第18話 聖域の『日常』と、故郷の『味』
帝都から戻り、ガノスさんたちと盛大な宴会を開いた、その翌朝。私は、いつもより少しだけ早く目が覚めた。
天上の間から差し込む、穏やかな朝日に、ハルピュイアのライラさんがかけてくれた「守護の風」が、きらきらと舞っているのが見える。夢ではない。私は、あの「辺境の聖域」に、帰ってきたのだ。
階下に下りると、厨房からは、まだ音はしていなかった。あれだけの往診と祝勝会と続いた激務の後だ。リュウさんも、まだ休んでいるのかもしれない。
(……よし)
私は、こっそりと厨房に忍び込んだ。帝都では、リュウさんに助けられっぱなしだった。彼がトラウマと戦っている時も、私ができたのは、手を握って、言葉をかけることだけ。でも、今は違う。私は、この宿の「女主人」で、彼の「相棒」だ。今朝こそは、私がリュウさんのために、
私は、奇跡の菜園から、一番みずみずしい「聖女レタス」と、甘みの強い「陽光トマト」を摘んできた。
厨房に戻り、リュウさんがいつも使っている包丁を、恐る恐る手に取る。
(う……重い)
彼が、まるで自分の手の一部のように操るそれは、私にとっては、まだ少し手に余る道具だった。それでも、私は、この数ヶ月、彼の手際を見て盗み覚えた技術で、野菜を刻んでいく。パンを焼き、卵を……と思った、その時。
「……セレスティア」
背後から、低く、寝起きで少し掠れた声がした。
「ひゃっ!?」
私は、変な声を出して飛び上がった。いつの間にか、リュウさんが厨房の入り口に立っていた。その紅蓮の瞳が、私が握りしめている包丁と、まな板の上の、不揃いな野菜たちを、じっと見つめている。
「あ、あの、おはようございます! これは、その、いつもお世話になっているお礼と言いますか……!」
私が慌てて言い訳をすると、リュウさんは、ふぅ、と一つ、大きなため息をついた。怒られる……!そう思って身構えた私の前から、リュウさんは、無言で包丁を取り上げた。
「……火が通る速度が、バラバラだ」
「う……」
「トマトは、そう切ると、旨味が外に逃げる」
「あう……」
「……座ってろ。朝飯は、俺が作る」
彼はそう言うと、私の不揃いな野菜たちを、彼の手で、あっという間に完璧な大きさに切りそろえ、フライパンへと放り込んだ。
ジュウ、という小気味よい音と、香ばしい匂いが立ち上る。結局、私の「お礼」は、またしてもリュウさんの手を煩わせる結果になってしまった。
「……すみません。お邪魔でしたね」
私がカウンター席に座ってしょんぼりしていると、リュウさんは、熱々のオムレツと、私の切った野菜のスープを、私の前に置いてくれた。
「……別に」
「え?」
「……朝から、お前の元気な音がして、悪くなかった」
彼はそれだけ言うと、自分の分の朝食を口に運び始めた。その横顔は、帝都へ行く前と何も変わらない、ぶっきらぼうな料理人の顔。けれど、私は知っている。彼が、今、心の底から「日常」に戻ってきたことを、安堵していることを。
「……はいっ! いただきます!」
私は、今度こそ泣き出しそうになるのをこらえて、最高の朝食を頬張った。
その日の午後、宿屋の呼び鈴が、チリン、と軽快な音を立てた。帝都での一件以来、猫又の一族が流した「噂」と、ライラさんが奏でる「風の歌」のおかげで、この聖域を訪れる客は、引きも切らなかった。もちろん、そのほとんどは、癒しを求める人外たちだ。
だが、今日やってきたのは、懐かしい顔だった。
「やあ、聖女様! 料理人殿! また素晴らしい『品』が入荷しましたぞ!」
翡翠の瞳を持つ、エルフの行商人さんだった。彼は、以前よりもずっと大きな荷物を背負い、ニコニコと笑っている。
「例の『氷帝陛下』の一件、拝聴しました。いやはや、素晴らしい! おかげで、北の帝国との
「そして……料理人殿。約束の品です」
彼が荷物から取り出したのは、氷帝陛下にもらった『氷結の宝箱』……とはまた違う、魔術的な「保冷箱」だった。「これまでは、鮮度の問題で、辺境くんだりまで運べなかった、逸品ですぞ」
彼が箱を開けると、そこには、銀色に輝く、美しい「魚」が、氷漬けになって並んでいた。
「西の海でしか獲れない、『
「……」
リュウさんが、ゴクリ、と喉を鳴らしたのを、私は見逃さなかった。彼は、すっと前に出ると、保冷箱の中の魚を手に取り、そのエラや鱗を、真剣な目で見定めている。
「……鮮度は、悪くない。だが、このままでは、こいつの『神髄』は引き出せん」
リュウさんは、厨房の奥から、あの『氷結の宝箱』を持ってきた。そして、エルフさんから月光魚をすべて買い取ると、その宝箱の中へと移し替えた。蒼い光が魚を包み込み、その鮮度を「水揚げされた瞬間」の、完璧な状態へと固定する。
「……エルフ。今日は、泊まっていけ」
「おや?」
「……今夜、こいつの『本当の味』を、食わせてやる」
リュウさんの紅蓮の瞳が、最高の食材を前にした料理人として、燃え上がっていた。帝都での一件は、彼からトラウマを奪い去っただけでなく、彼の「料理人」としての探求心に、さらに火をつけたようだった。
その夜の食堂は、かつてないほどの賑わいを見せていた。
リュウさんの「新作料理」の噂を聞きつけ、ガノスさんたちドワーフも、ヴォルグさんと、彼が連れてきた獣人の傭兵仲間たちも、食堂に集結していたからだ。
「おい、リュウ! 魚だぁ? 俺は肉が食いてえんだが!」
ヴォルグさんが文句を言う。
「うるせえ! リュウの旦那が作るもんに、ハズレがあるか!」
ガノスさんが怒鳴り返す。エルフの行商人さんは、その騒がしささえも楽しむように、優雅にお茶を飲んでいる。
「……待たせた」
厨房から、リュウさんが大皿を運んできた。その上に乗っていたのは、焼いたのでも、煮たのでもない。『氷結の宝箱』で完璧な鮮度を保たれた月光魚を、リュウさんが、彼の神業的な包丁さばきで「刺し身」……薄造りにしたものだった。
半透明の身が、皿の上で、淡い光を放っている。
「……美しい」
エルフさんが、思わず呟く。
「なんだ、生かよ……」
ヴォルグさんが、がっかりしたように、一切れを口に放り込む。次の瞬間、ヴォルグさんの狼の耳が、ぴん! と逆立ち、尻尾が嬉しさに破裂しそうなくらい、左右に振られた。
「……な、なんだこりゃあああ!?」
「「「!?」」」
「口の中で! 魚が! ……溶けて、飛んだ!!」
ヴォルグさんの意味不明な絶叫に、ガノスさんも、私も、恐る恐るその一切れを口にした。
……! ヴォルグさんの言う通りだった。噛んでいない。なのに、舌に乗せた瞬間に、魚の身が、極上の「旨味」と「甘み」だけを残して、すうっと溶けて消えていく。こんな食感、食べたことがない。これが、幻の『月光魚』の、本当の力……。
「……『氷結の宝箱』と、俺の包丁。それと、セレスティアの菜園の『浄化ハーブ』を使ったソースがあって、初めて完成する一皿だ」
リュウさんが、静かに言った。聖域の「すべて」が詰まった料理。客たちは、皆、無言で、夢中になって、その奇跡の味を堪能していた。
宴が終わり、常連たちがそれぞれの部屋に引き上げた後。私は、リュウさんと二人、厨房で片付けをしていた。
「……美味しかった、です。本当に、びっくりしました」
「……ああ。あれなら、商品になるな」
リュウさんは、満足そうに包丁を拭いていた。そして、彼は、ふと、あの『氷結の宝箱』を、愛おしそうに撫でた。
「……セレスティア」
「はい?」
「……食ってみるか」
「え?」
リュウさんは、そう言うと、宝箱の奥から、今日の宴には出さなかった、別の「試作品」を取り出した。それは、ヴォルグさんたちに出していた『黒イノシシの肉』を、何か特殊なハーブと岩塩に漬け込み、低温の炎で、じっくりと「燻製」にしたもののようだった。
「……これは?」
「……故郷で、よく食っていた『保存食』だ」
リュウさんが、ぽつりと言った。
「……竜族は、本来、あまり調理をしない。だが、俺は、違った。……これは、俺が、昔……まだ飛べていた頃に、谷の仲間たちに振る舞っていた料理だ。……『岩トカゲ』の代わりに、黒イノシシの肉を使ったがな」
彼は、その燻製を薄く切り分け、私に差し出した。私は、それが、彼にとって、どれほど大切な「一皿」かを理解した。トラウマを克服した彼が、初めて、自分の「
私は、その一切れを、ゆっくりと口に運んだ。複雑なスパイスの香りと、凝縮された肉の旨味。そして、彼が操る「炎」の、優しい温かさが、口いっぱいに広がった。それは、彼が「竜」であり、「料理人」であることの、証の味だった。
「……美味しい、です」
私は、涙が出そうになるのをこらえて、最高の笑顔で言った。
「すごく、すごく、美味しいです。……リュウさん」
「……」
「いつか、本物の『岩トカゲ』でも、これを食べてみたいです。……リュウさんの、故郷で」
私の言葉に、リュウさんは、一瞬、驚いたように目を見開いた。紅蓮の瞳が、優しく揺れる。彼は、私から目をそらさずに、静かに、でも、はっきりと頷いた。
「……ああ」
その短い返事が、「いつか、必ず二人で行こう」という、何よりも強い「約束」に聞こえた。運命の糸なんかなくても、私たちは、こうして、新しい「未来」を、一緒に紡いでいくのだ。
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