第19話 再会
ドーナツ屋さんには余裕を持って十二時過ぎに着いた。
「久しぶりね」
まだ十二時半前だけれど僕たちは再会した。母に会うのは母が家を出て行ったきりなので、実に九歳以来だ。
「久しぶり」
気まずくて目が合わせられない。母が僕を見つけられなかったら困るかと思ってドーナツ屋さんの前で立って待っていたので少し寒い。
「寒かったでしょう、早く中に入ろう。母さんがあったかい飲み物とドーナツ買ってあげる」
「別に自分で買うよ」
ぶっきらぼうに言い放ってドーナツ屋さんの戸を開けた。母が中に入るのを待って僕も中に入る。店内は明るくてショーケースの中できらきらとドーナツが輝いていた。
「こういうときは甘えなさいってうちの子は教わらなかったのかしら?」
にこにこと微笑む母は昔のまま変わっていなくて余計に顔を見られない。
「じゃあ、これとこれ。それとカプチーノ」
「良いわね。私もそのドーナツにしようかな」
久しぶりであることを感じさせない母の立ち振る舞いにどうも戸惑ってしまう。僕と父を裏切って出て行った分際で何を今更母親面しているのだろう。
本当に一銭も払わないまま母が注文し終えて、僕たちは席についた。
気まずそうにドーナツがお皿の上に盛り付けられている。僕のカプチーノと母のカフェラテが遅れてテーブルへ運ばれてきて漸く僕らは沈黙を破った。
「どこから話そうか」
母が僕の様子を伺うみたいに僕の顔を覗き込んだ。
「僕が生まれてくる前から」
「そうね、篝は本当にあの人に似てるもの」
ああ、やっぱり最悪だ。胸がざわつく。
「母さんのこと恨んでてもちゃんと会ってくれて有難う」
「別に」
僕と父を置いて出ていったあの日とほとんど変わらない容姿で僕に微笑みかける。
「母さんがあの人————エルヴィンというのだけど————と出会ったのは大学生のときでね」
僕は覚悟を決めるために温かいカプチーノを飲んだ。
「エルヴィンは海洋生物の研究をしてて、日本にはその一環で留学に来てた。最低限しか日本語が話せなくて、母さんがそれをいつも助けてたの」
「でも付き合ってたわけではなかった、と」
しかし、もし大学生の頃から二人が付き合っていたならそもそも父と母が結婚することもなかっただろう。
「ええ、そうよ。その賢いところは隼さんそっくりね」
面白いことを言うものだ。僕と父は全くの他人であることは母が一番よく知っているのに。
「彼が祖国へ帰っても私たちはときどき連絡し合うくらいの仲で、隼さんと結婚したことも報告していたくらいそういう雰囲気はなかった」
「それで?」
「エルヴィンは帰ってからも日本語を勉強していたみたいで日本へ引っ越すと言い出したから、久しぶりに会うことになって」
ああ、そこで、
「私たちはすっかり相手に夢中になってしまった。悪いことだとは頭で分かっていてもどうにもできなかった」
父はそんなこととは何も知らずに母の妊娠を心底喜んだという。母は既に父への恋情を失ってはいたが、パートナーとして信頼していたのには変わりなく、そういった行為も許していたため父が気づくことはできなかっただろう。
「そして篝が生まれて、初めて隼さんはエルヴィンの存在に気がついた」
最低だ。優しい父のことだから、慌ててもきっと母の体調を一番に考えたはずだ。
「隼さんは私の話をちゃんと聞いて篝を自分の子供として育てる代わりにエルヴィンとの関係を切ることを要求した」
「当たり前だね」
「そうね、それで私たちは別れた。篝との日々は目まぐるしく過ぎて、邪な考えは全然湧かなかったの」
母がカフェラテを二口飲んだ。そしてドーナツを小さく割ってそのうちの一欠けらを口に運び入れた。
「篝が八歳の誕生日を迎えた夜、エルヴィンから連絡があった。もちろん無視しようと思ったのだけれど、どうにもその内容が篝への誕生日メッセージで、感謝の言葉を送り返すくらいは大丈夫だと思ってしまった」
やはり僕が父を不幸にした。いつだって僕が引き金なのだ。
「それからは一年後に離婚するまでは早かったわ。隼さんに追い出されるようにして家を出てエルヴィンの家へ上がり込んだ」
「やっぱり僕が自分と父さんをめちゃくちゃにしてたんだ」
笑えてくる。
「いいえ、篝がいなかったら隼さんは私と連絡なんて取ってくれなかったでしょう。あなたの存在が確かに引き留めてくれていたのよ。信じてくれないかもしれないけど、私は違う意味で隼さんが大切だったし、篝のことなんてもっと大事に思っていた……私の命をあなたにあげられるくらい」
「それは言い訳だ。僕も母さんも父を苦しめたことに変わりない。僕らが大切だったなら、誠実な方法で僕たちとの関係に終止符を打つべきだった」
もしも母が真っ当な方法で父と離婚し、別れていたのなら僕がこんなに人間不信を拗らせることもなかった。
「そうよね、私が中途半端だったから、二人を……」
母は無理やり微笑みながらまだ半分も飲んでいないカフェラテを見下ろした。
「僕が小学校で何て言われてたか知ってる? 気にしたことある?」
少しだけ滲んだ僕の視界に母の顔が映る。
「日本人から生まれた宇宙人、だよ。その後二人が離婚したこともなぜか広まって、僕はみんなを不幸にするんだって全員に無視されて。先生も誰も助けてくれない。毎日周りにそう言われるせいで父さんに申し訳なくなって相談もできない」
「そんな……」
微笑むことをすっかり忘れた母は整えられた眉毛を顰めて八の字にする。
「文字通り地獄だったよ。何度も何度も逃げ出したいと思った。何度も死にたいと」
「母さんの、せいなのね……」
「いや最初は母さんのせいだったかもしれない。でもそれをどうにかしようと足掻かなかった僕だって同じくらい悪いんだ。僕が僕を諦めたから」
そうだ、元は母のせいだった。それでも僕が僕を諦めたあの小学三年生の夏に僕も共犯となった。両親が初夏の頃から何やら言い争うようになって、心が死んでいく感覚を覚えた。それでも僕は何もしなかった。二人が正式に離婚する頃にはもう何も感じないように自分を守っていたのだ。
結局全ては僕が招いたことだ。母に対する憎悪もただの責任転嫁だろう。
「ごめんね、篝……ごめん…」
もう良いんだよ、母さん。
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鯨の前に片割れになりたい 羊鳴春 @youmei_shun
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