第28話 沈黙の森核へ踏み込む者たち

 桜精院の大講堂は、ふだんの授業のときよりも静かだった。


 窓はすべて開け放たれ、冷たい森風が木の匂いと一緒に入り込んでくる。

 長机は中央に向かって半円を描き、その外側には椅子がぎゅうぎゅうに並べられていた。


 市政、商会、桜盾、冒険者ギルド、森の民。

 そして、見届けるために集まった市民たち。


 壇上の黒板には、すでにユーマの字で大きく書かれていた。


 ――《第二次・森境界合同調査隊》


 ユーマは、板書の下に三つの太い線を引く。


「まず、状況の確認から始めます」


 声は落ち着いているが、喉の奥のほうで固いものが揺れている。


「ここ三日のあいだに、森からの避難者は《七十八名》。

 そのうち、ドライアド・エルフなど森の民が六十一。

 残りは、森沿いで暮らしていた人間たちです」


 黒板の横に貼られた紙には、数字がきちんと並べられている。

 「避難者」「仮宿」「治療待ち」「食糧配分」。

 数字の列に、少しだけ「足りていない」が混じり始めていた。


「森の中でのモンスター遭遇報告は、一気に減りました」

 ユーマは別の紙を指でたどる。

「代わりに、森沿いの畑、外縁の道、川筋での《視認だけの影》が増えています。

 ――これは、ガルドさんから」


 壇の下で、巨躯の男が立ち上がった。

 ガルド・ストライヴ。市冒険者局長にして、防衛局長。

 斧を持っていなくても、彼の肩幅は戦場を連想させる。


「森ん中で暴れてた連中が、静かになったと思えば……」

 低い声が大講堂に沈む。

「代わりに、“見えるだけで襲ってこない”影が、外に出始めた。鳥も鳴かん。獣の通り道も変わってる」


 椅子の列のあちこちで、小さなざわめき。

 子どもの肩を抱き寄せる母親の手が強くなる。


「静かな森は、休んでる森じゃねぇ」

 ガルドははっきり言った。

「“何かとぶつかってる最中”の森だ。中で何が起きてるか、俺たちは知らない。知らないまま、ここに近づいてくる何かを待つつもりはない」


 彼は壇上のユーマを見た。

 視線が交わる。


「だから――調査隊を出す。今回は、桜盾だけでも、冒険者だけでも足りない」


 視線が、森の民へと向かう。



 半円の席の一角。

 生気を取り戻しつつあるドライアドたちが、静かにこちらを見ていた。


 肌は樹皮のように少しひび割れ、髪には枯れかけた葉と新芽が同居している。

 リュミエと呼ばれるドライアドの女が、膝の上に置いた手を強く握った。


「……森は、私たちを嫌って外へ押し出したわけではありません」


 彼女の声は、囁きにも似ていたが、講堂の隅々まで届いた。


「根の奥で、“知らない音”が鳴りました。土が、ぎしぎしと軋むような。

 その揺れに、私たちは立っていられず、外へ出されました。

 森は、私たちを守ろうとしたのかもしれません」


 老エルフのアーヴィルが、横でうなずく。

 長い耳に、森風の名残が揺れた。


「森核の響きが、いったん消えた。……わしの記憶にある限り、三百年はなかったことじゃ」

 ひび割れた声が続く。

「森は、何かに触れられ、黙り込んでおる。黙ったまま、外側を強張らせておる」


 ユーマは黒板の端に短く書き足す。


 《森核の沈黙》《内部異常の可能性大》。


「――だから、私たちも同行します」

 リュミエが言った。

「森は、私たちの故郷です。見捨てることはできません」


「エルフもだ」

 アーヴィルは短くつぶやく。

「森が変わるなら、その“変わり方”を知らずにはいられん」


 大講堂の空気が、さらに重くなった。



「……では、隊の編成に入ります」


 ユーマはひとつ深呼吸してから、視線を冒険者席へ向けた。


「ガルドさん。名を、お願いします」


「おう」


 ガルドは腰に差していた巻紙を広げ、声を張った。


「《赤糸団》――ドラン、レイナ、オルド、カム」


 槍を布で巻いた長身の男が、一歩、前へ出る。

 ドラン。以前、森の“跳ねた夜”に遭遇した張本人だ。

 その隣で、魔力痕跡を読むレイナが、真剣な目でガルドを見上げる。

 大盾のオルドは無言で頷き、縄術のカムは腰のロープを軽く叩いた。


「《白灯組》――ノア、リュス、タリス」


 白衣の袖を短く縛ったヒーラーが、胸の前で手を合わせて会釈した。

 ノア。その手は震えていないが、目の奥に緊張が宿っている。

 走者リュスは足首の包帯を締め直し、杖使いのタリスは杖の先を床に軽く触れさせた。


「《風切り》――セラ、ミナ、ゼル」


 風刃の短剣を腰に提げたセラが、ひらりと列から抜け出る。

 双槍のミナは静かに槍を立て、風読みのゼルは目を細めて窓の外の空を見た。

 風は、やはり妙に重い。


「そして――」


 ガルドの声が少しだけ低くなる。


「Aランク、《蒼樹の刃》。

 レオン、セレス、ミラ」


 前衛レオンが、飄々とした笑みを浮かべて歩み出る。

 エルフの狙撃手セレスは、背負った弓を軽く叩いてみせただけだが、その目はすでに森の奥を見ていた。

 ドライアドの血を引くミラは、胸に手を当てると、ほんの一瞬、苦しげに眉を寄せた。


「森の痛みが、まだ消えていない……」

 彼女の小さな呟きに、近くの者が息を呑む。


「Bランク、《ロウの詩人隊》。

 ロウ、イナ、ダグ」


 ロウが手にした小さな弦楽器を鳴らしかけて、すぐにやめる。

 真面目なときにふざける男ではない。

 斥候イナが軽く片膝を折り、ダグは新調された小盾の縁を指で撫でた。


「Cランク、《淡き月の輪》。

 サーシャ、トマ、ノエル」


 まだ若い魔術師サーシャは、緊張で喉を鳴らしながらも前に出た。

 トマは桜盾の訓練服に近い装備で槍を抱え、ノエルは荷袋を背負ったまま頭を下げる。


 ――これで、冒険者は七パーティ、二十一名。


 ユーマは確認するように数え、今度は桜盾に視線を移した。


「桜盾からは?」


 アストが立ち上がる。

 朝の訓練で土で汚れたままの靴。胸当ては外しているが、背筋はまっすぐだった。


「桜盾、本隊から八名。全員、森沿いの巡回経験ありだ」

 彼は名前を読み上げる代わりに、簡潔に役割だけ告げていく。

「盾持ち四、槍二、弓一、伝令一。――隊列の“骨”をこちらで持つ」


 ガルドが頷く。

「統率は任せる。森の中の“生き残り方”は、こっちが出す」


 ユーマは最後に、森の民の席を見る。


「リュミエさん、アーヴィルさん。同行してもらえますか」


「もちろんです」

 リュミエが立ち上がる。枝の腕に、まだ包帯が残っている。

「私は森の“外縁”まで。あの沈黙の境界までは、一緒に行けるはずです」


「わしもだ」

 アーヴィルが杖を握りしめる。

「中へは若い者をやる。リリエル」


 名を呼ばれたエルフの女弓手が、一歩前に出た。


「森の鳥が戻ってくる場所と、戻らない場所――それを、見分けてみせます」


「精霊も送ります」

 桜精院の巫女エシルが、静かに立った。

「風精フルナ、水精ソル。目に見えぬ流れの変化を、私のところに伝えさせます」


 こうして、《人間》《森の民》《精霊》。

 三つの系統が揃った。



「……では、合同隊の目的を改めて確認します」


 ユーマが黒板の前に立ち、白墨を握る。


「一、森核周辺の異常の確認。

 二、森から押し出された民の“理由”の把握。

 三、街への直接的な危険がどれほどかの測定。

 四、救助可能者がいれば救出。

 五、必要と判断されれば、戻ったのちに防衛線と避難計画の再構築」


 白墨の音が止む。


「命を捨てる旅ではありません」

 ユーマははっきりと言った。

「戻ってきて、ここで報告してもらうことが、もっとも重要な仕事です」


 ざわめきの中から、ひとつの笑い声が上がる。


「危険手当は?」


 レオンだ。

 場違いな軽口のようでいて、それは多くの冒険者が聞きたかった現実的な問いだった。


 ユーマは、用意していた紙を一枚、めくる。


「すでに決めてあります。森境界線までの通常手当は二倍。

 異常区域への侵入が確認された場合、その瞬間から三倍。

 死亡・重傷の場合、遺族補償は備蓄基金税と防衛積立から優先して支払う。

 ――数字は今日中に掲示板に出します」


 レオンの笑みが、今度は少しだけ真面目なものになる。

「本気だな、この街は」


 ロウが指先で弦を弾き、優しく言葉を添えた。

「命を賭ける場所に、“帰る場所”が数で示されるってのは、悪くない」



 会議は決して荒れなかった。

 代わりに、一人ひとりの呼吸が、少しずつ重くなっていく。


 母親の席から声が飛ぶ。


「あの……」


 ユーマが顔を向ける。

 ミルクグラス区の、子どもを膝に乗せた女だ。


「もし……もし、誰かが戻ってこられなかったとき、その人の家は、ちゃんと守られますか?」


 講堂の空気が凍った。

 誰も口に出そうとしなかった問いが、ついに投げられた。


 ユーマが返事をするより早く、アストが立ち上がった。


「守る」


 いつもの低い声が、今度は一段強く響く。


「戻れなかったなら、その分まで桜盾が働く。税は、そのために使う。

 遺族の家の屋根は抜かせない。子どもの食卓を空にはさせない。

 ――それは、俺が命令として受け持つ」


 彼は続けた。


「だからこそ、ここにいる連中には“帰る努力”を命じる。

 英雄になれなんて言わん。帰ってきて、恐怖も失敗も全部話せ。

 その話が、次の守りになる」


 叫びではないが、声には確かな熱があった。

 膝の上の子どもが、母親の指を握りしめる。


 ユーマがその横で、静かに言葉を結んだ。


「スローライフは……危険がない場所のことではありません。

 危険があっても、戻れる場所を作り続けることです。

 そのために、今日、隊を出します」



「では――総指揮から、ひと言」


 ユーマに促され、ガルドが前へ出る。


 彼はしばらく、何も言わなかった。

 冒険者たちの顔を一人ひとり見て、桜盾の若者の肩を、視線で叩く。


「森に入る」


 短い言葉。


「中で何を見るか、俺にもわからん。怖いか、と聞かれりゃ、怖い」


 ふだんよりほんの少しだけ口角を上げる。


「だがな――怖いものを“見に行かない”で待ってるほうが、もっと怖ぇ。

 だから、行く。戻るつもりで行く。戻るために、行く」


 彼は軽く斧の柄に触れた。今日は武器を持ち込んではいないのに、その仕草だけが癖のように残っている。


「隊列は俺が決める。だが、その中で何を感じたかは、それぞれのもんだ。

 戻ってきたら、全部話せ。格好悪いことも、怖かったことも、情けなかったことも。

 それを笑う街じゃねぇと、俺は知ってる」


 最後の一言に、大講堂にいた多くの者がうなずいた。



「……これをもって、《第二次・森境界合同調査隊》を正式に発足とします」


 ユーマの宣言に合わせて、エシルが小さな鐘を鳴らす。

 乾いた音が、一度だけ、講堂の空気を震わせた。


 立ち上がる椅子の音。革靴が床板を鳴らす。

 《赤糸団》《白灯組》《風切り》《蒼樹の刃》《ロウの詩人隊》《淡き月の輪》。

 桜盾の隊士たち。森の民たち。


 それぞれの胸の中に、違う恐怖と、違う決意があった。


 ドランは、前回森で見た“跳ねる影”を思い出して、奥歯を噛みしめる。

 ノアは、自分の癒しの魔法がどこまで通じるのか、不安を隠せない。

 セラは風を読み切れなかったときの自分を想像し、その未来を叩き壊すように拳を握る。

 レオンは冗談を言わず、ただ仲間の顔を確認していた。

 ロウは、どんな歌ならこの恐怖を少しだけ薄められるか、頭の中で旋律を探している。

 サーシャは、自分が感じる「魔力の穴」を、どう言葉にすればいいのかを考えていた。


 アストは屋根の梁を一度見上げてから、静かに呟く。


「……今度は、戻す」


 誰にも聞こえない声だった。

 だが、胸の奥で灯っているものは、旗の灯火と同じ色をしている。



 大講堂を出ると、外はもう夕方の色をしていた。


 ミルクグラス区から、パンの香りが風に乗ってくる。

 子どもたちが柵の向こうから、冒険者たちの背中を見ていた。


「行ってくる」

 トマが、見知った顔の少年に手を振る。

「すぐ帰ってくるよ」


「うそつけ。すぐではないでしょ」

 少年は笑いながらも、目のどこかで本気で心配している。


 ユーマは桜精院の階段の上に立ち、出立に向かう背中を見送った。

 その横に、リュミエとアーヴィルが並ぶ。


「街が、息を吸いましたね」

 リュミエが言う。

「吐き出すときに、どうか折れませんように」


「折らせん」

 アーヴィルが杖を軽く打ち鳴らす。

「若いのが行く。わしらは、戻る場所を守る」


 ユーマは静かに答えた。


「――帰る道は、必ず太らせます」


 その言葉は、森へ向かう隊の背中にも、残る者の胸にも、同じように沈んでいった。


 サクラリーヴという街が、はっきりとひとつの決断をした日だった。


第28話 境界を越える者たち


 夜の冷えがまだ土の奥に残っていた。

 西の丘の斜面に組まれた臨時の野営地は、息を殺したように静かだった。


 桜精院からここまで続いている桜の苗木の列——森緩衝帯の“始まり”——は、ここでいったん途切れている。ここから先は、森だ。


 枝を並べただけの簡素な柵の向こうに、黒々とした木々の壁がある。

 その向こうは、まだ誰も知らない“沈黙域”。


「……揃ったな」


 ガルド・ストライヴが短く言った。

 桜盾教練長にして、いまや「サクラリーヴ防衛局長」と呼ばれ始めた男。厚い前掛けを外し、代わりによく磨かれた斧を背負っている。


 彼の前に、冒険者たちが整列していた。


「Aランク《蒼樹の刃》、集合完了」


 前衛のレオンが、己の胸を拳で叩き、ガルドに敬礼する。

 少し後ろに、長身のエルフの狙撃手セレスが弓を抱え、その隣にドライアド系の癒やし手ミラが柔らかい表情で立つ。

 レオンの鎧は磨かれているが、新品ではない傷がいくつも刻まれていた。

 それが彼らの実績、そのままの勲章だ。


「Bランク《ロウの詩人隊》、待機中」


 地図板を小脇に抱えたロウが、いつもの飄々とした笑みを浮かべて手を上げる。

 斥候のイナはすでに周囲の気配を探っているのか、目を細めて風の音に耳を澄ませていた。

 小盾使いのダグは寡黙だが、腰の小盾と短剣の位置は無駄なく整えられている。


「Cランク《淡き月の輪》、問題なし」


 サーシャが一歩前に出た。

 栗色の髪を布でまとめ、胸元に小さな水晶石を下げている。魔力感知用の石だ。

 背後には槍使いのトマ——桜盾志望の若者——と、荷物持ち兼料理係のノエルが大きな背嚢をしょって立っていた。鍋と包丁が揺れてカチャリと鳴る。


 さらに、その横に三つの小さな隊が並ぶ。


「《赤糸団》——ドラン、レイナ、オルド、カム。森側の実戦経験は多い。前線と斜めの位置取りを担当する」


 長身の槍使いドランが、布で巻かれた槍を軽く持ち上げた。


「《白灯組》——ノア、リュス、タリス。視界と回復、後方支援を受け持つ」


 白衣の袖を短く縛ったヒーラーのリュスが、小さく会釈した。


「《風切り》——レン、セラ、ミナ、ゼル。風の流れと高所からの警戒」


 銀髪のレンが弓を肩に乗せて笑う。

「沈黙してる森でも、風までは誤魔化せないさ」


 ガルドは彼らの顔を、順に見ていった。

 誰一人として、笑いながらも“覚悟”を欠いてはいない。


「予定通りだな」


 低く呟いたその時、後方から足音が近づいてきた。


「お待たせしました」


 レオンの背後で、セレスが振り向く。

 桜精院の簡素な法衣をまとった巫女——エシル・ルミナが小さな祈祷具を胸に抱えていた。

 その後ろからは、ユーマも歩いてくる。外套の裾には土埃がついている。街からここまで、自分の足で測ってやって来たのだ。


「本当に来るとは思わなかったわよ、市政局長さん」


 ミレイが肩を竦め、半ば呆れたように笑った。


「さすがに中までは行かないよ。ただ、“境界線までは”自分の目で見ておきたい」


 ユーマは答え、冒険者たちを見回した。

 若い顔も、古傷を刻んだ顔も、皆一様に彼を見返してくる。


「今日は、森の“内側”に深く入るつもりはありません。

 目的は三つ」


 ユーマは指を三本立てた。


「一、森の沈黙帯——《沈静圏》の正確な境界線を測ること。

 二、その手前までの安全な“戻り道”を確定させること。

 三、森がこちらをどう見ているのか、気配を掴むこと」


 沈静圏——今はそう呼ぶことにした。

 森が自らの都合で“音を止めている”帯。


「線は、すでに街で引かれた。

 今日は、その線が“どれだけ妥当か”を確かめる」


 ロウが端で「線の実地検証、ってところだな」とぼそり。


「戻ってくること。

 それが今日の最優先です」


 ユーマははっきりと言った。


「何があっても、全員で戻る。

 原因を突き止めるのは、また次の段階でもいい。

 ——帰る街を維持することが、私たちのいちばんの仕事だから」


 その言葉に、レオンが真面目な顔で頷き、レンが「了解」と肩を回した。

 ガルドは、ほんのわずかに口角を上げる。


「エシル」


 ユーマに呼ばれ、エシルが一歩前へ。


「祈りを。短くて構わない」


 彼女は胸の祈祷具をそっと持ち上げ、目を閉じた。


「——ここから先へ行く者たちに、帰る足をください。

 進むための勇気ではなく、戻るための勇気を。

 目を奪うものから視線を返すための意思と、耳を塞がぬ強さを。

 失ったものを数えるのではなく、守れたものを数えられる心を」


 短く、静かな祈り。

 それでいて、言葉の一本一本は胸に刺さるように重い。


 風が一度、弱く吹いた。

 森の方向から。

 その風は、いつもの森からの湿った気配とは少し違っていた。


 冷たいのに、重くはない。

 様子を窺うような、慎重な触れ方。


「……行こう」


 ガルドが言った。



 森の手前までは、いつも通りの風景だった。


 牧草地の端を抜け、薬草採りたちがよく使う小道をたどる。

 枯れた枝、踏み固められた土、鳥の囀り。

 まだここは、“暮らしの延長”にある森だ。


「ここまでは、いつもの狩場だな」


 ドランが槍の石突きで軽く地面を叩く。

 小さな昆虫が驚いたように跳ね、草むらに逃げ込んだ。


「おい、トマ。顔が固いぞ」


 レオンが後ろを振り返り、桜盾志望の若者をからかった。

 トマは慌てて背筋を伸ばす。


「い、いや、その……森が黙るって、どういう感じかって……」


「言葉で聞くとな。実際は——」


 レンが片目を細めて前方を指差した。

「もうじき、わかる」


 森の奥から流れていた鳥のさえずりが、いつの間にか薄くなっていた。

 羽音も、枝の軋みも、遠ざかるように消えていく。


 代わりに——


「……耳鳴り?」


 サーシャが眉を寄せる。

 高くも低くもない、単調な“音の空白”が耳の奥に圧をかけてくる。


「音が“無い”というより、音が“押し返されている”感じね」


 ミナが細かく指を鳴らしながら言う。

 ぱち、ぱち、と指の鳴る音が、ある地点を境に急に弱くなるのがわかった。


「ここだ」


 ノアが足を止めた。

 地面に目立った印はない。

 ただ、半歩先から空気の重さが違う。


「《淡き月》、どう?」


「……魔力の流れ、急に薄くなってる」


 サーシャが胸元の水晶を握り、目を閉じた。

 水晶の中の光が、ちりちりと微弱に瞬く。


「本来なら、木の根から上がってくるはずの“地の魔力”が……ここから先、下へ沈んでる。

 まるで、森が自分で自分を押し沈めてるみたい」


「自分で自分を、ね」


 ロウが呟いた。


「霧の中に入っていくんじゃなくて……“霧の底”に降りていくような感覚じゃないか?」


 レオンが冗談めかして言うと、セレスが彼の肩をつついた。


「それ、あんまり縁起がよくない例え」


「悪かった」


 軽口さえ、ここでは妙に響き方が違う。


 ユーマは一歩前へ出た。

 森側から戻ってきたレンたちが、わずかに身を固くした。


「ここから先は、《沈静圏》の“外縁”ということでいい?」


 ノアが頷く。

「はい。ここを境に、体調不良や意識のぼやけが出始めます。

 今日は、安全のために“二つの線”を引きたい」


「二つ?」


「一つ目は、今ユーマさんが立っている地点。

 『街の人が入っていいのはここまで』っていう、都市計画上の境界線。

 二つ目は、ここからさらに十数歩先——“調査隊が踏み込む線”。

 その先は、今日の目的じゃない」


 レンが地面に短い棒で線を引いた。


「ここまでが“街”。ここから先が“調査隊”。

 さらにその先が、“森”だ」


「『森』はまた別枠なのね」


 ノエルが緊張を紛らわせるように笑った。

 けれど笑いはすぐに飲み込まれる。

 線の向こうから漂ってくる“沈黙”が、冗談を長居させてくれない。


「……よし」


 ユーマは腰の小さな袋から白い粉を取り出した。

 臼で挽いた石灰と、干した桜の花弁を混ぜた粉だ。


「これは街側の線として“印”を置いていく。

 みんなは、その先へ行ってくれ」


「了解」


 ガルドが頷き、冒険者たちを振り返った。


「これより先、隊列はこうだ。

 前衛はレオンとドラン。右斜めに《赤糸団》。

 左斜めに《風切り》。

 中央に《蒼樹の刃》の残りと《ロウの詩人隊》。

 後列に《淡き月の輪》と《白灯組》。

 トマ、お前は前衛の後ろ、一歩下がった位置を維持しろ。焦るな」


「は、はい!」


「ロウ、地図の更新は細かく頼む。

 イナは戻り道の目印を——だが、木を傷つけすぎるな。森を必要以上に刺激するなよ」


「了解。……丸印と三角印で“行き”“戻り”を分ける」


「サーシャは魔力の流れに集中。

 変化があったらすぐ言え。

 ノエルは、隊の体調を見ておけ。顔色、歩き方、声の調子。

 リュスは、頭痛や吐き気に速攻で対処できるよう準備」


 矢継ぎ早に出される指示に、皆が短く返事をしながら持ち場を整えていく。


 ユーマはその様子を見届けると、ガルドに近づいた。


「ガルド。……頼む」


「ああ」


 ガルドの返事は短い。

 だが、それだけで十分だった。


「“線のこちら側”は任せろ。

 お前はお前の仕事をしろ。数字と街を守る仕事を」


 ユーマは笑った。疲れを滲ませながらも、どこか清々しい笑みだった。


「行ってきます」


 トマがユーマに頭を下げた。

 まだ少年と言っていい年齢だ。

 だが、その目には明確な意志があった。


「必ず帰ってこい。……君の盾が足りない分は、街が補う」


 ユーマの言葉に、トマは少し目を丸くし、それから力強く頷いた。



 境界線を一歩、越えた。


 最初に変化を感じたのは、イナだった。


「……脚が、少し重くなる。けど、進めないほどじゃない」


 彼女は足首を軽く回し、歩幅を微調整する。

 すぐ後ろを歩くロウが、足音の変化を紙に記録した。


「音の吸われ方が変だな。

 土を踏んだ音が、空気の中で“広がらない”」


「風の流れも偏っている」


 レンが低く言う。

「樹の間を抜ける風が、みんな同じ方向に曲がっていく。

 まるで、森のどこか一点に吸われているみたいだ」


「どこか一点?」


 セレスが弓を握り直す。


「ああ。……今のところ、具体的な位置はわからない。ただ——」


 サーシャが突然立ち止まった。

 胸元の水晶石が、じわり、と熱を持つ。


「どうした?」


「魔力の……“穴”。」


 サーシャは辛そうに眉間を押さえた。


「本来なら森全体に薄く広がっているはずの魔力が、

 どこか一箇所に吸い込まれてる。

 そのせいで、ここは“魔力の影”みたいに薄くなってる」


「“影”か。嫌な言葉だな」


 ダグが小さくぼやいた。


「でも、まだ進める。……危険域ではないと思う。

 ただし、長居はしたくない場所」


 サーシャの分析に、ガルドは短く頷いた。


「予定通り、沈静圏の“外縁”を測る。

 無理はしない」


 森の中は、見覚えのある木立のはずなのに、どこか“違う場所”のように思えた。

 枝葉は風に揺れているのに、その葉擦れの音がほとんど耳に届かない。


 セレスが試しに、樹の幹を軽く矢で叩いた。

 コツ、と乾いた音がしたはずなのに、その響きはすぐにそこで消える。


「……音が、“奥へ行かない”」


「奥へ行けないのは、音だけじゃないかもしれないな」


 ロウが紙に何かを書き付けながら呟いた。


「戻り道の印は?」


「つけてる」


 イナが振り返る。

 木の幹に小さな布切れが括り付けられている。

 赤い布は、森の緑の中でよく目立った。


「森が“動き出したら”わからないけどね」


 その言葉に、トマがごくりと喉を鳴らした。

 レオンが小さく肩を叩く。


「今はまだ動いてない。……だから、その隙に線を測るんだろ」


 その時だった。


「……止まって」


 ミラの声が、後列から届いた。

 普段は柔らかな声音が、今はかすかに震えている。


 全員が足を止める。

 ミラはそっと地面に片膝をつき、手のひらを土に当てた。


「この先、木の“根”が、全部同じ方向へ絡んでる。

 自然じゃない。

 普通は、水のある方へバラバラに伸びるのに……ここでは、どの根も、“何か”に縛られてる」


「縛られてる?」


「うまく説明できない。

 でも、森が“何かを守っている”んじゃなくて……

 “何かに抑え込まれている”感じ」


 ミラの言葉で、空気が一段重くなった。


「今日はそこまでは踏み込まない」


 ガルドが判断を下す。

「だが、その直前までの位置は掴んでおきたい。

 そこが“線”だ」


 沈静圏の外縁をなぞるように、彼らはゆっくりと歩いていく。

 ノアが小声で距離を読み上げ、ロウが地図板に記録する。

 イナが布切れを括り付け、ノエルが皆の頬の色を確認する。


「頭痛は?」


「ちょっと重いけど、耐えられるレベル」


「吐き気は?」


「まだない。けど、長くいたくはない」


 リュスが回復薬を薄めて渡す。

 森は、相変わらず何も仕掛けてこない。

 ただ——じっと、黙って彼らを見ているように感じられた。



 どれくらい歩いただろうか。


 霧は出ていないのに、視界の奥がぼんやりしてくる。

 木々の間に差し込む光が、少し緑がかって見えた。


「……ここだな」


 ガルドが立ち止まった。

 理由は感覚でわかる。


 この一歩先から、空気が変わる。

 それまで“薄い”と感じていた重さが、一気に“濃く”なる。

 頭の中で、誰かが低い鐘を鳴らしているような圧。


「これ以上は、今日の目的を超える」


 セレスが顔をしかめた。

「矢を放っても、途中で“重さ”に引っかかりそう」


「魔力もここから先は、完全に“底”へ落ちてる」


 サーシャの声はかすかだ。


 レンが、振り返って言った。


「沈静圏“本体”の入口、ってところか。

 ここに印をつけて、今日は戻る?」


「ああ。ここを“今日の線”とする」


 ガルドが腰の袋から、ユーマと同じ白い粉を取り出す。

 森側用に渡されていたものだ。

 地面に円を描くのではなく、小さな十字を刻むように撒いていく。


「ここは、“今は越えない境界だ”」


 その時——ノエルが小さな悲鳴を上げた。


「な、何これ……!」


 彼女の足元、土の上に転がっていたもの。

 それは、獣の骨ではなかった。


 干からびた、木の根のようなもの。

 だが先端には、“指”の形をした節があった。


「……人間の、指の骨?」


 トマが息を呑んだ。


「いや、違う」


 ミラが近づき、慎重にそれを見る。


「骨の形をしてるけど、材質は木。

 でも、ただの木じゃない。

 “森に捨てられた何か”が、木に変わったみたい」


 それは、森が何かを“拒絶して”吐き出した残骸のように見えた。


「今日は持ち帰らない」


 ガルドが即座に言った。


「見なかったことにはしない。

 だが、触るのはまだ早い。

 森が何を“外へ出そうとしている”のかがわからない」


「写真……じゃないけど、形だけ写しておくわ」


 ロウが紙にすばやくスケッチを取る。

 イナが周囲の地面に、わかりやすい印を残した。


「……戻ろう」


 ガルドの言葉に、誰も反対しなかった。



 戻り道は、行きよりも早かった。

 足取りを急いだからではない。


 沈静圏を離れるにつれて、頭痛が引き、耳の圧が軽くなる。

 それにつれて、誰もが“早く街の空気を吸いたい”という気持ちを抑えきれなくなっていた。


「戻り道の印、全部そのまま」


 イナが確認するたびに、トマはほっと息を吐いた。


 途中、レンがふと立ち止まった。


「……風向きが変わった」


「悪い方に?」


「いや」


 レンは少し考えてから、首を振る。


「さっきまで、“中へ吸われる”風だった。

 今は、“中から外へ押し返そうとしている”感じが少し混じってる」


 セレスが眉を上げた。


「それって、“もう来るな”ってことじゃないの?」


「さぁな。

 あるいは、“今日はここまででいい”って言われてるのかも」


 レンの曖昧な冗談に、誰も笑いはしなかった。

 代わりに、少しだけ肩の力が抜けた。


 森を抜け、牧草地の匂いが鼻をくすぐった瞬間、

 全員の足取りが露骨に軽くなった。


「……帰ってきた」


 トマがぽつりと呟く。

 その声には、ほとんど涙のような安堵が混じっていた。


 丘の上の臨時野営地には、ユーマとエシル、ミレイが待っていた。

 彼らの姿が見えた途端、隊の中に目に見えない“弛緩”が走る。


「全員、戻りました」


 レオンが報告する。

 誰一人欠けていない。

 それを確認して、ガルドはようやく深く息を吐いた。


「どうだった?」


 ユーマの問いに、ガルドは短く答える。


「森は、まだ黙っている。

 だが、“中で何かが抑えられている”のは確かだ。

 沈静圏の外縁は測った。

 ……詳しくは、後で桜精院で話そう」


「了解」


 ユーマは頷き、一人一人の顔を見て回った。


「頭痛は?」


「ありましたが、今はほぼ治まっています」


 リュスが答える。


「吐き気、眩暈は?」


「長くいたら危なかったかも。でも、今日は大丈夫」


 サーシャが少し疲れた笑みを見せた。


「わかった。

 ——ありがとう。全員、よく戻ってきてくれました」


 ユーマが深く頭を下げた。

 市政の長としてではなく、一人の街の人間として。


 トマがその姿を見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。


(守る、ってこういうことなんだな)


 剣や槍だけじゃない。

 線を引くこと。

 決めること。

 謝り、感謝し、また明日へ仕事を残すこと。



 夕方、桜精院の会議室。


 森で記録した地図が机に広げられ、ユーマとガルド、ロウ、ノア、ミラ、サーシャ、エシルが集まっていた。


「沈静圏の外縁は、この線。

 街側の“入ってはいけない線”は、ここに重ねる」


 ユーマがチョークで二重線を描く。


「森が“沈黙している”帯と、街が“踏み込まない”と決める帯。

 二つの意志が重なる場所だ」


「指みたいな木の根の残骸は?」


 ミレイが問うと、ロウが紙を差し出した。

 そこには、ノエルが見つけた“それ”のスケッチが描かれている。


「森の外側には、ああいうものは見当たりませんでした。

 沈静圏の“縁”にだけ落ちていた。

 何かを……『弾き返した痕』かもしれません」


 ミラが静かに言う。


「森が、何かを拒絶して、吐き出した。

 その“捨てられた何か”が、木の形をしていた。

 ……それが、人のものだったのか、そうでないのかは、まだ判断できません」


「今は触らない。

 森の“機嫌”を確かめながら、少しずつ情報を増やしていこう」


 ユーマは紙を閉じる。


「森が完全に敵だとは、まだ言い切れない。

 かといって、味方とも言えない。

 ——だからこそ、“こちら側”の足場を固めておく必要がある」


 窓の外で、夕焼けが街を染めていた。

 桜精院の屋根、緩衝帯の苗木の列、水路を渡る舟。

 それらが、沈黙した森の手前で、確かに“動いて”いる。


「境界は越えた。

 けれどまだ、“戻れない場所”には踏み込んでいない」


 ユーマは呟いた。


「次に越える境界は、もっと慎重に選ばなきゃいけない。

 森の都合だけじゃなく、街の都合だけでもなく——

 両方を見ながら」


 ガルドが立ち上がる。


「なら、俺たちは明日からも訓練だ。

 森が動こうが動くまいが、こっちの強さは積み上げるしかない」


「街側の線は、今夜のうちに掲示板に出すわ」


 ミレイが地図を持ち上げる。

「猟師も薬草採りも、きっと文句を言うでしょうけどね」


「文句を言えるうちは、まだ大丈夫です」


 エシルが微笑んだ。


「文句も言えなくなった時が、本当の危機ですから」


 ユーマはその言葉に頷き、ちらりと森の方向を見やった。


 沈黙の森。

 境界を越えた者たち。

 越えた先で見つけた“まだ触れないもの”。


 ——次に踏み出す一歩は、きっと、もっと重くなる。


 だが、今日全員で戻ってこられたことが、

 その一歩を支える“土台”になるはずだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る