしも渡り廊下へと出る。階段をおりて昇降口へと向かって歩く。上履きからローファーへと履き替える。玄関のドアをくぐると、グラウンドから聞こえてくる運動部のかけ声が一層おおきくなった。
「みんな、部活がんばってるね〜。青春だねぇ」
グラウンドのほうを見ながら彼女が言う。
「何かに夢中になれるのって、すごくステキだよね」
「うん、あたしもそう思う」と続ける彼女。「なんか、こう……キラキラしてるっていうか、すごく輝いて見える気がする」
うん。
そうだよね。
すっごく、キラキラしてるよね。
夢中になれるって、すごくステキなこと。部活にしろ勉強にしろ、ひたむきに努力する人の姿って美しい。すっごくキラキラしてる。命が輝いてる気がする。
「生きてる、って感じするよね」
「あはは。そうかも」
笑みを浮かべながら、わたしの顔を覗き込む彼女。
「じゃあ、あたしも今キラキラしてるように見えるのかな?」
おや、と思うわたし。
「麻衣、なにか夢中になってることがあるの?」
「うん、あるよ」
日差しに反射するガラス玉のような瞳で、わたしの目をジッと見つめる麻衣。
目は口ほどに物を言う。
ときに、目は言葉よりも雄弁にモノを語るときがある。
麻衣の瞳は、多くのことを語っている。百の言葉よりも雄弁に、彼女が夢中になっているものが何なのかを語っていた。
それなら。
それなら、きっと。
わたしも、キラキラしてるかも。
「わたしも、麻衣と同じかも」
「えへへ、キラキラ仲間だねぇ〜」
にこにこと微笑む麻衣。彼女に笑顔を返したあとで、わたしは空を見上げた。
晴れ渡る空。
流れゆく雲の一群。
遠くのほうに見える入道雲が、季節の移り変わりを示している。
「もう、夏だね」
ひとりごとのように呟くわたし。
「これから、もっと暑くなるんだねぇ」
「そしたら、いっしょに海とか行きたいね?」
「あ、いいね! あたし、葵の水着姿みてみたい、な……」
だんだんと尻すぼみになっていく彼女。わたしが「どうしたの?」と訊くと、彼女は小さな声で「やっぱ、海はやめよう」と言った。
「え、どうして?」
「だって……葵のわがままボディ、ほかの人に見られたくないもん」
わがままボディて。
グラビアアイドルじゃないんだから。
「わたしが他の人に注目されたら、嫉妬しちゃう?」
「そりゃするよ〜! 葵は、もっと自分の武器に自覚的になるべきだよ!」
「でも、わたしだって麻衣の水着姿、ほかの人に見られたくないよ?」と続けるわたし。「麻衣のことは、わたしがひとりじめしちゃいたいから。わたしだけのものにしたいから」
「そ、そう?」
「うん、そうだよ」
「あ、ありがとう……?」
ふふ、と鼻を鳴らすわたし。
「どういたしまして」
よく熟れた桃のように、ほんのりと頬を赤らめる彼女。
もう、ヘンなところで照れ屋さんなんだから。
「……今年の夏は、楽しくなりそうだね」
言いながら、過去を回想するわたし。
ずっとずっと、たのしい夏を想像していた。『かわいい』を口にできる日を想像していた。空色のワンピースを纏い、麦わら帽子をかぶって、耳にはイヤリングを下げて……心のどこかで、そんな日が来ることを夢見ていた。絶対に訪れるはずのない未来を、ずっとずっと夢想していた。
でも、もう夢じゃない。夢を見る必要はなくなった。
わたしは、今を生きている。
最高に幸せな『今』を生きている。
わたしは今、女の子として生きてる。
「絶対、楽しくなるよ!」
となりを見ると、そこにはヒマワリのように明るい笑顔が。わたしの大好きな、麻衣の笑顔があった。
「絶対、なの?」
「そう、ゼッタイ!」と続ける彼女。「だって、葵と一緒なんだもん。きっと楽しくなるよ!」
一緒なら。
わたしたちが、一緒なら。
「そうだね」
夏が来る。
夏が来て、朝が来る。
これからもきっと、 "わたし" は何度も最高の朝を迎えることになるのだろう。そんな予感がする。なんどでも何度でも、 "わたし" は最高の朝をくり返していくのだろう。そんな予感がする。
最低を繰り返した "わたし" の朝は、もうどこにもないんだ。
「きっと、楽しくなるよね。ふたり一緒なら、きっと」
「うん!」
麻衣がわたしの手を引いた。
夏が待っている。
きっと、最高の夏が待っている。
陽に照らされる深緑。深まった緑を横目に見るわたし。風に吹かれた緑が、ダンスを踊るかのように揺れている。アスファルトに映し出される木漏れ日が、ゆらゆらと陽炎のように泳いでいる。
夏が来る。
麻衣と一緒に過ごす、最高の夏が。
わたしは駆け出した。
胸に湧いた空色の予感に期待を寄せながら、さきを行く麻衣と一緒にわたしも駆け出した。
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