番外編 地獄ミックスバー クラブ愛染
愛に二種あり。一は餓鬼愛、二は法愛なり。
仏は経において、そう説いた。
人の欲は留まる事を知らず、常に飢渇する。しかし、その苦は誰しも自然と持つものである。
煩悩即菩提。
手放せぬものが、人だけでなく、神にも仏にもあった。
地獄の三階層。衆合地獄。邪淫に耽った亡者も堕ちる地獄。
その片隅の路地裏、細い階段を上がった先にその店はある。扉に掛かった看板には、鮮やかな紅色で「愛」の一文字。知る人ぞ知る、あの世の隠れ家。
扉を開ければ、白檀と熟れた果実が混じったような、甘い香りが漂って来る。カウンターと、四人掛けのテーブル席が二つ。薄暗い店内には、会話を邪魔しない程度のゆったりとしたBGMが流れる。
夜の帳が下りる時に開店する、愛染明王の浄土。
その名も
《神仏MIX bar 〜Club 愛染〜》
地獄の鬼も天部の神も、皆が“姐さん”と呼ぶ存在。声は低く、笑いは豪快。
そんなこの店のママ、愛染明王はカウンターの奥でグラスを拭きながら、氷を割る。三面六臂、六本腕の身体は、バーカウンターで仕事するのに丁度良い。
その時、店のドアのカウベルが鳴る。控えめにドアを開けた向こうに、小さな影が立っていた。
「いらっしゃい……あら!」
「あの、こんばんは」
天望が周りを見渡しながら、恐る恐る店内へやって来る。愛染はグラスも氷も置いて、天望の元へ駆け寄った。
「極楽ガール! 本当に来てくれたの!? 嬉しーっ!」
「この間結局来損ねちゃったので……」
「いいのいいの! ゴメンねあの時アタシ酔っ払って悪ノリしてたわね! 座って座って!」
愛染に手を引かれるまま、天望はバーカウンターの高い椅子に腰掛ける。慣れないネオンの明かりにそわそわしながら、興味深そうにメニューを広げた。
「アンタ酒飲めるの? あ、仏教徒ってダメだっけ?」
「あ……いえ、うちはその、大丈夫な宗派でしたし、ゆるかったので。飲めます」
「あ、そーなの。釈迦がアイツ一滴も飲みゃしないからそうなんだと思ってたわ。なんか色々あんのね」
愛染が愚痴のように吐き捨てると、天望は少し笑った。
それから、酒のメニューに並んだカクテルの名前を唸りながら眺めている。
「おまかせでも良いわよ。アタシが適当に作ってあげる。甘い方がいい?」
「あ、じゃあそれで! 甘いの好きです」
「おっけー♡」
いそいそと冷蔵庫からいくつかの割りものと、後の棚から酒の瓶を取り出す。その様子を見ながら、天望はハッとした。
「あ、愛染明王も……飲まれますよね。どうぞ」
「ヤダアンタ、そんなのどこで覚えてきたの! 気使わなくてイイわよぉ。アタシ女の子からそんなドリンク貰わなくていいんだから。野郎からは貰うけど」
「いいえ、その、どうぞ」
いじらしくて涙が出そうになる。愛染は上機嫌でグラスに氷を入れ、マドラーで軽く回した。
「……で、アンタ、うまく行ったわけ?」
「あ……えへへ……はい」
「ンギャーーッッ!!! マジでェ!?!?」
グラスを放り出すんじゃないかと思うほど揺れた愛染は、カウンターから身を乗り出して天望に近付いた。それでも酒を作る手は止めないのがプロだ。
「おめでとぉ!!! ヤダァ!! 本当にぃ!?」
「はい、あの、今日も炎獄の家行く予定なんですけど、残業長引いたらしいので、待ってる間、ここに」
「あっそういう事!? お家行くの!? ちょっとあんた、もーー!!!」
愛染は余った腕でぱちぱち拍手する。天望は顔を赤らめながら、照れ臭そうに顔を覆っていた。
愛染はにまにまと笑いながら、天望の前にグラスを差し出す。縁にレモンスライスが飾られた、薄い金色の一杯。
「わあ可愛い……」
「天望ちゃんイメージ♡」
「え、嬉しいです。いただきます」
天望が一口つけると、最初にふんわりと桃とジャスミン茶の香りがした。それから、後味に梅の酸味。甘過ぎなくて飲みやすいが、何だか妙に場末のスナックみたいな味わいだった。
「あんた見た目天女なんだけどね……ヤニカスギャンブル狂らしいから……そんでしかも鬼の女になったんでしょ……ちょっと清純すぎない方向に寄せたわ……」
「あれっなんか私の評判がおかしなことに!?」
「褒めてる褒めてる。あ、吸っていいからね灰皿あるから」
「お、お気遣いどうも……」
天望が複雑そうな顔でちびちび飲むのを見ながら、愛染ははーっと息を吐いて、感慨深そうに呟いた。
「そう……やっとねぇ……アイツ、本当アンタの話しかしなかったんだから……」
「……えっ」
「そうよぉ。酔っ払ったらアイツ、天望が天望がって、もう胸焼けするかと思ったんだから」
「え、え、あの……すいませんその話、詳しく貰ってもいいですか」
「聞きたがりィ♡」
愛染が自分のグラスを天望とかちんと合わせる。そしてカウンターに肘をつきながら、思い出すように話し始めた。
「ま、大体閻魔と来るんだけど……まず最初にアンタの笑顔が可愛いって惚気から入るでしょ……それから、『俺はあいつ無しで生きていけない』が始まって、次が大体『飯の味見してって言われるのたまらん』か、『おかえりなさいって言われると疲れ全部吹っ飛ぶ』のどっちか。そんで最後は大体『なんで掛け軸とかになってねえんだ早く描け北斎』ってわけわかんない事言ってるわ」
「な、何ですかそのルーティン……」
「いや本当にこれしか喋んなくなるのよアイツ。シラフだと閻魔と真面目に裁判の話してんだけどね?」
天望は首まで真っ赤にしながら俯いていた。第三者から聞かされる惚気は、本人から言われるより数倍効く。
愛染がそれをつまみにウイスキーを喉に流し込んだ時、店のカウベルが鳴った。
「天望いるか?」
「あ、炎獄」
天望が炎獄を見て、ぱっと顔を明るくした。炎獄も天望の姿を確認するやいなや、ふわりと力が抜けて鬼の眼差しが柔らかくなった。
「悪い、遅くなった」
「ううん、大丈夫です。愛染明王と話してました」
「そっか。何話してたんだよ」
炎獄がそう言うと、天望は愛染と目を合わせて、ふたりで笑う。
「秘密です」
「秘密よねぇ」
「……なんだよ……」
炎獄は訳がわからないと言いたげな顔をしながら、愛染に会計を渡すと、天望の手を引いて店を出た。
寄り添って歩く2人の背を見ながら、愛染はタバコに火をつけて肺まで吸い込むと、細く長く吐き出した。
階段の下で、天望と炎獄の笑い声が聞こえてくる。
「上手くやんなさい、かわい子ちゃん達。アタシはいつでもここで話聞いてあげるから」
ネオンが揺れ、アルコールが喉を焼く。愛も欲も、ここでは誰も咎めない。
ここは二丁目、地獄の極楽。
夜はまだ始まったばかりだ。
――――
【本日のカクテル】
天望天イメージカクテル「賭天女」
ピーチリキュール
梅シロップ
レモン汁
ジャスミン茶
レモンスライス(飾り用)
見た目と香りは清純派天女。飲んでみると「ジャスミンハイだこれ」になる若干俗っぽカクテル。グラスの淵に飾っレモンスライスは天望が見上げた月をイメージ。
極楽、晴れのち業火 天野翠里/Midori Amano @amanomidori
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