第3話|鉛筆は努力を覚えていた


――きれいと丁寧のあいだで


 朝の空は軽い。遮光は薄く、風は仕様どおり穏やか。耳の二重音は遠い。


《——坊ちゃん。深呼吸》


 吸って、吐いて、机の角を三回。幼い頃からの落ち着き方だ。


「プリント回して〜」


 小テスト三連発の告知で、空気がわずかに沈む。


「優一の字、出題者に喧嘩売ってる。丁寧にね」


 さりなが笑い、悟が鉛筆をくるり。


「俺は字だけ最強。中身は置いてきた」


「拾え。俺は字を拾う」


 笑って受け流すと、ポケットのビニ傘がちいさく鳴る。——見てる。


 数学。人の字は温かく揺れ、AIの板書は冷たく完璧。俺の字は、そのどちらでもない。


 芯が尽きた。引き出しの奥から木の鉛筆を一本。六角は丸く、黄土の塗装は剥げ、雨上がりの教室みたいな匂い。


《——まだ、かけるよ》


 芯先から、しゃがれた声。誇らしげだ。


「……お前も喋るのか」


《ながいこと、かいてきた。まだ、かける》


 さりなが消しゴムを二つ差し出す。新品寄りと、角の丸いもの。迷わず、丸いほう。掌に置くと、ふわり。


《けすよ。すこしずつ。なぞるように》


 演習が始まる。鉛筆は濃く、紙の目に入る。数字の角度が揃い、筆圧が落ち着く。


《そこ、すうじがにげてる》


 「7」の払いが跳ねた。消しゴムが転がって合図。


《つよくけさないで。やさしく、なぞって》


 黒鉛は霞になって消える。跡は残る。でも邪魔じゃない。


《いいこ》


 当たり前みたいに褒められて、肩の力が抜ける。式が繋がったところで、鉛筆が囁く。


《おなじ圧で。“=”は息の長さ》


 線を置く。解が出る。


「……できた」


 悟が机を叩く。「優一の勝利の顔きた! 店長、勝利プリン!」


「購買に店長いない」


 さりなが覗き込む。「いつもより、字がまっすぐ」


《おれの功績にするな。きみが、がんばった》


 昼。悟は焼きそばパン、さりなは彩りの弁当。傘は椅子で、からん、と鳴る。


「字に年齢はある?」


「ある。整え方って、心の年齢」


 机の奥で、古い木が息をした気がした。


 夜。父の短い通知。【夕飯不要】。残り物を温め、机へ。鉛筆はさらに短く、消しゴムは角をひとつ丸くした。傘は隅で骨を伸ばす。


《きみの“いつもの字”、すきだよ》


「……同じじゃないのか」


《ちがう。きれいは他人のため。ていねいは、自分をたいせつにするため》


 胸に落ちた。俺は“きれいに書けない自分”を恥じて、“ていねいに向き合う”ことと混同していた。


《のこった跡は、つぎの線のための、みちしるべ》


 消した白が光の角度で浮かぶ。残ることは恥じゃない。残るから、迷わない。


 眠る前、傘が骨を鳴らす。《よわさじゃなくて、いたみを。すこしずつ、けす》


 夢。紙の雪が降り、黒い線が細い道を刻む。傘が遠くで数を数え、おじいちゃんが拍をとる。


《ほら。まっすぐ。こわがらない》


 黒は“名”の入口で止まる。動かしたら、呼んでしまう。


 朝。枕元の銀の蓋が半拍だけ揺れる。傘は壁で光を一枚抱いていた。


 机に座る。短くなった鉛筆は、短くなった自分を恥じていない。


《まだ、かける。なまえじゃなくて、きみの手からはじめよう》


 ノートの隅に、自分の名を書く。滝川。優一。角と角、払いと止め。線の間に、ひと呼吸ぶんの余白を置く。胸の雪が静かに解けた。


《よこ棒を、すこしだけ息させて》


 棒の途中で、微かに圧を抜く。見逃すほどの差が、線を人にする。


 学校。出席パネルは緑の40。角が一瞬揺れ、すぐ整う。チャイムは一度。耳の二重音は薄い。


「優一の顔、“テスト勝てる”顔だ」


 悟が笑い、さりながペン立てをとんとん。「焦らず。深呼吸」


 小テスト。鉛筆は紙を撫で、消しゴムが隅で見守る。途中で一問、詰まる。


《同じ圧で。“=”をやさしく》


 詰まりがほどけ、最後の行に解を書く。句点を飲み込み、筆圧を同じ高さで止めた。


《よくやった。いつもの手で》


 放課後。旧校舎の封鎖貼り紙は増え、斜線は二重。“処分予定”のシール。角の立った活字だけが、温度を拒んでいた。廊下の端から眺め、渡り廊下に戻る。


「帰り、本屋寄る?」とさりな。


「参考書?」


「紙のノート。方眼で、ちょっと良いやつ。練習は、紙から」


 悟は即答。「俺も行く! ノートは出会い!」


「食べ物みたいに言うな」


 本屋。紙の匂い。方眼の一冊が前へ浮かぶ。白すぎない白、青すぎない線。触れた指に、繊維がほどけず残る。


《いい》


 鉛筆が言い、消しゴムがうん、と息をする。傘は傘立てで小さく揺れた。


 帰り道、点検ドローンが低く飛ぶ。雨は降らない。けれど、空の機嫌は少し変わった。


 家。新しいノート。最初の升目に今日の日時。数字が逃げない。


《ひとつお願い。きみの名前を、もう一度》


 滝川。優一。字と字の間に、薄い間合い。線の芯に静けさが沈む。


《じゃあ、つぎは——》


 玄関で乾いた音。傘が壁に触れ、骨が一本、外れかけたみたいな微かな音。


《……だれか、よんだ?》


 耳を澄ます。何もない。けれど、旧校舎の粉の匂いが、いちどだけ蘇る。意識を戻し、鉛筆を持ち直す。


《“よぶ”の練習をしよう。名じゃなくて、かたち》


 方眼の升に、小さな“ミ”。座面に刻まれていた細い傷の形。右上の角を僅かに尖らせ、同じ線をなぞらない。消しゴムが端だけ撫でる。跡は薄い影になり、青と重なった。


《かたちは、うたない。うたないから、いる》


 意味は遅れて届く。名を言わずに在り処だけ示す方法。掌のくぼみに、昨日の型がまだ温存されている。


 夜更け、父の通知。【今日は遅い。無理するな】。返信欄に“わかった”と打って消し、“了解”と打って消し、空白に戻す。言葉は、ときどき、何もないほうがやさしい。


 眠りは浅い。方眼の青が闇に浮かび、拍に合わせて明滅する。消した跡が光り、線が静かに増える。四、五、六——息は揃う。


《——たきがわ》


 名の半分。昨日より、少しだけ近い。返事の代わりに、夢の紙へ“=”を置く。同じ圧、同じ長さ、同じ息。


 朝がほどける。出席パネルは、また40。けれど掌のくぼみには“型”が確かに残る。名を呼ばないまま、呼んでいる。呼ばないままで、守っている。


 きれいと丁寧のあいだに、細い橋がかかった。渡るたび、板はすこし軋む。

 軋みは音だ。音は、生きている証拠だ。

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