第2話|机はまだ名前を呼んでいる ――旧校舎の粉は、呼び名を隠す
朝のチャイムが鳴った。
——今日も、俺の耳だけ二重に。
黒板の出席パネルは40のまま。「はい」「おはよう」が流れて、悟が勝手に手を振り、さりなが俺の袖をつつく。
「昨日の傘、持って帰ったの?」
「……知らない」
「知らない顔は嘘の顔。濡れてたでしょ? タオル常備しな」
悟が割り込む。
「優一、お化けでも拾った? 俺、そういうの友達に一人は欲しい派」
「お前は何派なんだよ」
「祭り派」
どうでもいい会話で、耳の奥のざらつきを誤魔化す。ポケットの中で、ビニ傘の骨が小さく、かちゃりと鳴った気がした。
《——坊ちゃん。今日は静かに》
おじいちゃんの声は、やさしいけど、背筋を伸ばさせる。
午前の終わり、担任がプリントを配りながら言った。
「旧校舎の備品、文化祭前に整理。各クラスから代表二名、掲示板の看板を搬出。放課後」
旧校舎。メタバース全盛の頃に一度閉められて、今は実習と保管だけの暗い棟。廊下の突き当たりに立入禁止のテープ、その奥で、空調だけが細く生きている。
「行くなら俺だろ! 古い建物、似合うし」
悟はなんでも似合う顔をしている。
「優一も行くよ。力仕事、任せた」
さりなが当然の顔で俺を指名した。
「旧校舎、危ないからちゃんと二人で。勝手に奥まで行かない」
行かない。——行かない、つもりだった。
放課後。人工の午後は、いつも等分の明るさだ。旧校舎へ続く渡り廊下の照明は一本おきに点灯していて、欠けた光が床に縞を作る。
黄色いテープを跨いで、重い扉を押す。空気が変わった。乾いた紙と、粉の匂い。誰もいないのに、教室が“息をしている”。
「うお、雰囲気三割増し。帰りたくなってきた!」
「看板だけ取って出る。五分」
教室の中は、机が等間隔に並んでいた。誰も座らない席。誰も使わない引き出し。天井のパネル越しに、ドームの光が粉塵を浮かび上がらせる。
粉が光を薄い膜にして、呼び名だけを隠した。
——ひとつの机だけ、色が違って見えた。
表面が少し黒く、角がすり減って丸い。椅子は寄せられず、きちんと机の腹に収まっている。腿のあたりに、消し跡の重なった白い傷。
《……ここ》
息がひゅっと浅くなる。悟は看板を外しながら、無意識に鼻歌。俺は気づかないふりをして、気づく。
引き出しに指先をかけた。木の膨らみが抵抗して、ぎし、と鳴る。中は空っぽ——に見えた。けれど、紙一枚分の薄さで、なにかが貼り付いている。
爪でそっと剥がす。黄ばんだ紙。角がちぎれた名札。
《出席番号 12 ——》
名前のところだけ、削られて消えていた。ただ、姓の最初の一画が、鉛筆の窪みでかろうじて残る。読み取れない。読めたら、なにかが確定してしまう予感がした。
《……すわって》
椅子が、わずかに俺の方へ動いた。あり得ない。足のゴムが床を擦る音が、やけにゆっくり聞こえる。
「悟、終わったか」
「あと一枚! 優一、そっちなんかあった?」
「何もない」
いつものように即答して、目だけ机に吸い寄せられる。座面に、細い線で「ミ」のような傷。ベルトの金具の癖みたいな、生活の跡。
(……座るだけ)
そう言い聞かせて腰を下ろす。木の温度が、時間の向こう側からじわりと上がる。脚が微かに震え、机の下で靴の先が触れ合った。
《ここに、いる》
どこにもいないのに、机の“中”から落ちてくる声。耳じゃなくて、膝の裏や背骨の間に直接触ってくる。
「——誰?」
言葉がこぼれて、舌の先で固まる。言った。俺が言った。線を越えた音が、口の中に残る。
《なまえ、よんで》
「……読めない」
《よんで》
名前を呼ぶという行為に、命が宿る。ここでは、呼んだ瞬間に“いる”になってしまう。
《こわくないよ、坊ちゃん》
おじいちゃんの声が、机の上の空気をやわらかく押した。「呼んでやりなさい」でも「やめなさい」でもない。任せる声。ずるい。
「……」
呼ばなかった。代わりに、名札を引き出しへそっと戻す。紙が木に触れる音が、なぜか嬉しそうに響いた。
《すわってくれて、ありがと》
椅子の脚がほんの少しだけ沈む。“そこにいた誰か”の形に、座面が合っていく。
悟が大声を出した。
「よーし回収完了! ……って、あれ?」
扉の向こうから、硬い足音。規則正しい、訓練された歩幅。管理局の腕章。廊下のガラスに、赤いラインが二本、影になって揺れた。
赤いスタンプを無言で掲げ、俺たちの胸元と机列を一度ずつなぞって去った。
悟が看板を抱えて振り返り、慌てて頭を下げる。
「すみません! 先生から搬出を頼まれて!」
俺は椅子から立ち上がり、机の角を一度だけ撫でた。木目の溝に、指の腹が引っかかる。肌と木のあいだに、言葉にならない「またね」を挟む。
教室を出る直前、振り返る。列の一番手前、色の違う天板。誰も座らない席が、確かに“こちらを見ている”。
《——また》
扉の閉まる音に紛れて、ひとことだけ、届いた。
渡り廊下を戻る。さりなが腕を組んで待ち構える。
「危ないから奥に入るなって言ったよね?」
「入ってない」
「顔。嘘の顔」
悟が笑って、看板を掲げる。
「戦利品ゲット! さりな、褒めて」
「はいはい、偉い」
日常が戻る。俺の靴だけ、まだ古い床の粉を踏んでいる音がする。
教室に荷物を置く。出席パネルが視界の端に入った。緑の40が、ちらりと一瞬だけ減る。
《39→40》
ほんの刹那。——誰も気づかない。
胸の奥が冷たくなる。引き出しから出して、戻した名札の手触りが、まだ指に残っている。
掌のくぼみが膜の裏から押されるみたいに、呼び名の型を保った。
家。玄関でビニ傘の水を切る。骨がかすかに鳴って、透明な皮膚が灯りを弾く。
《あのき、すわった。よかったね》
「——見てたのか」
ビニ傘は、得意げにきしんだ。笑いそうになって、やめる。笑うと、線がまたひとつ、消える気がする。
夜、ベッド。目を閉じると、旧校舎の粉塵が光の粒になって漂う。座面の「ミ」に似た傷が、暗闇で薄く光る。枕元の銀の蓋は、黙って閉じたまま、こちらを向いている。
《……滝川——》
名前の半分だけが呼ばれて、途切れた。眠りに落ちる直前の、あの無音の隙間。“誰か”の声がそこで息をひそめる。
(呼べない)
まだ、呼べない。呼んだら、戻れなくなる。
胸の真ん中で、古い木の温度が、ゆっくり、残った。
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