第19話 聖域の『繁盛』と、忍び寄る『残滓』
リュウさんと「いつか、故郷へ」という静かな約束を交わした、あの夜から、
帝都での一件は、猫又の一族とハルピュイアのライラさんが流した「噂」を、確固たる「事実」として大陸中に広めてしまったらしい。
「聖女様ー! リュウさーん! お届けものだにゃ!」
宿屋の呼び鈴が鳴るよりも早く、小さな影が扉から飛び込んできた。二本のふさふさした尾を揺らす、猫又のタマちゃんだ。
あの日、私たちが家族の元へ送り届けて以来、タマちゃんは「恩返しだ」と言って、一族の住処である「白糸の滝」と、この宿屋を往復し、
「今日は、西のエルフの里から、『
「……ああ。助かる、タマ。帰りに『まかない』のクッキーを持って行け」
「やったー!」
厨房では、リュウさんがタマちゃんの頭を無造作に撫でながら、届けられたばかりの希少な清風の葉を、真剣な目で見定めている。
あの帝都での戦いを経て、リュウさんは、少しだけ「感情」を表に出すようになった気がする。特に、タマちゃんやガノスさんといった、この宿の「仲間」に対しては。
「おう、聖女様! ちょうどいいところに!」
今度は、地下から、地響きのような声がした。ドワーフの棟梁、ガノスさんだ。
「ちょっと味見してくれや! こないだ完成した『飲む温泉』を、地下の『氷室』で寝かせたら、とんでもねえ『酒』ができちまった!」
「わあ、お酒ですか!?」
「ああ! 聖女様の菜園の『聖女ブドウ』も使った! こいつはドワーフ族以外には強すぎるかもしれねえが……!」
ヴォルグさんは傭兵の仕事で数日は戻らないようだが、その代わりに、エルフの行商人さんが定期的に珍しい食材を持ち込み、ガノスさんが宿の設備を(勝手に)拡張していく。
私は、その合間に、奇跡の菜園を広げ、リュウさんが開発する新しいメニューの「試食」をする。聖女の《浄化》の力は、今や、この宿屋の運営と、お客様の癒しのために、毎日フル稼働していた。
この宿屋は、もはや、ただの「湯治場」ではなかった。傷ついた
私は、厨房で、リュウさんが料理の研究をしている姿を、カウンター席から眺めるのが好きだった。彼は今、あの日、私に振る舞ってくれた「故郷の燻製」の、改良に取り組んでいた。
氷帝陛下にもらった『氷結の宝箱』から、完璧な鮮度を保った「黒イノシシの肉」を取り出す。それを、私の菜園のハーブと、彼が独自に調合した岩塩に漬け込む。そして、彼の力の源である《
(……すごい。あんなに強大な炎を、あんなに繊細に……)
彼は、トラウマを克服したことで、自分の「竜の力」を、より精密にコントロールできるようになっていた。それは、彼が「料理人」として、さらなる高みに登った証拠でもあった。
「……セレスティア」
私がうっとりと見惚れていると、リュウさんが、できたての燻製を薄く切り分け、私に差し出してくれた。「『試食』だ。……前回のものより、ハーブの香りを強くした」
「は、はい!」
私は、その一切れを口に運んだ。口に入れた瞬間、豊かなハーブの香りが鼻に抜け、噛みしめると、凝縮された肉の旨味が、彼の「炎」の温かさと一緒に、じゅわ、と溢れ出す。帝都で食べたものより、さらに美味しくなっている。
「……美味しい、です! すごく……懐かしい味がします」
「……そうか」
リュウさんは、私の返事に満足したのか、残りの燻製肉を『氷結の宝箱』に仕舞い始めた。それは、すぐに食べるためではない。いつか、彼の故郷……「竜の谷」へ向かう日のための、「保存食」として。
私は、その光景を、ほんの少しだけ、複雑な気持ちで見つめていた。
リュウさんが、自分の
その時、私は、彼に「一緒に行きたい」と言えるのだろうか。
(……ダメダメ!)
私は、
「リュウさん! そろそろ、ガノスさんたちのお昼ご飯の準備をしないと!」
「……ああ。騒がしくなる前に、済ませるか」
私が、いつもの日常に戻ろうと、席を立った、その時だった。
チリン、チリン、チリーン!! 宿屋の呼び鈴が、けたたましく鳴り響いた。タマちゃんやエルフさんの時とは違う、緊急事態を告げる、乱暴な音。私とリュウさんが顔を見合わせる。
バンッ!! 扉が、蹴破るような勢いで開かれた。そこに立っていたのは、
「ヴォルグさん!? どうしたんですか、その怪我!」
「……はぁ、はぁ……! 聖女様、リュウ! ……ちくしょう、間に合ったか……!」
彼は、ロビーに転がり込むと、私たちが駆け寄るのも構わず、叫んだ。
「……森が、おかしい」
「森が?」
「ああ。ここ数日、魔物どもが、妙に凶暴化してる。それだけじゃねえ。……まるで、何かに『指揮』されてるみてえに、組織だって、この
「なんですって!?」
ガノスさんも、地下からただならぬ気配を感じ取ったのか、大きなハンマーを担いで駆け上がってきた。
「ヴォルグの旦那! そりゃ、どういう……」
「わからねえ! だが、俺の傭兵仲間が、森の奥で足止めしてる! ……数が多い。尋常じゃねえ!」
ヴォルグさんの報告に、宿屋の空気が一瞬で張り詰めた。帝都から戻って以来、最も緊迫した瞬間だった。その時。
「……!」
リュウさんが、目を見開いて、開け放たれた扉の外……辺境の森が広がる方向を、鋭く睨みつけた。彼が、何かを「嗅ぎつけた」。
「……リュウさん?」
私も、彼の視線の先を追う。ハルピュイアのライラさんがかけてくれた「守護の風」が、森の方から吹いてくる。その風は、いつもなら、清浄な空気と、木の葉の匂いを運んでくるはずだった。なのに、今、その風に乗って運ばれてきたのは。
(……この、匂い……)
私の《浄化》の力が、私の体の中で、警鐘を鳴らす。それは、帝都の玉座の間で、私が絶望した、あの匂い。
「……まさか」
リュウさんが、絞り出すように言った。その紅蓮の瞳は、ヴォルグさんの背後に広がる森の闇を、射抜くように見つめていた。
「……この気配。間違いない。帝都で、俺たちが『浄化』したはずの、あの『魔瘴』の……残り香だ」
ヴォルグさんが言った「指揮」の正体。魔物が、この聖域を目指す理由。帝都で倒した魔瘴は、「本体」ではなかった。そして、その「本体」が、今度は、私たちの「日常」そのものである、この「辺境の聖域」を、喰らおうと近づいてきている。
私とリュウさんが交わした「いつか、故郷へ」という約束が、予想もしない、最悪の形で、試されようとしていた。
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